最優秀賞・70周年特別賞
文部科学大臣賞

祖母の味への挑戦

宮城県仙台市立仙台青陵中等教育学校

2年 栗田 遼人

今年の4月、家に一本の電話がかかってきた。それは、私の作った味噌焼きおにぎりのお弁当を商品化して販売しないかという誘いだった。

私には遠方に住む祖母がいて、お盆や正月には訪ねて行き大勢のいとこたちと楽しい時を過ごしていた。祖母はいつも孫の私たちのことを気にかけてくれていて、お腹空いてないか?と遊びの合間に食べられるおやつを作ってくれた。その中でも、私が好きでよく頼んで作ってもらっていたのが『味噌焼きおにぎり』だった。しかし祖母は1年前に亡くなり、あの味噌焼きおにぎりはもう食べることのできない幻の味になってしまった。コロナでなかなか行き来ができない時期の出来事だった。

そこで去年の夏、祖母を思い、あの幻の焼きおにぎりの味を再現してみようと思い立ち自分なりに作ってみた。けれど実際に作ってみると祖母のおにぎりの味とは程遠いものが出来上がった。塩辛く、パリパリした食感もない全く違うものとなってしまった。

ちょうど夏休みの家庭科の宿題としてお弁当を作り、それを紹介するエピソードをまとめるというものがあった。そこで祖母の味の再現を求めた焼きおにぎりを入れてお弁当を作り、エピソードを添えて提出したところ、その作文が「弁当の日おいしい記憶のエピソード」特別賞を受賞した上、河北新報の記事として取り上げられた。一度目の驚きである。

二度目の驚きは私の家に一本の電話がかかってきたことだ。

電話は地元の大手百貨店「藤崎」からだった。新聞の記事がきっかけだったらしい。祖母の味に共感していただき、いまだ完成していない祖母の味を再現するお手伝いをしていただけるという申し出だった。

4月。正式に打ち合わせが行われた。なかなか祖母の味にたどり着けない私のおにぎりに、百貨店のプロの料理人のアドバイスをもらって幻の味を再現する、一大プロジェクトだ。しかも最終的には、完成したおにぎりを詰めたお弁当を商品化して、広く祖母の味を知ってもらえることにもなった。

6月。まずは藤崎百貨店の方や栄養士の方々に私の作ったおにぎりを食べてもらい、祖母の焼きおにぎりの特徴について説明をした。そしてなかなか祖母の味にたどり着けない要因について聞いてもらった。

7月。いよいよ藤崎百貨店のプロが作る味噌焼きおにぎりの商品サンプルが完成した。試食してみると、びっくりするくらい祖母の味に近づいていた。教えてもらって、その作り方が自分とあまりに違っていて驚いた。おにぎりを崩さずに食べられるように二度焼きの工夫をしていたこと、おやつ感覚で食べられるようにと、とても甘い味付けをしていたことなど、今更ながらに祖母の優しさに気付かされた。そして商品となる弁当に一緒に合わせるおかずを決めた。祖母を思って弁当の具材を考えていると、なんだか祖母の食卓のメニューのように思えた。

8月。弁当サンプルに細かな修正が入り、百貨店主催の工程勉強会を開いてくれることになった。なんと販売する弁当に貼る「栄養成分表示」のカロリー計算のため、検査場へ同席させてもらえるのだ。場所は宮城県産業技術総合センター、東北に一つしかない「カロリーアンサー」という機械で、なんと実際に成分検査をさせてもらった。弁当の中身をすべてミンチ状にしカロリーアンサーに入れて、重量・カロリー・タンパク質・脂質・炭水化物・含水率・ナトリウム・塩分を測定した。こんなことがなければ入ることもできなかった場所、触ることもできなかった機械を使えて、とても貴重な経験ができたと思う。

調理をする方に聞いたのだが、通常の仙台味噌おにぎりは味噌2:砂糖1の割合で作るところが、祖母のおにぎりレシピは真逆の味噌1:砂糖2だったそうだ。おやつとして食べていたのでおはぎ感覚で作ってくれていたのかもしれない。そうだとしたら「いくつでも食べられる」と食べていたのだから、祖母のレシピは大当たりだったわけだ。

思えば、今年の夏に昨年はたどり着けなかった味噌焼きおにぎりの味に近づくことができたのは、たくさんの人の手を借りたからだ。祖母の焼きおにぎりをもう一度食べたいという願いを書いたことで賞をいただき、新聞に載り、さらに百貨店の方が声をかけてくれた。たくさんの縁が繋がって幻の味が実現した流れに、とても驚いている。

そして9月。敬老の日が来る。もう祖母の作った焼きおにぎりを食べることはできないが、今年は祖母を思いながら再現したおにぎりを食べようと思う。

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優秀賞

「違いに寄り添うこと」

青森県三沢市立第一中学校

3年 M形 紗那

何事もなかったような顔をして毎日を過ごしている私には一つ、周りには知られたくない、隠したいことがあった。それは、「日中ハーフ」。

私の母は中国人だ。つまり、日本と中国のハーフということだ。今、このような社会情勢の中で、どうしても差別されることがある。私が気にし始めたのは、3年前、新型コロナウイルスが流行した時だった。

私が小学6年生の時だった。私は日本人と中国人のハーフであり、見た目だけでは分からない。だから、誰にも知られていなかった。ある時、ニュースで「新型コロナウイルス」という言葉と「中国」という言葉が目に入ってきた。私は、少し嫌な予感がした......。

最初はみんな気にしていなかった。そんな様子が急変したのは、日本にコロナウイルスが流行し始めた時だった。私の予感は的中した。学校に行けば、「中国最低」だとか「さすが中国」とか「中国とは関わりたくないね。」など、笑いながら、みんなで楽しそうに話すのだ。私は空気を読んで、一緒に笑うことしかできなかった。心の中で、母に謝りながらも、こんなことをしている自分が腹立たしかった。

学校が終わって家に帰った私は、今日あったことを話すことができなかった。いつもとは違う私に異変を感じたのか、母は声を掛けてくれた。「どうしたの?学校で何かあったの?」心配そうに見つめる母に向かって、私は首をふる。「いつも通りだったよ。」口から出たのは、この言葉だった。もしかしたら、私は中国人の血が混ざっていることに恥を感じているのかもしれない。そういう思いが、さらに私を苦しめた。

私は、この苦しみから解放されたかった。楽に生活したいと思った。だから、友達に中国人とのハーフだということを打ち明けた。しかし、それは失敗だった。次の日には、そのことがクラス中に広まっていた。そして、とうとう、「中国人には近づくな。」そう言われた。悔しさが込み上げてきた。ただ中国人の血が入っているだけで、みんなとは何も変わらないのに。そう言われることが悔しかった。でも、私は耐え続け、ついに卒業。中学でもこんな日々を過ごすのかと憂うつだった。私は、新しい友達に「中国人とのハーフ」であることを打ち明けた。「え?そうなの!めっちゃうらやましい!二つ自分の国があるってことだね。」そういう言葉が返ってきたのだ。

私は苦しみから解放されたように体が軽くなった。そのままの自分を認められた気がした。

現在の社会では、多様性という言葉をよく耳にする。年齢や性別、国籍などが違う多種多様な人々がこの社会にいる。しかし、そのことに気付かず、自分の周りがすべてと思ってしまい、それ以外のものを排除までしてしまい、人を傷つけてしまうのだ。自分やその周りだけが全てだとは思わず見ることで新しい世界が広がるのではないだろうか。

私もそうだった。「ハーフ」は「半分」という意味にとらえられる。しかし、友達の「二つの国を持っている。」という表現で、マイナスにとらえていたものをプラスにとらえることができた。そして、大好きな母の国を大事に思えたのだ。

私は、将来中学校の教師になりたいと思っている。自分と同じような体験をしてしまう子どもがいない社会づくりに貢献するため、中学校の教師になって、子どもたちに伝えていきたいことがあるからだ。自分にはそれができると思う。今の社会では外見ではわからない障害や外国に対しての偏見から生まれる差別がある。もしかしたら、私たちが気付いていないところで悩みを抱えている人もいるのかもしれない。だからこそ、このような体験をした私なら助けを求めている人たちを理解し、声を掛けることができるはずだ。

そのためには、自分が感じたつらさも、声を掛けられたときのうれしさも心にしっかりと刻んでいきたい。多様性を認め、多様な子どもたちの気持ちの状況に寄り添える教師にいつかなれるように。

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優秀賞

24歳の私へ

岩手県釜石市立釜石中学校

2年 照井 妃奈

2008年5月31日、午後12時7分に3,056グラムで私は産まれました。小さいころの私の性格は天真爛漫で、いつも飛び跳ねてばかりだったので、よく母に怒られていたそうです。

しかし、私が1歳5カ月の時、突然左眼の病気が見つかりました。病名は「網膜芽細胞腫」という、15,000人に一人の確率の小児がんでした。命に関わる悪性腫瘍です。抗がん剤治療と眼の治療を毎月するか、眼の摘出手術をして義眼にするか、どちらかの選択をするしかなかったそうです。先生からはどちらを選んでも病気に終わりはないと言われましたが、それでも母は私の眼を残してあげたいと思い、岩手から東京の病院に毎月、新幹線で通う決意をしました。通い続けていく中でつらいこともあったそうです。治療をするために我慢しなければいけないこともあり、幼稚園に行ける日がとても少なくなりました。しかし、たくさんの先生、看護師さんに助けてもらったこと、入院した時に部屋が一緒だった子どもたちと友達になったこと、たくさんの感謝することがありました。何度も涙を流した分、たくさんの人たちとの出会いやありがとうがありました。小さいころの出来事だったので、私はあまり記憶にはなく、母からよく話を聞かされていました。母は、「誰かに何かをしてもらったら、ありがとうは必ずだよ。」が口癖で、私はいつも母に言われています。言われるたびに心の中で「わかっているよ!」とつい思ってしまうのですが、今考えてみると小さいころ、たくさんの人に助けられて感謝の思いを持ったことがあったから母はうるさく、何回も言っているのかもしれません。

2011年3月11日、東日本大震災が起こり新幹線が止まったため、眼の治療ができなくなりました。新幹線の再開を待ち続けて約2カ月後、やっと東京の病院へ治療に行くことができました。しかし、私の左眼には前回治療で消えていたはずの腫瘍がまたできていました。恐れていた「再発」でした。もうこれ以上眼を残すための治療はできないと先生が判断をし、私が5歳の時に左眼の摘出手術を行い、義眼になりました。母は長期間の治療に後悔したそうです。

当時、母は私の顔を見るたびに悲しくて悔しくて、今までやってきたことが無駄だったんじゃないかと、何度も泣きました。私は鏡を見て、自分の左眼がなくなっていることに気づくと大泣きしてしまったそうです。しばらく私が描いた絵は、左眼を黒く塗りつぶしたものでした。私はその話を聞いて、涙が止まりませんでした。母は後悔していると言っていましたが、私は母の判断は間違っていないと思います。私の病気に真っすぐ向き合い判断し、今も病気のことを考え、病気に負けないようにいつでも応援してくれる母には感謝の気持ちでいっぱいです。

去年、私が一番最初に入院した部屋で友達になった女の子が天国へ旅立ちました。なんだか、とても複雑な気持ちになりました。これからも、たくさんの人に支えられ、今まで生きてこられたことを当たり前と思わず、感謝しながら友達の分まで生きたいと改めて思いました。

私には将来の夢があります。それは、人を助ける仕事に就くということです。なぜかというと、自分が今までたくさんの人たちに助けられてきたので、今度は私が周りの人たちを助け、勇気づけるために働きたいと思ったからです。まだ、具体的に、やりたい仕事は決まっていませんが、これから人を助ける仕事について勉強し、その仕事について詳しく知ってから、自分がやってみたいと思った仕事に進みたいです。

最後に、24歳の私へ。

あなたは今、何をしていますか。先ほど書いた「人を助ける仕事」に就いているのでしょうか。14歳の私は病気に負けず、部活も勉強も一生懸命頑張っています。たまに母とぶつかることもありますが、充実した毎日を送っています。今の私には10年後の自分なんてまったく想像できません。14歳のころの夢を持ち続けてかなえたのかもしれない、夢はあきらめて違う道に進んだのかもしれない。どちらにしても、自分を助けてくれた周りの人たちや家族などには、「ありがとう。」を必ず伝えてください。「必ず」です。

これからも、私のために一生懸命助けてくれた人たちに感謝の気持ちを忘れず、さらに感謝される人にもなってください。

14歳の私より。

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優秀賞

19代目を引き継ぐ僕へ

秋田県大仙市立大曲西中学校

3年 佐藤 誉士

ビデオカメラの画面越しに、僕は母を映している。収めなきゃ。ちゃんと収めたい。普段とは全く違う姿。しゃきしゃき動いたかと思えば、おっちょこちょいな姿を披露する母。だが、今画面の中の母は、赤のちはやに朱色の袴。頭には金色の天冠。セミが鳴く7月のお祭りにもかかわらず、お宮の中で父の隣に涼しげに座っている。

あれは僕が幼かった頃、祖母が身につけていた衣装。物心がついてから、7月の例大祭は、宮司姿の父と巫女舞を舞う祖母を玄関で見送るのがいつものことだった。開始時刻が近づくと、お手伝いに来てくださる5人の禰宜(ねぎ)さんたちと一緒に、美しい緑の中、父たちは7人1列になってお宮に向かう。「ほら、たかちゃん。絵のようだよ。」毎年のように感動していた母。太鼓が鳴り、花火が打ちあがるといよいよ祭りの始まりだ。お宮で舞う祖母を、母は境内からカメラで撮っていた。だが今年舞うのは祖母ではなく母。しかもビデオカメラで撮っているのは僕。初めて見る母の巫女姿。祖母の役割だった巫女を、今、確かに母が引き継いでいる。画面越しの母を追いかけながら、ずっと僕の中にあった「いつも」の光景が、静かに動き始めているのを感じた。

僕の町内では昔から、例大祭前日に子どもみこしが行われている。小学生の頃は、毎年おみこしの楽しさを全身で味わっていたものだ。今年、母から声をかけられた。「おみこしの担ぎ手の人数が一人足りなくてね。放課後手伝ってくれない。」と。部活を引退したばかりで、早く帰る放課後にまだまだ違和感があった僕。空欄になってしまった放課後のカレンダーに書き込めるものが見つかったような気がして、なんだかとても嬉しかった。頼まれた役割がある、そう思うと、帰り道のペダルをこぐパワーも、いつもとは比べものにならなかった。そのぐらい僕ははりきっていた。おみこしに参加するなんて久しぶり。3年ぶりか。あのときのような、おみこしの楽しさに出会えるにちがいない、そう信じていた。

小学生の頃は、最初から最後まで楽しいことだらけ、それがおみこしのすべてだった。大人がどんな動きをしていたかなんて、何一つ気にしたことなどない。しかし、この夏の僕は違った。おみこしの4分の1の重さを担当しながら、おみこしだけではない重さを全身で味わう僕がいたのだ。3人のお父さんたちとのリズムがそろうように気を配る。休憩のたびに、熱中症対策やコロナ対策をするお母さんたち。沿道には、久しぶりのおみこしを嬉しそうに待っている地域の方たちがいる。今まで見えなかったものが見え始めた今年。おみこしを終えた僕は、「誉士君、すごく助かったよ。ありがとう。」とねぎらいの言葉もいただいた。小学生なら「暑い中、よくがんばったね。」の言葉だったのに。言葉も今年は変わったのだ。「いつも」のおみこしのつもりで手伝いをしたはずだったが、僕には初めての景色と初めての気持ちが広がる経験になった。

僕の家は代々宮司を務めている。神前の部屋には、祖父をはじめ宮司の格好をしたご先祖様の写真が飾られている。小さい頃から見慣れた風景だ。将来僕も継いでいくのだろうと思ってはいたものの、それは14歳の僕には、もっともっと先の「いつか」のことだった。

毎年行われている例大祭も、ここ数年は平日開催。登校日だった僕には、父と祖母のいる例大祭で止まっていた。祖父が亡くなり、父が宮司を引き継いだ。母に巫女舞を教えた年、祖母も亡くなった。幼かった頃のまま止まっていた例大祭は、新たな光景に書き換えられて動き出した。大人の手伝いのために特別に参加したおみこし、そして自分の目で見た母の巫女姿。二つの体験により、僕の中の「いつも」同じだった場面は動き出し、「いつか」考えようと思っていた未来は、大きく自分に近づいたように思う。家や地域の伝統は引き継がねばならないものという考えから、伝統を引き継いでいくことはすてきで嬉しいこと、大事に紡がれてきたものを喜んで引き継いでみたい、そう考えるようになった僕がここにいる。ぼんやりとした「いつか」だった自分の未来を今確かに感じ始めている。

妹は、母の巫女の練習風景を興味津々で見つめている。気がつくと、母と一緒に妹まで歌っているではないか。なんだか先を越された気持ちと同時に、なかなかやるなと誇らしい気持ちにもなった。「そうかそうか。たかちゃんが19代目か。」と目を細めてだっこしていたという祖父。僕は神前の祖父の写真にそっとつぶやいた。「おじいちゃん、おばあちゃん。僕も妹も二人みたいになりたいな。なってみせるね。」

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優秀賞

母の笑顔がみたい

山形県米沢市立第二中学校

2年 佐藤 未菜

母との楽しいドライブ。母は突然、「あの時は、つらかったな。」とつぶやいた。そして空が一瞬で暗くなったような表情で私の顔をのぞき込んだ。当時、小学5年生だった私はどきっとして、「どうしたの?なんかしたの?」と尋ねた。車は、ある病院の前にさしかかっていた。その病院こそが、母にとって忘れられない場所だったのだ。「未菜が2歳の時にね、急に脚が痛くなって手術をしたんだよ。ここ、太もものところ。未菜はまだ幼くてお母さんがいなくてつらい思いをするんじゃないかと心配だったなぁ......」私は、母の手術を詳しく聞いたことがなかったので、不安ではあったが聞きたいと思った。

車を止めると、母は先ほどとは違う表情で私を見つめて話してくれた。とても真剣な顔、普段見たことのない「母の顔」だった。「7時間もかかる太ももの骨の手術をしたんだよ。麻酔から目を覚ますと、泣き叫ぶくらい痛かったなあ。」以前から気になっていた母の太ももの傷が浮かんだ。きっと尋常ではない痛みだったのだろう。母は続けて、「太ももの病気は難病で、東北地方で手術できる医者がたった一人しかいなかったの。」私は母の話から、その手術がいかに困難で、痛みを伴うものかがよくわかった。私も小学3年生の時、喉と鼻の手術をしてとても苦しかったが、きっと比較できないほどの苦しみだったのだろう。

母は、術後2カ月間ベッドから降りることができず、1年間にも及ぶ過酷なリハビリを始めたという。「最初は叫ぶほど痛かったんだよ。でもね、お母さんが歩けるように支えてくれた人がいたの。」「えっ、誰?」「それはね、理学療法士さん。とっても優しく寄り添ってリハビリを頑張れるように支えてくれたの。感謝しかないんだ。あっ、未菜も優しいから理学療法士を目指してはどう?」

初めて聞く言葉「理学療法士」、その時は何も答えられなかった。しかし、この時「人に感謝される仕事」という言葉が心に響いた。調べてみると、主に病気や事故によって身体に障害や不自由を抱えた人や身体機能が低下した高齢者の方たちに、リハビリを指導して回復のサポートをするのが仕事だった。理学療法士になるには4年かかり、運動療法、物理療法、ADL練習など、かかせない学習内容がたくさんあった。改めて大変な仕事なのだと思うが、母と同じような苦しみを抱える人たちを助けたいという思いが溢れた。

さらに母から衝撃的な言葉を聞いた。「実はね、お母さんは、もう1回手術をしないといけないの。」その時、私は頭が真っ白になった。そして次の瞬間には、「私が理学療法士になって母を助けたい。絶対に理学療法士になる!」と何度も心の中で繰り返した。

私が理学療法士になれるのは早くても23歳。まだ、10年近くもある。母と二人三脚で、いや、私が母よりも何倍も頑張らなければならないと思っている。

中学2年生の今、私は一生懸命勉強を頑張っている。さらに、もう一つ心掛けていることがある。それは、みんなに優しく接して常に笑顔でいること。私が笑顔でなければ母も笑顔ではいられない。一日一日を明るい気持ちで迎えようと思っている。

理学療法士が支援する患者さんは、肉体的に傷ついているだけでなく、心も大きく傷つき、大きな不安を抱えているはずだ。母も、あまりの苦しさに何度も何度もリハビリを諦めそうになったと語っていた。理学療法士は医学的な専門知識だけではなくて、優しく丁寧に患者さんに寄り添うことが求められるに違いない。

私は、10年後の私に伝えたい。「もしミスをしたら、そこでしっかり学んで成長してね。笑顔を忘れるな。あなたを待っている患者さんたちに優しく寄り添ってあげてね。頑張れ未菜!」と。

私が理学療法士になることを願う母の姿は、何よりも強く私の背中を押してくれる。一生懸命勉強したい。たくさんの人との出会いを通して、もっともっと明るく優しい人になりたい。その先にきっと、大好きな母の満面の笑みが待っていると思う。さらに、母だけではなくたくさんの患者さんたちの支えになって笑顔を届けたい。そして、母を救ってくださった理学療法士の方のように、「ありがとう。」と心から言われる人になりたい。

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優秀賞

残していきたい大切なもの

福島県会津若松市立第一中学校

1年 池田 玲菜

私のふるさとは福島県大熊町です。とはいっても、私は2歳までしか住んでいなかったので、本当のふるさとの姿や、近所に住んでいらっしゃったはずの人たちの顔も覚えていません。今から11年以上前に起こった東日本大震災は、多くの人たちから、ふるさとも思い出も、伝統も、多くのものを一度に奪っていきました。私の知っている大熊町は、母の口から語られる話から想像するだけのものですが、とても美しく、人々が温かく、おいしい食べ物がたくさんある素敵な町です。

今では、他地域に住んで、そこで復興した「大熊の梨」や「キウイ」などが店先にも並ぶようになり、母が買ってきては、うれしそうに思い出話とともに食卓に上ります。

でも、今になっても復興されない伝統的な食品があります。それは「しいたけ味噌」です。これは、小学校5年生で行った調べ学習で初めて知ったものです。しかも、大熊町のしいたけ農家の方が「大熊町に特産品を作ろう」と思い、5年もの年月をかけて、さまざまに試行錯誤をして、何度も何度も失敗を繰り返しながら、ようやく理想の形に作り上げることができたものだそうです。製造者は自分が生まれ育ったふるさとを大事に思い、ふるさとの特産品として広くみんなに大熊町のことを知ってもらおうと思って作ったもので、その努力がつまったものだということです。母からも、そのおいしさについて聞くにつれ、自分たちで作りたいと考え、学校のみんなで実際に作ってみました。味見をしてくださった大熊町の方々から「おいしい」と評価していただきましたが、母に言わせると「もっともっと深い味わいで、ご飯にのせても、魚や豆腐にのせても、主役を引き立てながらも、きちんとだしの利いた味噌」だったそうです。

その味噌を作ってくださった方々の思いや、その特産品を愛していた人たちの思いをどうにかして伝えられないだろうかという考えが、あの頃から私の心の中にずうっと残っています。何度調べても、今は誰も作っていない「しいたけ味噌」です。製品の製造に5年もかけたというのに、震災で途絶えてしまっているという事実が残念でなりません。寂しさや、途絶えさせてはいけないのではないかという思いで、製造者が作ったというレシピを見ながら、何度も家で挑戦してみています。

調べ学習でわかった苦労や製造者の思い、実際に作ってみて感じた難しさなどを通して、改めて「だからこそ、震災で途切れてしまっていたことは、私たちが復活させなければならないのではないか。」と漠然と考えています。

少しずつ町が復興していっています。元々の住民も少しずつふるさとに戻っていき始めています。それでも、まだまだ道半ばです。町並みも変わり、写真に残っている家並みは見られません。私も将来的には大熊町に戻り、大熊町の住民として、町の完全復興のために貢献していきたいと考えています。そのとっかかりとして「しいたけ味噌」の復興が私の今の夢です。もちろん、それだけでなく、さまざまな伝統芸能や文化も私たちの手で復興させ、守っていきたいと考えています。

実は今年、大熊町で祭りが開催され、大熊町の無形民俗文化財の「熊川稚児鹿舞」も発表されたそうです。数年前から、新聞でも取り上げられ、避難している地域で練習に励んでいる人がたくさんいると聞いて、うらやましく思っていたものです。そのため、その祭りを見に行きたいと思っていたのですが、私も部活動の練習があったし、家族の予定が合わなかったことで、残念ながら見送りました。

でも、私には夢があります。いつか、見る側ではなく、主催者側として祭りを盛り上げていきたいと思っています。自分が生まれて2年間を過ごしたふるさとを「ここが私のふるさと大熊町です。」と胸を張って言えるようにしたいのです。家族が愛していたふるさとの素晴らしさを、いつの日にか、必ず自分の手で取り戻したいと思います。

それが今の私の夢であり、未来の自分に期待している願いです。その日まで、今できることに全力で取り組み、力を蓄えていくつもりです。

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優秀賞

父から学ぶ

新潟県湯沢町立湯沢中学校

1年 鈴木 千尋

私は幼い頃から百合に囲まれて生きてきた。なぜなら、父が百合農家だからだ。四六時中、百合と向き合い、百合と共に生きる。朝4時半から畑へ向かい、5時からは収穫。収穫した百合を出荷場に持ち帰り、水揚げを行う。8時から出荷用に向けて束ね作業、そして16時まで出荷。16時半から17時半まで植え込み、管理作業。夏場はこのようにして、早い時は夜の8時、遅い時は23時まで作業をしている。そんなふうに毎日忙しい父に対して不満を抱いたことはない。運動会に来てもらえなくても、遊びに連れて行ってもらえなくても、父は頑張っていると分かっていたし、できる限り、私と関わる時間をつくろうとしてくれているのが伝わっているからだ。仕事と私、どちらも大切にしてくれている。だからこそ、そんな父のことを私は努力家として尊敬している。しかし、それと同時に「私にはできない努力のやり方だなあ。」とも思っている。私には毎日、長時間暑さと闘うことなんて到底できない。だから「やはり、父の仕事を継ぐことはできない。」と思っている。

「努力」と一言にすると、同じものに思えるけれど「努力」の方法や意味は、いろいろありそうだと感じるようになった。

そんな、ある時「勉強ってどうやってる?」と、友人に聞かれた。その時は、私の勉強法を伝えたが、その後、改めて考えてみると、人に努力のやり方を教えるのは、本当にその人のためになるのかと疑問に感じた。というのは、人それぞれ、自分に合った方法があると思うからだ。

努力の方法について疑問に思い、父に二つ聞いてみた。

まず、「自分に合った努力のやり方」だ。「努力とは積み重ねの結集であり、とにかく時間をかけて粘り強く取り組むことだ。」と、父は言う。私から見た父は心配になるほど、百合に無我夢中で、人生を百合に捧げているように思える。

二つ目に聞いた内容は「自分が努力したことで成功したと思うこと」だ。

父の一番の成功は「神奈川県のメーカーと協力し、百合の花を長持ちさせる処理剤の開発に、5年掛けて、やっと全国に認めてもらえたことだ。」と言う。

私からしたら、努力は量ではなく、毎日続けられるかを大切な基準だと考えているので父の考えとは少し違うなと感じた。

そして、私からしたら、5年も続けて同じことを追い求めることが信じられない。それだけの長い期間、一つのことを追い求めるというのは、私は、あまり得意ではない。とても父のように努力することはできないと思う。

日々、頑張る父の姿を見て、私は父が努力できるのは「成し遂げたいこと」「目指す夢」があるからだと感じた。父にとっては、それが「美しく、長く咲く百合」なのではないか。「成し遂げたい。」と思う気持ちの強さが、努力のやり方につながっていく。頭で考えて当たり前のことだが、実際に父の姿からこれが、私の心に響いた。

冒頭で、私は「父を尊敬している」と言ったが、そう感じた、ある出来事がある。兄の結婚式の時だった。式場に華やかに飾られた、たくさんの百合。真っ白な百合。それを見て感動した。その時、幼いながらに、私は「百合は父の努力の結晶だ。」と心から思った。そう考えてみると、百合で輝く式場は、より一層綺麗に見えた。父の、兄への祝福の思いが会場いっぱいに広がっていた。

今、私には、父のように「成し遂げたい」と、強く思うものは、まだない。日々、目の前のことに精いっぱい取り組んでいるだけだ。しかし、「努力している」ということについては、程度の差はあれ、父と同じだ。父には父の努力のやり方があるように、私には、13歳の今の私ができる努力のやり方があると思う。

今後「成し遂げたい」と強く思うものが見つけられるかもしれない。また、たくさんの「努力をしなくてはならない場面」が訪れるかもしれない。そんな時は、父から学んだように、自分なりの努力のやり方で一歩ずつ成長していきたい。

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秀賞

伝統芸能を極める

青森県黒石市立中郷中学校

1年 北山 美芽莉

心の中に気付けば流れる三味線の音。私は5歳から津軽手踊りを始めた。津軽手踊りは見たこともなくて知らなかったけれど、祖母に勧められて見学に行った時に見たお姉さんたちと師匠の踊りにすっかり魅了され「絶対やりたい!」と、母に頼み込んだらしい。

手踊りの基本となる動きが丸ごと全部詰まった津軽じょんから節。この曲が一人で踊れるようになった頃には私はすっかり手踊りに夢中で、最初は全部が呪文のようにしか聴こえなかった津軽民謡も「津軽じょんから節」「津軽小原節」「津軽よされ節」「津軽あいや節」「津軽三下がり」の「津軽五大節」といわれる曲がきちんと聴き分けられるようになった。

「太鼓のリズムを覚えると、もっともっと踊りがうまくなるよ。」と、師匠が魅力的なことを言うので民謡も始めた。そうしたら太鼓どころか唄も唄いたくなってしまい、手踊りだけではなく民謡にも夢中になってしまった。太鼓を鳴らし、唄を唄い、舞い踊る。津軽民謡と津軽手踊りは私の生活の一部となった。

今年、私は3月に「青森県民謡王座決定戦子どもの部」優勝。8月に「民謡民舞少年少女全国大会民舞個人の部」優勝。二つの大会で歌、踊り、それぞれ優勝することができた。でも民謡と手踊りをやっている人ならきっと最終目標は「民謡王座」と「手踊り名人位」。もちろん私の目標もそこにある。子どもの部の優勝は目標ではなく、最終目標を目指すためのスタートである。

第二代青森手踊り名人位である師匠から私は民謡と踊りを教えていただいている。また、今年第51代青森県手踊り名人位となったお姉さんは、私が手踊りを始めるきっかけをつくってくれた人だ。憧れの二人に少しでも近づけるようにと思うと、自然と稽古に力が入る。

踊りも唄もやればやるほど奥が深い。一つの技を覚えると、次の一手をさらに深めたくなって終わりがない。かかとを上げて爪先で踊るので今まで何足の足袋を破いてきたのかわからない。最初は1曲太鼓を叩くだけで手のひらにマメができていたのだが、今ではそんなこともなく、しっかりと叩ける。以前は入れなかった節を一節、二節と、唄に取り入れることができるようになってきた。それでもまだまだ道は遠い。

津軽民謡と津軽手踊りは間違いなく私の心をつかんで離さないが、あまり友達とは話題にすることはない。なぜなら、誰も民謡や手踊りを知らないからだ。

きっと年々世の中での認知度は低くなっていると思う。実際に両親も私が手踊りを始めるまで知らなかったのだ。地元黒石市の日本三大流し踊り「黒石よされ」が、民謡と手踊りであるということも知らなかったそうだ。実にもったいない。

私は唄と踊りを極めて、この素晴らしい伝統をこれから先に残したい。だから担任の先生から「9月の文化祭で津軽手踊りをステージで披露しないか。」と誘われた時も、全校生徒の前で踊るのは普段の何倍も緊張しそうだが、意を決して踊ることにした。私の踊りで青森県にはこんなに素晴らしい伝統芸能があるということを一人でも多くの人に伝わることを願っている。

手踊りを始めてから、あっという間に8年となった。今13歳だから、人生の半分以上続けていることになる。手踊りと民謡を始めたことで視野が広がった。地元だけでなく、県内各所、岩手、秋田、宮城、そして東京ドームや浅草公会堂での舞台や大会もあった。その間、たくさんの出会いがあって、尊敬できる先輩方、大切な仲間や心から信頼できる友達、一緒に成長できる一番の友達ができた。

この先、何十年と続く人生、3年前から想像もしていなかった新型コロナウイルス感染症が流行したことで、中止になった舞台や大会がたくさんあり、悔しい思いもたくさんした。でも、この先どんな未来が待っているのか誰もわからない。一つだけ言えるとしたら私は唄っている。そして踊っているということだ。それだけは断言できる。

津軽民謡、津軽手踊りを極める日を夢見て。

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秀賞

共に

青森県新郷村立新郷中学校

2年 前山 聖奈

「お母さん、癌なんだ......。」そう告げられた日から、今日までの2年間は、私にとって本当に苦しく、つらく、けれど涙が止まらなくなるほど家族の温もりを感じる時間でした。

小学校6年生の、1学期終業式。明日から始まる夏休みに、胸を躍らせて帰宅した私を待っていたのは、父のその一言と、うなだれて座る母の姿でした。「本当なの?お母さんは、どうなるの?家族はどうなるの?私はどうすればいいの?嫌だ、絶対に嫌だ!」

不安と恐怖、そして「死」という現実が一気に私を襲いました。それ以来、来る日も来る日も母の死を考えない日はありませんでした。ネットで検索しても、治療、手術、生存率──、何一つ安心できる言葉は見つけられません。母の顔を見るたびに涙がにじんで、母は困ったように笑いました。そのうち私は、考えることに疲れ、学校に行くことも、友達に会うことも、すべてが嫌になってしまったのです......。

けれどある日、家事など全く手伝ったことのなかった姉が、洗濯機と格闘していました。台所では、農作業から帰ったばかりの父が、冷凍のチャーハンを炒めています。その姿は「家族で力を合わせれば、できないことはない。いつも一番そばで支えてくれたお母さんを、今度はみんなで支えよう。」と語りかけているようでした。その時、私は初めて気づきました。自分がどんなにつらく悲しい気持ちでいても、うずくまっていたくても、時間や周りの人は待ってはくれないし、大事な一日一日は過ぎて行きます。それならば、母のくれた身体を、頭を、心を、目いっぱい動かして、母が安心して入院できるように過ごさなければならなかったのです。

まだ幼い保育園の弟だけはどうしても大変なので祖父母にあずかってもらい、炊事、洗濯、掃除、誰かがつらくなったらみんなで助け合ってこなしました。抗癌剤治療で母の髪が抜け落ち始めると、母と私と姉の3人で互いの髪を切り合い「おそろいだね」と笑いました。きちんとできて最高に嬉しい日もあれば、疲れて叫びたい日もありました。けれどその全てが、母と共に、家族と共に、「生きている」という実感でした。

春を待って、5月末に母は入院し、6月に手術を受けました。病院の母から、「成功したよ」とLINEがきたとき、もう一度だけ涙が出ました。帰って来た母は少し痩せて、髪の毛も全部なくなっていましたが「どんな姿でもいい、生きていてくれるだけで。」と、心の底から思えました。

母は、身をもって教えてくれたのです。今日も流れる、感染症や自然災害、事件や事故のニュース。その命の危うさは、どれも「自分のすぐそばにある」ということ。また、亡くなった方一人一人に、懸命に生きた「人生」があり、「家族」があったということを。だからこそ、目の前に在る命は絶対に大切にしなければならないのです。

先日、グループLINEに友達が書き込みました。「3階から落ちたらどうなるかな?」

宿題の問題のようで、クイズのようで、誰も気にとめなかったそのつぶやき が妙に気になって、私は勇気を出して返信してみました。「どうしたの? 何かあった?」「人間関係かな......。」

友達は、ぽつりぽつりと悩みごとを話し始めました。そして最後に「聞いてくれて、ありがとう。」と言いました。

今日も会えた母の笑顔に、私は心の中で問いかけます。「これでいいよね?自分の命も、相手の命も、大切にできる大人にきっとなるからね。だからお母さん、もう少しだけ甘えていい?その日まで待ってて。」

術後5年が経過して、わが家にさらなる安心が戻る日まで、あと4年。18歳になった私は、きっと笑っているはずです。明日から始まる夏休みに胸を躍らせて、照りつける太陽の下で、ひまわりのような満面の笑みで。

母と共に、家族と共に。

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秀賞

未来へつなぐ贈りもの

岩手県釜石市立大平中学校

3年 成田 彗七

僕の祖父は、優しくて面白くて、何より自分のことより、人のことを一番に考える大の働き者でした。そして、祖父の口からよく聞く言葉は「じいちゃんは、いいから」と言って祖父はいつも自分のことより、僕たちのことを優先して、いろいろやってくれたり、美味しい食べ物を持ってきて食べさせてくれたりしました。僕だったら、大好物の食べ物をもらっても、一人で食べたいと思って人に譲ろうとも思わないし、ただでさえ大人は仕事をして疲れているのに、それから一緒に釣りに行ったりすることは僕にはできないと思いました。

そして、祖父は、何でもできる人で、小屋が必要な時は手作りで、一人で物置き小屋を作ってくれるなど、まるで大工さんのようでした。

東日本大震災があった時、僕は自宅に、兄と母と3人でいた時に大地震がおきました。僕の家は高台で津波の心配がない場所なのに、祖父はすぐ僕たちの元へ心配でかけつけて、無事なことを確認して、すぐ自宅へ戻りました。僕の祖父の家は、海岸付近です。僕の家から祖父の家へ戻る時、車ごと津波にのまれ、建物の間に引っかかり運よく助かったそうです。その後、僕たちが食べ物がなくて困ってるだろうと自転車で、おにぎりや食べ物を何回も持ってきてくれました。実は、祖父が津波にのまれたというのは、それからだいぶたってから、伯母から聞きました。きっと祖父は、僕たちに心配かけたくないのと、罪悪感を持たせたくなくて、言わなかったのだろうと思います。本当にどこまで人思いの祖父なのだろうと思いました。

そんな祖父が、突然6年前に亡くなりました。祖父は最期まで祖父らしい亡くなり方でした。それは、前日の夜までは普通に会話していたのに、次の日の早朝には亡くなっていました。兄が「一人で寂しかっただろうな」と言ったら、看護師さんが「人はね、最期は自分の望み通りに亡くなるものなんだよ、おじいちゃんは、きっと誰にも迷惑かけないで一人で最期を迎えたいと望んでたから大丈夫だよ」とおっしゃいました。その言葉に救われたけれど、最期くらい、僕たちにわがままを言ってほしかったです。

祖父が亡くなり、だいぶ後に気づいたのですが、亡くなる直前、兄と僕の子ども携帯にメッセージを残してくれていたのです。祖父からの忘れられない贈り物だと思いました。本当にどこまでも優しい人思いの祖父でした。

亡くなった後に祖父の兄弟、町内会の人、友達などから「じいちゃんに本当に助けられたよ」「いなくなって困ってるよ」と、たくさん言われました。

話を聞くと冬に大雪が降った時、除雪機で、通学路や町内を除雪してくれたり、町内会で使っている物が壊れたらすぐ直してくれたりと、頼まれたり困っている人がいると、手助けしていたようです。

中でも一番すごいと思ったのは、町内にある神社に、手すりを作り上げたことです。100段くらい急な階段を登った所にある神社まで、祖父は、その階段に下から上までロープで、手すりを手作りしたそうです。その当時は、作るのを反対する人もいたそうですが、今では「町内会の人たちは年をとって、その手すりがあって本当に助かっている」と、たくさんの方から言われます。祖父はきっと町内にはお年寄りが多いので、絶対手すりが必要になると思い、作ったのだろうと思いました。僕たちだけにではなく、周りの人たちにも忘れられない贈り物を残してくれました。

祖父が自然に、人のためにやってきたことが、たくさんの人たちの役に立っているということは、全て祖父の優しさから来ていることで、他の人では、絶対真似できないと思います。改めて祖父の偉大さを知り、尊敬できる自慢の祖父だと思いました。僕はそんな祖父を見習って、自分だけのことを考えるのではなく周りの人のことも考えて、小さいことでも困っている人がいたら手助けしたいと考えています。また生活する上でも、自然と「ありがとう」と言われるような人間になり、社会に貢献していきたいと思います。

いつか、僕も祖父の作った思いやりのこもった手すりを使って、神社の上まで登る時が来ることでしょう。生きている間に、みんなからの感謝の声を聞かせてあげることができなかった分、神社の上からみんなからの感謝の気持ちを、祖父に伝えてあげたいと思います。

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秀賞

人のために

岩手県矢巾町立矢巾北中学校

2年 山本 昂太郎

「人の命を救いたい」こう思い始めたのはいつからだっただろうか。母のお腹にいる間、母が入院し、安静にしていなければならなかったこと、産まれた時、NICUに入ったことを小さい頃から聞かされていたからかもしれないし「昂太郎はたくさんのお医者さんや看護師さんに助けてもらったんだよ」と両親から教えられていたからかもしれない。そんなこともあって僕は今、まだぼんやりとだが、将来は医者になりたいと思っている。しかし、年を重ねていくたびに人の命を預かるということの重大な責任、医師になることの難しさを思い知らされている。

話は遡って1年程前のこと、僕が入っているバスケットボールのクラブチームでの練習の日だった。いつもと変わらず、練習をしていたところ、クラブチームの中の一人が突然倒れてしまったのだ。すぐにコーチが駆けより、応急処置を始め、他の大人もできることをすぐ始めていた。必要な水、毛布などを取りに行く人、大勢の人が自分にできることを必死になってやっていた。そんな中、僕は何もすることができなかった。とても怖くて足がすくんでしまっていた。でも心の中ではとても悔しい思いが湧き上がっていた。急に襲いかかってきた非日常の事態に僕は全く無力だった。ドラマで見たことでも、保健体育で学んだわずかな知識だけでも何かできることがあるはずだった。それなのに僕は何もすることができなかった。見ていることしかできなかった。「人は緊急時にこそ、その実力が発揮される」そう痛感し、ショックを受けた。そうこうしているうちにやっと救急車が到着した。待っている時間が僕にはとても長く感じられた。救急隊員の姿を見たとき、僕は心の底から安堵を感じた。いつ何が起こるか分からないし、医療の助けを必要とする人は、自分も含め、身近なところにたくさん存在していると分かった。倒れた人はその後、救急車、救急病院で治療を受け、意識を取り戻した。そして今ではそんなことも忘れさせるぐらい元気にプレーしている。僕はこのような体験をして緊急時に動くことがどれだけ大切か、どれだけ難しいことなのかを身をもって知った。と同時に、医療の大切さ、医師という存在のありがたさを改めて思い知らされた。

最近、世界各国でも日本全国でもコロナウイルスなどの影響による医療のひっ迫が問題になっている。また、SDGsの目標の一つ、「すべての人に健康と福祉を」これも大きな問題となっており、どこでも誰でも平等に必要な医療を受けられるようにすることを目指している。日本ではどうだろうか。世界から見ても日本は豊かな国、先進国とされている。だが本当に一人一人が必要な医療を受けることができているだろうか。都市部では多くの人が安心して病院に行くことができている。しかし、コロナ禍で、都市部でも救急車でたらい回しにされ、患者が命を落とすというニュースを見かける。ましてや、地方や山間部では病院や医師が不足し、大きな問題になっている。僕はこのような問題をなんとかしたいと思っている。もちろん一人で全て達成することはできないが、同じ志を持った人たちと一緒に、どこでもいつでも誰でも平等な医療を受けられるようなしくみをつくり、一人でも多くの人の笑顔を生みだすことができれば素敵だと思う。両親は「自分の力を人のために使える人になりなさい」と言う。僕が医師になり、一人でも多くの人の命や未来を救うことができれば「人のために力を使う」ことになるのではないかと考えている。

僕には目標としている医師がいる。小学校低学年の頃、夏休みの工作を作っていた時、親指の骨が見える程、深くカッターで切ってしまった。救急で対応してくれた医師は、不安で泣きそうな僕に「頭がよくなる注射を打ってあげるか。」と冗談を言い、心を和ませてくれた。治療に通うのが楽しみになるような面白く、楽しい医師だった。指が痛くてつらかったという思い出とともに優しくて頼もしい医師の言葉が今でも心に残っている。僕は、医師という仕事は人の命を救うだけの仕事ではなく、苦しい治療に希望を持たせたり、子どもからお年寄りまで、さまざまな人を笑顔にしたりできる職業なのだと感じた。

もしかするとこの先、僕の将来の夢は変わっていくかもしれない。しかし、僕はどんな職業に就いても「人のために力を使える」人になりたい。そのために今は、目の前にあるたくさんのしなければならないことにしっかり向き合い、小さなことでも自分にできることは何かを考え、周りにいる家族や友人を笑顔にできるように行動していきたい。そして、将来はもっと多くの人を笑顔にできるような人になっていたらいいなと思っている。

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秀賞

最大級の愛と恩返しを

秋田県三種町立八竜中学校

3年 北林 和心

「トゥルルル、トゥルルル。」母の仕事用の電話が鳴った。私は風呂場までドタドタ走り、シャワーを浴びている母に電話を渡した。「うんうん、そうですか。」「お薬まだ残っていますか。」すぐさま仕事モードに切り替わり、淡々とした口調で患者さんの相手をする母。私はこの人を、本当に尊敬しているし、心の底から愛している。もし、未来の自分になにか伝えられるなら「母に恩返ししてくれ。」この一言に尽きる。

母の仕事は看護師で、今は訪問看護の部署に勤めている。土日・祝日は基本休みだが、当番制というものがあり、もし患者さんから電話がかかってきたら、いつでもどこでも、なにをしていても訪問に駆けつけなければならない。私が夜更かししていた日も「ちょっと訪問行ってくる」と、夜遅くに仕事に出かけていったことがある。嫌な顔一つせず、面倒くさがる素振りも見せずに仕事に向かう母の背中は、いつもの何倍にも大きく見える。

私の家では、母、祖父母、愛犬、私の、4人と1匹が生活している。姉は社会人なのでもう家には居ない。そして父とは別居している。私が小学5年生の頃「出ていけ。」いつも温厚な祖母の、いまだかつてない怒鳴り声を聞いた。その怒りの矛先には私の父がいた。私はその騒ぎの様子を、遠くからそっとうかがうことしかできなかった。「離婚届も何度も持ってきたべ。」「子どもたちのことも、いらないって言ったべ。」母の絞り出すような声も響いていた。次々に耳へ入ってくる多くの事実に頭が追いつかず、涙があふれてとまらなかった。ひたすら号泣する私を、母は「ごめんね」と言って抱きしめてくれた。一番つらいのは、苦しいのは、母自身のはずなのに。母が離婚届を受け取らなかったのにも「子どもたちの成長には、まだ『父親』という存在が必要だから。」という理由が込められていた。母はどんなにつらくても、私たち子どもを最優先に考えてくれた。こんなに優しく強く、たくましい母は、地球上のどこを探しても、私の母以外に見当たらないだろう。私はそんな母を誇りに思う。

私の姉は、感情の起伏が激しい人間で、姉が学生の頃は些細なきっかけで姉妹喧嘩に発展することもよくあった。そんな私たちをなだめてくれるのも、母だった。姉が部屋に閉じこもり、抱え込んだストレスと闘っていたときも、母は臆せず姉と向き合い、寄り添い続けた。本当に、子ども思いのいい母親だと思う。

母は礼儀に関することや、道徳的なことに関しての指導が厳しかった。礼儀や道徳心は幼いときから母によって叩き込まれ、鍛え上げられたため、善い精神を受け継ぐことができたと思う。母からは、人として生きるうえでの一番大切な基礎を学ぶことができた。そのため、人から挨拶を褒めてもらったり、性格などの内面的な部分を褒めてもらったりすることも多々あった。母の教育は、勉強よりもはるかに重要で、学ぶ価値のあるものだ。母の教育を受けることができて光栄に思う。

家族の中で、だれよりも早く家を出て、だれよりも遅く帰ってくる母。残業によって、さらに遅い帰りになる日もある。よほど疲れているのか、母は9時過ぎには寝てしまう。平日は早寝早起き、休日は早寝遅起きの生活だ。我が家は、祖父母の年金と母の収入で成り立っているため、母の仕事の頑張りは実に大きい。父親からの生活費が振り込まれないため、一般家庭よりも経済的には豊かではないはずだ。だが私がこんなにも何不自由なく生活できているのは、やはり母のおかげだと思う。夜勤などの泊まり込みの仕事も多く請け負い、職場にも貢献していた。私は母のおかげで、習い事にも通えたし、自分のやりたいことにも積極的にチャレンジできた。ダンスやバスケにテニス、ピアノやそろばんに学習塾。これらに触れた経験は、今でも自分の中の大切な糧となり、力になってくれている。

さて、未来の自分よ。今そこに立っているあなたは、母の愛と葛藤の産物です。母の血が流れている「自分」に誇りをもって、力強く夢へと突き進んでください。そして、今度はあなたが、母へ恩返しする番です。母がくれた愛、人生、その全てに感謝し、最大級の愛情をもって母と向き合ってください。きっと未来の母も、今と変わらない笑顔、愛情であなたを優しく包んでくれるはずです。本当に、母の子に生まれてこれてよかった。この幸せを噛み締めながら、さらなる躍進を共に遂げよう。あなたは一人じゃないよ。頑張れ!私!

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秀賞

今の私、未来の私を信じて

秋田県大館市立北陽中学校

3年 成田 優月

私には夢がある。困難で、どんなに道が険しいとしても、果たしたい夢が。

鳥が空を飛んだり、魚が水中を泳いだりするように、人は誰でも自由に歩き回ることを当然のことと思っている。私はよく、「それくらいは普通できるよね」「あの人は普通じゃないから仕方ないよ」などという言葉を聞く。

私はこのような言葉に出会うたびに思う。「普通」って、一体何なのだろう。「普通」は、本当に普通なのだろうか。そもそも、その「普通」は誰が決めたのだろう。この世の中には、どんなに必死に願っても、そのいわゆる「普通」のことができない人もたくさんいるのだから。

私には年の離れた弟がいる。大切な弟、でも......。弟とすれ違う時、多くの人がそれまでとは全く違った表情を見せる。少し驚いた表情を見せる人、気の毒そうに同情の表情を見せる人。さらには、まるで避けるようなしぐさを見せる人も。何事もないかのように平然として通り過ぎる人は少ない。それは、私の弟が寝たきりで呼吸器を付けている障害者だからである。しかし、このようなことが起きるたびに私は、まだ社会の中での障害がある人に対しての理解が、あまり広がっていないのだと感じる。

昨年、弟は小学1年生になり、支援学校に入学した。支援学校での生活はこれまでとは大きく違うため、慣れないことも多く、体調を崩しやすいという問題を抱えている。そのため、通学の回数そのものは月に1・2回と少ないのだが、訪問学習という形でたくさんの刺激を受けているようだ。できることは限られているが、それでもさまざまな体験をさせてもらっていることに、感謝の気持ちがいっぱいで、本当にありがたいことだと思っている。

先日、支援学校で行われた夏祭りに弟と一緒に出かけた。これまで弟と一緒に行動するときにはさまざまな人の目がどうしても気になっていた。正直、嫌な思いをすることもたびたびあったため、少し周りを気にしすぎて余計な心配をするようになっていたのかもしれない。これまで弟の学校での様子を目にする機会があまりなかったこともあり、この日も、周りの生徒や人から特別な反応をされてしまうかもしれないという、いつもの不安が頭をよぎった。しかし、そんな心配した光景は全く見られなかった。みんなは弟に自然に話しかけたり、

手を握ったり、車いすの横に並んで歩いたりと、笑顔で接してくれたのだ。みんなが少しも嫌がらずに、弟のことを受け入れてくれて、とても嬉しかった。弟はここで気兼ねなく学校生活を送ることができている。その事実に、嬉しさと喜びで胸がいっぱいになった。

弟はしゃベったり歩いたり、思うように動くことができない中、それでも仲間を見つけ、頑張っている。私は弟のために何かできることはないかと、ずっと強く思い続けている。

弟が病気になった原因は分かっていない。しかも、今の技術では治すことができないと医師から告げられている。この事実に直面したときから、私の心の中に一つの決意が生まれた。「私は外科医になる。そしていつか、自分の手で弟の病気を治す。」この道が険しいということは、もちろん分かっている。でも私のこの思いは、決して変わることはないだろう。

今現在、私はまだまだ日々の生活に精いっぱいだが、その夢を実現するために何をすべきなのかをよく考えるようになった。まずは、外科医になるための学力を身に付けるということ。そして、さまざまな体験や経験の中で命の大切さを学ぶこと。この二つが、今の私がすべき最大のことであると思う。そのために、どんな学習や活動に対しても、全力で取り組んでいきたい。

10年後、20年後に、私は夢をかなえることができているのだろうか。障害や病気で苦しんでいる人たちを、一人でも多く笑顔にすることができているのだろうか。また、社会の中で「障害者は普通ではない」という偏見がなくなり、少しは障害者に対しての理解も広がっているのだろうか。障害者と健常者が共に笑顔で過ごせる社会になっているのだろうか。不安はあるが、10年後、20年後の私が「うん、かなってるよ」と言える未来であってほしいと思う。そのために、私はどんな困難にも立ち向かい、挑み続けたい。

今の私、未来の私を信じて。

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秀賞

保健室は充電所

宮城県石巻市立万石浦中学校

2年 木村 麻央

「養護教諭です。」将来の夢は? と聞かれたら、私はそう答えます。

一時期は他の職業にも興味をもち、少し迷うこともありましたが、結局この養護教諭という昔からの夢を忘れることができませんでした。

私が養護教諭になりたいと思ったのは、小学3年生の頃。その日は運動会で、私は選抜リレーに出場しました。しかし、私の前に走った同じチームの子がバトンパスの際につまずいてしまい、私の方に倒れ込んできて、私も一緒に転んでしまったのです。それから私は何とか走り切りましたが、ひざにはすり傷ができ、血も出ていました。種目も終わり、この傷をどうしようと思っていたところ、走ってこちらへ向かってくる人影が私の目に映りました。その人影こそ、当時の養護教諭の先生だったのです。先生は、誰よりも早く駆けつけ、手際よく応急処置をしてくれました。その姿はまるでヒーローのようでした。

それから私は、体調不良や怪我をした友達の付き添いに自らついて行き、先生が手当てする様子を自然と見るようになりました。テキパキと作業していく先生はやっぱりかっこよくて、いつしか先生は、私の憧れの人へとなっていきました。

しかし、先生は私が小学5年生になる時に別の小学校へ転任してしまいました。私が卒業するまでいてほしかった、もう少し先生のヒーローぶりを見ていたかった......。

その後、私も小学校を卒業し、今年で中学2年となり、進路について考え始める年になりました。そして、私はその将来の夢を探してみた時に、やっぱり養護教諭という職業が頭の中に一番に浮かんできました。

そこで私は、先生に会っていろいろな話を聞きたいと強く思い、そのことを親に相談しました。すると、両親は快く「じゃあ、先生に連絡取ってみよう!」と、すぐに先生が今勤めている小学校へ連絡してくれ、4年ぶりに先生に会えることになったのです。

そして、いよいよ先生に会える当日。私は緊張と楽しみな気持ちでいっぱいでした。慣れない違う校舎に足を踏み入れれば、変わらぬ笑顔で出迎えてくれる先生の姿がそこにはありました。そこから、私は今でも養護教諭になりたいと思っていることを伝えました。そして先生からは養護教諭になるために必要なこと、実際になって良かったと思えることなど、たくさんの話を聞かせてもらいました。先生は一つ一つの質問に全て楽しそうに話してくれ、本当にこの養護教諭という仕事が好きなんだなと心から感じました。すると、先生から「自分の良い所五つあげてみて?」と言われ、今まで考えたことがなかったのもあり、しばらく考え込んでようやく五つ答えることができました。一つ目、自分の周りには良い人が多い、二つ目、体調を崩さない、三つ目、怪我をしない、四つ目、わりとすぐ立ち直る、五つ目、人を笑わせるのが得意。そして、先生はこう言ってくれました。「これはもう麻央さんが持っているものなんだよ。この五つを言い換えると、自然と人が集まってくる力を持っている、人を救う力を持っている、人に力を分けてあげることができる、何よりも人を元気にすることができる。良い素材を持っているね。」その時私は、心がふわっと軽くなるのを感じました。やっぱり先生はすごいな......。

確かに保健室へ来るのは、具合が悪い子や怪我をした子だけではない。教室に行けないような子も来る。そして、その子たちの学校生活を少しでも楽しませることも大切な役目なんだと感じました。

また、先生は今の学校のことについても教えてくれました。それは、教室ではなくて保健室に通っている子がいるということ。その子は「保健室は充電所」と言っていること。嬉しそうに話す先生は、こう言いました。「保健室に来てくれる子たちに寄り添って、どれくらい充電させてあげられるかが一番大事。そして、その子たちが笑顔で『ありがとう』と言ってくれることがこの仕事のやりがいだよ。」

それを聞いた瞬間、私は「養護教諭になりたい。」という思いが、より一層強くなりました。

これから先、つらいことがあるかもしれません。けれど私は、先生のように、子どもたちに「保健室は充電所」と思ってもらえる先生になれるように、夢へ向かって頑張ります。

数年後、就いている職業は?と聞かれたら、私はこう答えるでしょう。「養護教諭です。」と。

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秀賞

私の舞台

宮城県気仙沼市立唐桑中学校

3年 吉田 美咲

未来の私は、どんな自分になっているだろうか。そして、今の私を振り返った時に、どう見えるのだろうか。未来の私へ、今の私が感じる思いを伝えたい。もがいて、這い上がった先に、そこから見えた景色がどんなに輝いていたかを伝えたい。

あの日、私は、まるで噛み合っていなかった歯車が動き出したような感覚を味わったのだ。

今年の3月、気仙沼市民会館にて気仙沼バレエ団の舞台公演が開かれた。演目は、ドリーブ作曲「コッペリア(全幕)」その客席に、私は居た。

「なんて美しいのだろう。」私の心が震えた。かつての仲間たちの堂々たる舞台。まるで魔法でもかけられたかのように指先までしなやかに、それは本当に美しく、細部にまで美が宿っているかのような美しさに、息をのんだ。実は、私も3年前まで、この舞台に立っていた一人だった。5歳から7年間、私も皆と同じようにバーレッスンを受け、淡いピンク色のトーシューズのリボンを大切に巻いていた一人。舞台上で繰り広げられる輝きに満ちた世界が、なんだかだんだん眩しくなり、私は次第にうつむいていった。この輝きは、今の自分には、もうないのだろうかと......。

長引くコロナ禍、学校生活の中での自由や、行事全てに制限が付き、灰色の時間だけが過ぎていった。その中でも、卓球の部活をしている時間が何より自分らしくいられる時間。それでも何週間も練習ができない、対外試合も中止、部員も全員揃わない。私は、部長としての自分の役割や存在価値が見えなくなり、息が詰まった。自分の心がどんどんグチャグチャになっていくのが怖くてしかたがなかった。学校へ行くことすら、行くか行かないか迷う自分になっていた。そんな時に観たのが、この舞台公演だった。

コッペリアの一節、幼い私も踊ったメロディーが思い出させた。背すじがピンとなり、指先も、つま先も、今にでも踊り出しそうになる。どんな時も真っすぐ前を向いて、舞台に上がることを夢みていた感覚が、私の心の中に蘇った。

もしかしたら、暗い灰色の世界をつくっていたのは、私自身だったのかもしれない。コロナ禍という状況は皆、同じはずなのに、私と違っていたのは、素直な心で前を向き踊る力強さ、それが輝きとなっているのだと気付いた。このままではいられない、私にも上がれる舞台があるはず。自分を表現する方法は、いくらでもあるのだから。苦しかった思いが涙になりマスクを濡らした。マスクが冷たくなっているのに、涙は止まらなかった。私はその時、顔を上げ、前を向く決心をしたのだった。

その日から2カ月後、私は、中総体卓球個人戦の舞台に立っていた。もう弱い私ではない。コーチの指導を真っすぐ受け止め、笑顔で勝つと決めていた。そう、ここが私の舞台。

勝負の日を迎え、私は今までの道のりを振り返った。前を向いたあの日から、迷いを捨て練習を重ねてきた。ここであきらめたら、今日までの自分が報われない。4回戦、ここを勝ち抜けば、目指してきた県大会へ進めるのだ。大きく息を吸った。最後のサーブ、全身をこの一球へ託す......。それは、勝利の一球となった。その途端、張り詰めていた緊張の糸が緩み、周りの景色が色鮮やかに見えた。私は、やっと、自分が輝ける舞台を見つけたのだ。

バレエの舞台で輝いていた仲間たちが、前を向く力強さを教えてくれた。「自分の舞台は、自分で見つける。そしてそこに上がっていこうとする力が 大切なのだ。」と。

未来の私には、どんな舞台が待っているのだろう。中学生の自分が、悩んで過ごした冬の日のこと、バレエの客席で濡れたマスクの冷たさや、強く握りしめたラケットの感覚、そして、乗り越えた先に見えた景色を、私はきっと忘れないと思う。

今を懸命に生きることが、未来の私へできる応援なのだ。未来の私はきっと、また、新たな舞台に挑戦しているにちがいない。

自分らしい未来に繋がるように、今をしっかり歩んでいきたい。輝く「私の舞台」を思い描きながら......。

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秀賞

「生きる」

山形県天童市立第四中学校

3年 高橋 南

「生きる」とは何か。誰かの役に立つこと?それとも、自分の夢をかなえること?

まだ、答えは見つからない。でも、今わかることは、大切な人と過ごせることはかけがえがないということだ。

最近、よく考えることがある。それは、生きるとは何か、ということだ。同じことの繰り返しの日々。勉強しても上がらない成績。思うようにいかない人間関係。「自分なんて嫌い」と、つい人と比べては落ち込んでしまう。私にとって生きることは不安だらけで、決していいものとはいえない。しかも今年は受験生となり、自分と向き合う時間が増えた。その分、心の中に「負」の感情が顔を出すことも多くなった。そんな私の「日常」に、大切な人との別れは突然やってきた。

大好きだった祖母の死。病名は胃がん。宣告を受けたときはもう手術をしても助からない状態だったそうだ。体調の不調を訴えた最初の受診から、あっという間に祖母はこの世を去った。私は、祖母の最期に立ち会うことができなかった。猛威を振るうコロナウイルスは、大切な人との別れの時間も容赦なく奪った。祖母の最期に感謝の言葉を伝えることはできなかった。

祖母はとてもやさしい人だった。心配性の孫に、自分の弱った姿を見せまいと思ったのだろうか。亡くなる直前まで、私が祖母の重い病気のことを知ることはなかった。ある時から頻繁に祖母の家を行き来するようになった両親の姿に、状況を察した私だったが、怖くて真実を聞けなかった。「おばあちゃんはもしかして......」の次に浮かぶ言葉を必死で消している自分がいた。

目を閉じれば浮かぶ、祖母の笑顔。目を細めながら、顔をくしゃくしゃにして笑う顔に安心した。いつも自信の持てない私にかけてくれた「しっかりしてるね」「南はえらい」という祖母の言葉に救われていた。もう祖母には会えない。その言葉は今では「宝物」になってしまった。

祖母は生きることを楽しんでいた。庭のガーデニングをはじめとして、たくさんのことにチャレンジしていた。私も祖母のように何事も楽しみ、笑顔で生きていきたいと思った。

祖母がいない今、同じ思いが反芻する。どうして、一緒に過ごせる時間をもっと大切にできなかったのだろうか。

孔子の『論語』の一つに、こんな言葉がある。「君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す。」これは、君子は、言葉は上手に言えないが、行動はすぐに実行したいと願い、努力するものだ、という意味だ。この言葉を聞いたとき「伝える機会があるうちに、相手がいるうちに、言葉にすることが大切だ」と教えられている気がした。

日々流れる命に関するニュース。事故や事件に巻き込まれたり、自ら命を絶ってしまったりして、尊い命が失われていく現実をとても心苦しく感じる。その人たちにとって大切な人、残された人の気持ちを考えると胸が痛い。大切な人と過ごしたかけがえのない時間をどんな思いでかみしめているのだろうか。想像すると胸が張り裂けそうになる。祖母は、私に「生きる」ことの尊さを教えてくれた。これからもずっと忘れてはいけない。たった15年しか生きていない私だけれど、これは「間違いのない」ことだと思うから。

未来の私へ。今、あなたは何をしていますか。夢である中学校の教師になっていますか。忙しさの中で、大切なものを見失ってはいませんか。

今の私は、自分へのいらだちと劣等感で悩むことも多くあります。このつらさや苦しさを「いい経験だった」と思える日がきますか。

私は自分の気持ちを素直に伝えることが苦手です。それは周囲に拒絶されるのが怖いから。私には勇気が必要だと思います。今、この瞬間はかけがえのないものです。二度と戻ってこないものだからこそ、自分の思いを素直に伝えることが必要です。思いを伝えられずに二度と会えなくなってしまったら一生の後悔となります。

どうか、あなたの目の前にいる生徒を救える教師になっていますように。今の私のように劣等感や悩みを抱えている生徒を。

おばあちゃんから教えてもらった。自分らしく、堂々と生きる人生を送ってください。迷ったら思い出してください。おばあちゃんの声を。

「南ならできる」。

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秀賞

チーム

山形県東根市立第一中学校

2年 三上 唯衣

8月2日。季節外れの雨が降った日、私たち女子ハンドボール部の3年生の先輩は引退した。「ありがとうございました!」と3年生を送った時、次は私たちの番なのだと実感した。

そして、私は副部長になった。これまでも人の前に立つ役割は多く経験してきたが、私の短気な性格で、チームの雰囲気が悪くなってしまうのではないかという不安はあった。その一方で、話し合いの中で新チームの目標を必死に考えるみんなのキラキラした表情を見て、1年後、どんなチームになっているのだろうかとワクワクもした。

誰もが楽しみにしていたであろう、新チーム一発目の練習。期待とは裏腹に、最悪の雰囲気に終わった。1年生が全然準備をしない上に、声をほとんど出さないことに、2年生全員が腹を立てたのだ。たったそれだけで、と思われるかもしれない。だが、2年生が声がけをやめた途端「タッタッ」という足音しか聞こえない体育館。そのくせ休憩時間や学年別の練習になると体育館に響きだす、大きな声と笑い声。私たちは我慢できなかったのだ。

考えてみれば、一番の原因は、2年生全員が、声出しも準備も「やって当たり前」と思っていたことだ。私たちが1年生の時、先輩から、準備も声出しも積極的にやるように教えられてきた。2年生が準備していたら「1年生!」と注意されたり、声が小さかったらペナルティを課せられたりした。先輩方が厳しくしてくれたから習慣化できた。自分たちができて当たり前だと思っていることができない1年生を見て腹が立ったのだが、自分たちがしてもらったほど、私たちは後輩に厳しく教えてこなかったのも確かだった。

1年生も、怒られたのが気に食わず、不機嫌だったことが見て取れた。最悪の空気が流れた。でも、私は何もできなかった。

お盆で部活動休止期間に入ってからも、この日のことが忘れられなかった。テレビで甲子園を観戦して盛り上がっていても、「これからどうしよう」という不安が常に頭をよぎっていた。

そんな中、山形県選抜チームの選考会があった。県内の2、3年生のハンドボーラーが集まり、混合で3チームに分かれて試合をする。チームごとに分かれて練習を始めた時、私は同じチームになったある人から目が離せなくなった。その人は、地区総体、県総体で戦ったライバルチームの主将だった。特別目立つわけではない。大量に得点を得るわけでもない。ただ、私にはないものを持っていた。「人を引っ張る才能」だ。どんな細かいことでもほめてくれて、感謝の言葉を忘れない。試合では「今のナイスパス」「ナイスフォロー」と、毎回ハイタッチしてくれる。ミスが続いたら「切り替えていこう」と声をかける。彼女がいるだけで、チーム全体の士気と一体感が上がっているのをひしひしと感じた。それは、彼女の、どんな時でも会話を大事にする姿勢と、細かいことも見逃さない観察眼が生み出すものだった。「今の助かった!次なんだけどさ、......。」と、相手をたたえ、そこから意見交換を求める。私がビブスを用意していることに彼女だけが気づいて「ありがとう」と笑顔で言ってくれる。彼女は、私の悩みに対する答えを示してくれたような気がした。

あの日、私やみんなに足りなかったのは思いやりだった。相手の思いを考え、自分ならどうされたら嬉しいかを考える。そんなチームになれたなら、きっと勝つための強さも、プレーする楽しさも手に入れられるはずだ。私はまたワクワクしてきた。

そして迎えた部活動。まずは私が「思いやり」を大事にしよう。そう心に決めて、1年生と積極的にコミュニケーションを取ったり、注意しなくてはいけない場面でも口調に気をつけ、言葉を選んで話したりしてみた。するとそれは周りの2年生にも広がり、チーム全体が明るくなった気がした。あの日見られなかった笑顔がコートにあふれ、楽しい練習ができたのだった。

私は、彼女のようなリーダーにはなれないと思う。でも私にはチームメイトがいる。私一人ではできなくても、みんなで最高の「チーム」を作ればいいのだ。試合に出る人、出ない人、1年生、2年生関係なく、みんながみんなを支え合えるチームを。お互いを思いやり、温かい言葉をかけ合う気持ちを忘れなければ、きっとそんなチームにできるはずだ。そしてそんな温かい絆で結ばれたチームこそが、本当に強いチームなのだと思う。

もうすぐ県選抜の大会、そして新人戦。部活動にも一段と熱が入る。さあ、明日はどんな練習だろう。どんなメニューでも、温かく思いやりにあふれた練習にしよう。

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秀賞

10年後、24歳の君に

福島県いわき市立湯本第二中学校

3年 遠藤 夕騎

私は、魚が大好きな14歳である。魚においては、食べることも、捕ることも、見ることも大好きである。そして、将来は、海洋研究者になりたいと思っている。なぜ、海洋学に携わりたいのかについては、今から7年前へさかのぼる。

7歳の夏、私は、近所の川で父と初めて魚捕りをした。とても暑い日であったのを覚えている。隣にいる父に、魚の捕り方を教えてもらう。網を川下に付けて、川岸の草むらを足で探る。魚が勢いよく飛び出して、網の中へ入ってくる。

「ガサガサ、ガサッ。ガサガサ、ガサッ。」私は、見よう見まねで網を使い、草むらを足で探った。すると、足に何かぶつかってきた。驚いて網を勢いよく引き上げると、網の底に10センチメートルほどの小さなナマズが1匹だけ入っていた。「うぁ!ナマズが捕れた!」

私は、このナマズを家に持ち帰り、水槽で飼うことにした。ナマズは、見ていてとても楽しかった。泳ぐ様子、餌を食べる様子。毎日、水槽の前から離れなかった。また、ナマズはどういう魚なのか、家にあった図鑑で調べた。そのうち、近所の川では捕れる魚も限られてきて、もっと他の魚が捕れる場所に行きたい、と思うようになっていった。

夏も終わりが近づくと、父と車で山奥の川に魚を捕りに出かけた。

二つの大きな網を持ち、川の中に入ると、水は背中がヒヤッとするほど冷たかった。どんな魚が隠れているのかを想像すると、ワクワク感が水の冷たさを上回り、どんどん川の中に入っていく。網を設置し、川縁の草むらを揺する。また揺する。......捕れない。何度やっても魚が捕れない。でも、諦めずに繰り返す。隣を見ると、父も夢中だ。場所を変えながら、網を設置しては草むらを揺する。

すると、ナマズを捕ったときと同じような感覚が、私の足に伝わった。網を素早く上げると、そこには、キラキラした銀色の体に、朱い斑点が散りばめられた15センチメートルほどのヤマメが入っていた。

興奮した。ヤマメは図鑑で見ていたが、警戒心が非常に強いため、なかなか捕ることができない魚だ。家に帰ってもう一度図鑑を確認したが、やはり捕まえた魚はヤマメで間違いない。

後で聞いたのだが、私はこのヤマメを詳しく調べていくうちに、なぜ1本の川なのに、上流はこんなに水が冷たいのか、なぜ上流ではナマズが捕れないのかなど、多くの質問を父にしていたそうだ。この年は魚を捕りに行っては、家で調べることの繰り返しだったらしい。

次の夏、私は地域が行っている川の水質調査に参加した。調査では、川の水を採取し、においを嗅いだ。他の人は無臭と言ったが、私は去年ヤマメを捕ったときの川のにおいに似ていると感じた。また、水生昆虫もたくさん採取した。私たちの周りには、豊かな川があり、そこに水生昆虫が住み、それを魚が食べている。そして、人間がその魚を食べて生きている。この水生昆虫が魚の貴重な餌となり、生態系を支えていることに感動した瞬間だった。

冬は、川の清掃活動に参加した。川の周囲は道路に接している部分があるためか、多くのごみが落ちていた。中には川に直接捨てていく人もいるという。この話を聞いたときに怒りを覚え、魚がいかに人間のごみに苦しめられているかに改めて気付かされた。

12歳になると、夏休みの自由研究に川の水質調査を選んだ。地域の川の水を上流から下流まで採集し、調査した。予想通り、上流の水質はきれいだが、下流に行くにつれて生活排水やごみなどの影響で汚れていることがわかった。

最近では、地球温暖化やプラスチックごみなど、自然環境が悪化するさまざまな問題が増えてきている。これらは人間の手によって引き起こされた、いわば人災だ。人間がした環境破壊を自分たちの力で食い止められないか。こう考えた私は、海洋学を学び、研究者になりたいと思った。

10年後の自分へ

24歳になった君は、今、どんな仕事をしていますか。大学時代に、学校も行かず世界中の海を回ったため卒業できなかった、ということはありませんよね。持ち前のガッツで卒業し、夢だった海洋学研究者になっていることでしょう。研究者になれば、今までのように自由気ままというわけにはいきません。社会に出ると責任がついて回ります。もし悩んだり落ち込んだりしても、魚が好きだ、自然を救うのだ、という気持ちを思い出して、困難を乗り越えてください。10年後、24歳の君に会えることを楽しみにしています。

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秀賞

未来の自分に伝えたいこと

福島県郡山市立富田中学校

3年 武藤 さくら

「今日のコロナは何人?」という会話が、我が家の夕食時の当たり前になった2022年。「ウィズコロナ」が浸透しつつある中学校生活。15歳の私は、部活動を引退し、受験に向けてまっしぐらだ。目標に向けて歩む今、10年後の私に伝えたいことがある。

「部活って何のためにやっているんだろう。私はチームの役に立てているのかな。」中学2年の冬、私は所属しているバスケットボール部で、繰り返し自問していた。周りの人がどんどんうまくなっていくのに、上達している実感を持てない毎日。試合に出るチャンスをもらっても、ミスばかりしてしまう。「チームに迷惑をかけているのではないか」という重苦しい気持ちが暗く心に広がった。

私は、バスケ部の活動の他に生徒会活動もしている。自分が望んで選んだ二つの道なのに、そのために練習に行けない日が続き、どっちつかずの自分に自信が持てなかった。

私には、同じポジションを競うライバルがいた。彼女は先輩や後輩から慕われ、私とは反対にみんなを引っ張っているように思えた。いつの間にか、ずっと先を歩いている彼女。「3年生になっても、私はきっと試合にはあまり出られないだろうな」と、どこかで諦めている自分がいた。

そんなある日、部活終わりに友人と話していた時のことだ。「試合でぜんぜんうまくプレーできなくて、邪魔ばっかりしちゃって......」そう切り出したのは、ライバルの彼女だった。えっ、私と同じことで悩んでいる? 全てがうまくいっているように見えた彼女が、私と同じ悩みを抱えていたことに驚いた。

その日から、私は彼女とよく本音で話すようになった。部活の悩み、プレーのこと、相談したり教え合ったりする時間の積み重ねが、私にとってかけがえのないものになっていた。「みんなに追いつきたい。チームの役に立ちたい。」気がつくと、諦めかけていた自分がどうしたらチームに貢献できるかを考えていた。

私には、印象に残っている言葉がある。「きっとリバウンドをとってくれると思うから、だから思い切ってシュートをうてる。」チームメイトが仲間にかけた言葉だ。共にきつい練習を乗り越えてきたからこそ生まれる信頼。それはきっと誰かの力になる。仲間が最高のプレーをすると信じているから言える言葉だ。この言葉を聞いて、私も自分が任された役割を、全力で果たすことで、みんなの役に立とうと決めた。チームの一員として。

それからの私は、うまくいかなかったプレーがあれば、どうしたらできるかをスタメンに教えてもらうようにした。試合では、難しいシュートに挑み、外してしまうこともあった。でも、そんな時、みんなはいつも、「ナイスチャレンジ!」と声をかけてくれた。その言葉は温かく、再び挑戦しようとする力をくれた。キャプテン、スタメン、交替選手、応援。互いが高め合い、補い合うことで、チームができていくことを実感した。最高のプレーを目指し、仲間と挑む瞬間はすがすがしい。

3年生になり、部活動を引退した今、最後まで目標を持ち、部活動を続けてきたことを誇りに思う。一心にボールを追いかけた試合。一人一人の努力がチームの力に結びつき、勝利を掴んだ瞬間の達成感。ライバルといえる存在のありがたさ。諦めない自分がいたから、今の自分にたどり着くことができた。困難な状況だからこそ、一歩を踏み出す勇気が大切だったと気づかされた。

思い返せば、これは部活動に限ったことではない。私が今、置かれている状況も同じだ。コロナウイルスが流行し始めてから、私の生活は一変し、小学校卒業式、中学の学習旅行、文化祭、どれをとっても「例年通り」にはいかなかった。しかし、一方で、私たちはコロナ禍でもできることを模索し、仲間と話し合い、挑み続けている。タブレットを活用した交流、密を回避して行った合唱コンクール、ズームによる生徒会選挙はその一例だ。何かのために困難を打破しようとする気持ちは、次の一歩を踏み出す原動力となり、新たなアイデアをもたらす。直面するさまざま々な壁を、仲間と一緒に乗り越えることは、心地よい。そう思える「15歳の私」がここにいる。

10年後の私へ。

25歳になったあなたは、何をしているだろう。医学研究者になる夢を実現しているだろうか。もし、新たな困難に直面していたら、15歳の私を思い出してほしい。「うまくいかない」と感じる時、その困難な状況を一歩踏み出した先には、そこでしか気づけないことがきっとある。だから、挑戦し続けてほしい。15歳の私があなたを応援している。

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秀賞

みんなプリンセス

新潟県上越市立直江津東中学校

1年 間島 莉亜

私は、美容に関する仕事をしたいです。美容に関する仕事、それは「人の気持ちを、明るい方向へ変える」仕事だと思います。

例えば、美容師さん。この仕事は、お客さんをきれいにして、その人の魅力を引き出す仕事だと思います。今、私はそんな美容師になりたいと思っています。

容師さんの中には、美容院で仕事をするだけではなく、施設等へ出かけて行って仕事をする出張美容師という仕事をしている人がいます。この仕事は、すごいと思います。体が不自由な人や老人福祉施設にいる人に、夢を届けられるからです。以前、インターネットで、出張美容師さんの仕事を見たことがあります。美容師さんにネイルをしてもらったおばあちゃんが、とてもうれしそうなのです。それを見て、私もうれしくなりました。こんなふうに、幸せは人から人へ伝わると思います。きれいになりたい人へのお手伝いができる仕事。そんな美容師の仕事に、私はあこがれます。

もう一つなりたいのは、美容部員、ビューティーアドバイザーです。この仕事は、見た目だけではなく、中身から変えられる仕事です。そして、ドラッグストアにもいてくれるので、身近にいて心強い存在です。心とお肌に寄り添って商品をオススメしてくれるので、とても頼りになります。

私は、以前、メイク用品でどの商品を買えばいいのかわからなくて、悩んでいたことがありました。そのとき、美容部員のお姉さんが「自分に合った色でいい」と言ってくれました。その一言で悩みが吹っ飛んだのです。こんなふうにアドバイスできる人は、本当にすごいと思います。

そして、私は、メイクアップアーティストという仕事にも興味があります。特に、結婚式場で働いて、男性でも女性でも、その人の魅力をさらに引き出せるような仕事がしたいです。結婚式は、人が一番幸せだと思える瞬間だと思います。そんな瞬間に立ち会えるなんて、本当に光栄なことだと思います。

美容の仕事は、裏方の仕事と思われがちですが、そんなことはありません。メイクは、その人の印象だけでなく、その場の雰囲気も変えられます。自分に自信がない人でも、メイクをすることによって、気持ちが少し変わります。メイクは、その人のもつ心の傷でも、体の傷でも、隠したりカバーしたりすることができます。そのことによって、自信がもてるようになれば、その人の人生が変わっていくかもしれません。それは、すごいことではないでしょうか。

メイクは、魔法に近いと思います。そして、その魔法は、人に「夢」をもたせてくれます。将来、私はそんな「夢を届ける人」になっていたいです。

どんなものを「美」と考えるかは、人によって、さまざまです。例えば、自分が「かわいい」と感じているものと、他の人の考える「かわいい」は違うことがあります。それは、当たり前のことだと思うのですが、ときどき、世の中の人が考える「かわいい」が、こうでなければならないという、人を傷つけるナイフになってしまうことがあります。そして、このナイフは、日常に潜んでいて、何かのきっかけで、人におそいかかってしまうことがあるのです。私は、このようなナイフをなくしていきたいです。メイクや美容という魔法があれば、少しはこのナイフと闘えるようになるかもしれません。

私は、そんな魔法をたくさんの人にかけてあげられる「魔法使い」になれるように、これからがんばります。人の見た目を変え、その人の心を明るくし、その人なりの「かわいい」をつくれる人になりたいです。そのために、たくさん勉強して、人に夢を届けられる仕事に就きたいです。

私が出会った美容師さんも、美容部員さんも、まず自分の個性や「かわいい」を、髪型やメイクで表現している人たちでした。だから、まず私自身が、型に収まるのではなく、自分の個性を出せるようになりたいです。

「かわいい」は、いっぱいあると思います。その一人一人の「かわいい」にこたえられる魔法使いになって、みんなを幸せにしたいです。

10年後の莉亜。あなたの目の前にいるどのお客様=プリンスやプリンセスも、 魔法をかけて幸せにしていってね。I can do it!

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秀賞

「夢へ向かって」

新潟県長岡市立東中学校

3年 吉田 結

AKB48、お母さん、陸上のオリンピック選手、美容師、絵本作家、アナウンサー・・・・・・。これは私の今までの将来の夢です。そして、現在の将来の夢は、養護教諭になることです。私に養護教諭になろうと思わせてくれた、小学校と中学校でお世話になった先生は今でも大切で、尊敬する存在です。

私は小学生の頃、学校に通うことが苦痛な時期がありました。しかし、学校を休むことはありませんでした。なぜなら、保健室に行くと、朝日のように優しい笑顔の先生が、「どうしたの?具合が悪い?」と私を迎え入れてくださったからです。私は、先生の笑顔と声を聞くと安心し「学校に来てよかった」という気持ちになりました。保健室では、先生にたくさんの悩みを聞いていただきました。先生は毎回、私の話を決して否定せず、真剣に聞いてくださいました。そして、「こうしたらどうかな?」と的確なアドバイスをし、明るく励ましてくださいました。すると、心が軽くなり「大したことない!」とポジティブな気持ちになりました。また、生徒の具合が悪い時は、どのように対処するかを冷静に判断し、臨機応変に行動されていました。実際に、私が捻挫をした時の先生の対応は早く、痛くて泣いていた私を心配し、「痛かったね~。もう大丈夫だからね。」と声をかけ続けてくださいました。そんな姿を見て、養護教諭に憧れ、将来の夢になっていきました。

中学校に入学して、初めて保健室に入った時のことは、今でも思い出します。トラブルが起こり、悔しくて先生に話を聞いていただきたかったからです。私は話している間、必死に涙をこらえていました。それは中学生になったのに、保健室で泣いているということがみっともないと思ったからです。先生は隣で、静かに話を聞いてくださいました。そして、私が話し終えると、私の目を見て、「大きな声を出して泣いていいんだよ。あなたと私しかいないんだから。」とおっしゃいました。その言葉を聞いた瞬間、私の心に絡まっていた鎖のようなものが解け、ぼろぼろと涙がこぼれました。先生は私が泣いている間、ずっと肩に手を添えていてくださいました。

この日から、私は先生との関わりが増えていきました。先生に話したいことがあると、すぐに保健室に行って話しました。先生は私が辛い体験をした際は肩をさすりながら話を聞き、自慢話をすると褒めてくださいました。先生とおしゃべりした時間は、とても楽しくて、今となっては、かけがえのない時間だったと思います。先生が雑巾を干していた時は手伝い、「二人だと早く進むね~。ありがとうね。」と感謝され、先生の役に立てたことに大きな喜びを感じました。

文部科学省の「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」のいじめ統計によると、令和3年度には、国公私立、小中高、特別支援学校の全学校中、79.9%の割合でいじめがあったそうです。小学校は物理的ないじめ、中学校からは精神的ないじめが多く、状況によって対応を変えていくことが重要です。いじめの発見は、アンケートの割合が一番高く、教職員自らがいじめを発見するのは、小中とも十数%にとどまっています。さらに、精神保健の専門知識をもつ「養護教諭」「スクールカウンセラー」への相談割合は、小中学校では友達より低くなっているのが現状です。しかし、養護教諭やスクールカウンセラーの助けを得ながら、自分の言葉で語ることで自己肯定感を回復させることができるため、その役割をもっとアピールしていく必要があります。相談後には80.1%が解決し、19.7%は解決に向けて進むというデータがあります。

このような経験やデータを踏まえて、養護教諭になりたいという思いは日増しに強くなっていきました。私は未来の自分に胸を張れるように、毎日コツコツと勉強し、努力を積み重ねています。また、広い視野で物事を見て悩んでいる仲間の相談に乗り、その人に合った解決方法を提案できるようにしています。もし、夢が叶ったら、子どもたちが明るく楽しい学校生活が送れるよう、心身ともにサポートしたいです。また、子ども一人一人にどう寄り添えるのか常に考え、子どもたちの成長を笑顔で見守ることのできる優しい先生になりたいです。そして、いつか私に養護教諭の夢を与えてくれた先生にお会いできたら、「もう、すぐに泣く弱い私ではありません!先生のおかげで心も体も強くなれました。私も先生方のように子どもたちを支えられる養護教諭になりました。」と伝えたいです。

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佳作

ラーメンばあちゃん

青森県つがる市立森田中学校

3年 赤城 愛真

「将来の夢は薬剤師になること!」私はずっとそう思っていた。

小学4年生の頃、校内で学習発表会があり学年ごとに劇やスピーチを発表しあうものがあった。そこで、私達の学年では自分の将来の夢について発表することになった。友達は大工さんやプロ野球選手、歌手や保育園の先生などを自分の将来の職業にしているなか私は薬剤師にすることに決めた。なぜなら、それは収入の良い職業が良かったからである。私は、同じ薬剤師を将来の夢とする友達Mさんと発表の練習をした。「なんで薬剤師になりたいの?」私は聞いてみた。「病気の人を元気にできる仕事ってすごくない! だからだよ」Mさんは答えた。「愛真は?」Mさんが聞いてきた。私はその時、うまく答えることができなかった。あんな簡単な理由で職業を選んだなんて絶対に言えなかったからだ。これがきっかけで将来の職業について考えることが多くなった。

3年後、私は中学1年生になり総合の授業で職業調べをすることになった。私は誰よりも先にキーボードを打った。教室中にキーボードのカチッカチッという音が鳴り響く。私はカフェオーナーについて調べた。このとき、私の将来の夢は薬剤師ではなく、カフェオーナーに変わっていた。その理由として私のおばあちゃんがあげられる。

私のおばあちゃんは、赤城食堂というお店を経営している。私はおばあちゃんの作る味噌ラーメンが世界一大好きだ。だから、私はおばあちゃんのことをラーメンばあちゃんと呼んでいる。前の休日にラーメンばあちゃんが作る味噌ラーメンが無性に食べたくなったので赤城食堂へ向かった。すると、お店の駐車場は車がぎゅうぎゅうにたくさん止められていた。お店の中は保育園くらいの小さい子どもからお年寄りまで幅広い世代の人達がラーメンや定食を食べていた。私はうれしかった。自分のおばあちゃんが作った料理をみんながおいしそうに食べている。食べたあとは必ずみんな笑っている。こんなにも人を笑顔にさせることができるってスゴイ。私はそう感じた。このとき、私はふと思った。人を笑顔にすることができる職業っていいなあ。これがカフェオーナーになりたかったきっかけだ。

しかし、今現在、私は悩んでいる。カフェオーナーもやりたい気持ちはある。でも、他の気になる仕事もしてみたい。このモヤモヤする気持ちをお父さんに話してみた。お父さんは「今からたくさん悩め。何事も挑戦することが大切だはんでな」と言っていた。

私はよくテレビで、小さい頃から「この仕事に就くんだ」と言っていた人が大人になってから本当にその夢をかなえていたのを観ると今の自分がいやになってくる。なんでこんなに将来の夢が決められないの。もう、どうにでもなっちゃえ。この人はどうやって夢をかなえたのだろう。自分のやりたい職業って何。こんなことが頭の中で何度も何度もループする。ループするたび自分の将来が不安で仕方がない。将来の仕事によって行く高校も違ってくるので中学3年生の私にとってはすごく深刻な問題なのである。

将来の職業、これを決めることはとても難しい。でも、私は職業を選ぶときに一つだけ決めていることがある。それは、お金よりも笑顔だ。ラーメンばあちゃんのお店に行く前までは将来の職業は全て収入で決めていたけれど、お店に行ってみてみんなを笑顔にすることのできる職業は素晴らしいことだなあと思った。お金よりも大切なこと、それは人を幸せにすることだと私は思う。

今の自分は、まだどんな職業に就きたいのか決まっていない。でも、人を幸せにすることができる職業に就きたいと思う。そのために私は今、笑顔を心がけている。笑顔というものは自分がしていると相手も自然としてしまう魔法の行動だと私は思う。だから、これからも笑顔を心がけて生活し、将来の自分を見つける旅に出たいと思う。

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佳作

二人三脚

青森県むつ市立田名部中学校

3年 大山 優

私の友人の中に、足に障害があり、車いすで生活している子がいます。ですが私はその子を、障害のある子だとは一回も思ったことがありません。その子は周りの誰よりも明るくフレンドリーです。その子の隣を歩いていたとき、いつもその子を見ている人がいて、その子が気にしていたので、「車いすだから見られているというわけじゃなくて、とても明るくて元気だから注目されているんじゃないの」と言いました。でも内心、何も悪いことをしていないのに、なんでそんなに見られなければいけないのだろうかと思っていました。

私が小学生のとき、車いすに乗る体験活動があったので、参加してみました。普段の半分以下の高さの目線になるし、手で運転するのもとても大変でした。もしも私が車いすの生活だったら、あの子みたいに毎日笑顔ではいられないとつくづく思いました。そのとき、その子の笑顔の裏にある強さみたいなものにも気づくことができました。

小学校の体育の授業では、「車いすは大変だから」という理由で、その子だけの特別ルールが作られました。それに、「車いすなのにがんばってやっているから」という感じで、その子を手伝う人もいました。私は、その子と友達なので、別に同じルールでやっても邪魔だとも思わないし、かばおうとも思いません。ただ、一緒に楽しく体育をするだけです。先生もクラスメイトも親切でやっていると思いますが、その子自身はありがた迷惑という感じだったので、少なくともその子にはいらない親切だったと思います。勝手にこうだろうと決めつけないで、ちゃんと本人の考えを聞いて理解するべきだと思いました。

こんなに良い子が、なんで差別されるのだろう、いじめに遭うのだろうと思うことがあります。いじめは犯罪です。心につけられた傷は体につけられた傷よりも治りません。だから私は、その子の良いところをいっぱい知ってもらえば、差別やいじめがなくなると思い、その子と遊んだ日のことを他の友達にいっぱい話します。すると、「へえ、優ってそういう子と遊ぶんだ」と言われました。少しカチンときましたが、その子をもっと知ってもらわなければいけないと思って、その後もその子の良いところや、おもしろかった話をいっぱい話し続けました。

「この足に生まれたくて生まれたんじゃない」という相談を受けたときは本当に自分まで悲しくなりました。もしもその子の笑顔が消えたら、私からも笑顔が消えると思います。その子は今、私と違うクラスですが、よい仲間に囲まれて、そんな悩みが真っ白に消え去ったみたいに、また笑顔で過ごしています。本当に、笑顔というのは人を安心させるものです。

その子には、小学校のときからずっと好きなアイドルがいます。その子と通話すると、絶対にそのアイドルの話になります。昔、その子が、「もし歩けるようになったら、一緒にライブに行こう」と言ってくれました。二人でした大切な約束です。私はその約束が最大級に嬉しくて、今でも一番楽しみにしている日です。

その子のような人に対してよく「障害者」や「障害を抱えている人」という言葉を使いますが、私は「変な言葉だな」といつも思っています。だって、生きる上で何の障害もない人なんて、この世にいないと思うからです。みんなその人なりの悩みとか苦労があって、努力して、障害を乗り越えて生きていると思います。人間、結局みんな同じなのです。

私も大人になってきたので、その子の足が医学的な意味で治ることがないのは、もう知っています。だからこそ私は、その子の足になってあげたいと思うようになりました。二人の力を合わせたら、どんな大きな壁でも、つらい障害でも、飛び越えられるような気がします。

私は今、受験生です。私はあまり勉強が得意ではないので、楽しいことより苦しいことが多く、心が折れそうになる日もあります。そんな時は、その子や他の友達とくだらない話で笑い合って、なんとか毎日がんばっています。未来の私はどうでしょうか。勉強が得意になってくれていれば良いのですが、そうではなくても、友達を大切にして、笑って過ごしてくれていれば嬉しいです。

その子は少し遠い学校に進学するので、私とは進路が分かれてしまいます。それでもいつか必ず、大人になってからでもいいから、一緒にアイドルライブに行くという約束は叶えます。それまで私達はそれぞれの道を「自分の足」で歩み続けたいと思います。離れていても私達は、二人三脚でがんばり続けます。

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佳作

私の進むみち

青森県むつ市立田名部中学校

3年 神𠮷 咲良

「え、なんで?」

これは、私の希望進路を聞いたときの、相手のリアクションです。友達も先生も、ほとんどの人はこういうリアクションをします。

私の第一希望は、定時制高校です。私が定時制高校への興味を持ち始めたのは、小学校5年生のときです。それまでの私は、そもそも高校進学自体に興味がなく、中学校を卒業したら働こうと思っていました。それは、自分でお金を稼げば好きな物を自由に買えるという幼い理由からでした。でも、定時制高校という制度を知り、いろいろと調べていくなかで少しずつ考え方が変わっていきました。私は勉強が苦手なので、本来3年間で学習する内容を、4年間かけてじっくりと学べるのは、私に合っていると思いました。また、日中はアルバイトができるので、早く働きたいという私の希望も叶います。

私には、3歳年上の兄がいます。兄は全日制の工業高校に通っています。兄を見ていると、毎日が充実していてとても楽しそうです。勉強や部活動、実習や資格の取得、学校行事や友達のことなど、高校生活の楽しさをいっぱい話してくれます。私が希望している定時制高校には、同い年の子は多くないかもしれないし、学校行事も、兄が体験しているものとは少し違うかもしれません。私も、兄のように充実した高校生活を送れるか、不安もあります。でも、私の家族は、私が定時制高校を受験するのを応援してくれています。母は、「咲良のやりたいことをやれば良いんだよ。」と心強い言葉で背中を押してくれました。家族の理解と後押しがあるから、私は自分の希望進路を堂々と話すことができます。私も、兄のような充実感を定時制高校の環境の中で実現できるように頑張りたいと思っています。

そのためには、改善しなければならないことがたくさんあります。特に、体調管理をしっかりとすることです。私は腹痛を起こしやすく、今までは学校をよく休んでいました。でも、仕事を始めたら簡単には休めないと思います。それに、仕事と勉強を両立させることは、きっと今の学校生活以上に大変なことだと思います。規則正しい生活を送り、朝ご飯をしっかり食べ、毎日登校すること。それが、これからの中学校生活の目標の一つです。

私の希望進路を聞いて、「え、なんで?」と問う人に、私は問います。「え、なんで? って、なんで?」と。

もちろん、兄のように全日制高校に通い、多くの人が想像するような青春を謳歌することも、とても素敵なことだと思います。でも、人にはそれぞれ自分の考え方や、「こう生きたい」という理想があります。それは、「善悪」や「優劣」「勝ち負け」「正解不正解」なんて言葉では括れないものだと思います。

私には、私の進みたい路があるのです。

今、世界には「ダイバーシティ」という考え方が広がっています。それは、「それぞれの持つ特性や考え方、価値観を尊重し、社会全体で活用していく」という考え方です。男女差別や、LGBTQ、年功序列や学歴優先社会。日本はこの「ダイバーシティ」という考え方に関しては、まだまだ遅れていると思います。私が定時制高校に行きたいと言うと疑問を持たれるのも、多様性を認めていないということになります。

先日、私の学校のALTの先生がアメリカに帰りました。彼の夢は、「プログラマーになること」だそうです。もし日本なら、「なんで日本の教師を経験したのにプログラマーなんだ」と言われそうですが、アメリカでは、「日本の中学生のことをよく理解している人材」として、新しいアプリの開発などで重宝されるそうです。このように、特殊な境遇にあったり経験を積んだりした人を差別せず、どう生かせるかを考えるのが、「ダイバーシティ」であり、私の定時制高校の経験も、きっと将来に生かせると思っています。

私は今、「こんな職業に就きたい」という具体的な希望はありません。でも、夢はあります。それは、「立派な大人になること」です。日本では、「夢=職業」とされがちですが、生き方だって立派な夢になると思います。

世間にはまだまだ、中学生が現役で定時制高校を受検することに対しての偏見があると思います。だから、これから先に大変なことが待っているかもしれません。それでも、自分で進むと決めた路なのだから、最後まで全力で駆け抜けたいと思います。私が高校を卒業したとき、あるいは、もっと大人になったとき、「楽しい高校生活だった」と思えるかは、これからの自分次第です。私は、私を応援してくれる全ての人に感謝し、胸を張って人生を歩んでいきたいです。そして、一人一人が自分の夢を追いかけ、互いを応援できる社会になってほしいと思っています。

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佳作

楽しく生きる

青森県弘前市立北辰中学校

1年  森 芽衣

「芽衣って何でそんなに黒いの?」
私は、地黒です。幼い頃から友達や近所の人などによく、聞かれました。その時は特に傷つくこともなく、
「地黒だから。」
と答えていました。

小学4年生の夏、いつも通り半袖短パンで、私は元気に学校に登校しました。放課後、先生に手紙をみんなに渡すように言われて配っていたら、後ろの方から何人かの笑い声が聞こえてきました。何だろう、そう思いながら手紙を配っていたら、
「ねえ芽衣、〇〇が芽衣のこと黒人みたいだって言ってるよ。」
あるクラスメイトにそう言われて、泣きそうになりました。

私のことバカにしてたんだ。色が黒いとだめなんだ。その日から、私は肌が白くなりたいと思うようになりました。

まず、私は白くなる方法をたくさん調べました。一つ目の方法は、きちんと保湿をすることでした。化粧水や乳液を買って、こまめに肌を保湿しました。時間は、かかりますが白くなるためだと毎日続けました。1カ月してワクワクドキドキしながら鏡を見てみました。そこに映っていたのは・・・1カ月前と一切変わっていない私がいました。保湿作戦、失敗です。

二つ目の方法は、色が白くなるパックをすることです。さすがにこれなら白くなるだろうと思いながら、また1カ月、使ってみることにしました。はった後、手がベタベタして気持ち悪かったけれど絶対に白くなるんだと思いながら1カ月がんばりました。1カ月後、私は緊張していました。何も変わっていなかったらどうしよう、そう思って、いざ鏡の前に立ちました。鏡に映った私を見てみると、
「よしっ。」
洗面所に私の喜びの声が響きました。微妙でしたが、やっと白くなったと私は大喜びしました。そして私は自信を持って学校へ行きました。ようやくみんなと同じ位の色になれたことがうれしく、しばらくやめていた外遊びを友達と楽しみました。

私は機嫌よく帰宅してふと鏡を見ました。
「あれっ。」
鏡には1カ月前と変わらない? いや日焼けでさらに黒くなっている私がいました。
「終わった。」

私はすごく落ち込みました。そしてあの時油断して外で遊んだ私に、腹が立ちました。

その後も、日焼け止めを塗ったり、外遊びを控えたりして、これ以上日焼けをしないようにいろいろな方法をためしました。

そんなことばかりをしながら中学生になったある日のことです。朝食を食べていた時、気になるニュースが目に入りました。そのニュースは、アメリカで白人の警察官が殺す必要のない黒人男性を銃で殺したというニュースでした。私は、
「何で、黒人だからって殺したんだろう。」
とつぶやいた私に、はっとしました。黒人みたいだと笑われて、傷ついて、白くなろうとしていた私も、黒人を差別していたことに気がつきました。

そして、色が白くても、黒くても同じ人間なのだから、何ひとつ変わらないということをその時、強く感じました。

私が将来の自分に伝えたいことは、二つあります。

一つ目は、他の人の心ない発言にまどわされないことです。この世界には、人のことを傷つけている人が大勢いると思います。一つ一つに傷ついていると時間の無駄です。だから、楽しいことに時間を使って、楽しい人生を歩んでほしいです。

二つ目はありのままの私で生きることです。他の人にバカにされたりしても、負けないで、ありのままの私で生きていきたいです。自分にあったメイクやファッションを楽しみたいです。

そして、三つ目。これは、現在、中学生の私が一番がんばることかもしれません。それは、やめてほしいことを、自分ではっきりと「やめて」と言える勇気を持つことです。相手も大したことでもないと思って言っているかもしれないので、お互いにそういう誤解をしないためにも、はっきりと自分の意見を言える自分になりたいと思います。

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佳作

待たないで、自分から

青森県八戸市立長者中学校

2年 橋 愛乃

私は、中学校に入るときに八戸に引っ越してきた。誰も知り合いがいないこともあり、不安でいっぱいだった。小学校に入ったときは人見知りで友達がなかなかできなかったので、中学校では友達をつくろう、と心に決めてどんなふうに話しかけるかイメージしながら入学式に向かった。行くまでは、何組になるかな、気の合う人はいるかな、と中学校に行くのを楽しみにしていた。

しかし、いざ教室に入ると、仲が良さそうな人で盛り上がっていてなかなか声をかけることができなかった。声をかければ応えてくれるかなと思ったが、二人や三人で話している中に割り込んでいく勇気はもっていなかった。

どうしよう、どうしよう。悩んで、時間ばかりが過ぎていく。小学生の頃、友達をどうやってつくったか思い出そうとしたが、全く頭に浮かんでこない。このまま友達ができなかったらどうしようという気持ちと、自分から話しかけるのは怖いという二つの気持ちが、私の心の中でぐるぐると混じり合っていた。結局、ただ座っていることしかできないまま先生が来てしまい、話しかけることはできなくなった。

入学式が終わると、しばらく休憩の時間になった。話しかけるなら、今だ。そう思っても話しかける勇気がわかない。誰かが話しかけてくれないだろうかと思っていたとき、ふと視線を感じた。前の方を見ると、二人組の子がこちらを向いて何か話している。もしかして、私に話しかけるか、相談しているのだろうか。何とかなるかもしれない。そんな思いがふくらんだが、自分から声をかけに行くことはできず、話しかけてもらえるよう願うことしかできなかった。

「初めまして。名前、なんていいますか?」
一人の子に話しかけられ、私は反射的に立ち上がった。
「橋愛乃といいます。」
「どこの小学校出身ですか?」
「仙台の小学校から来ました。」

その後、二人の自己紹介も聞いていたら、他の子も近づいてきて、自己紹介をしあった。二人が話しかけてくれたおかげで、友達ができそうだ。嬉しい気持ちが、胸いっぱいに広がった。

入学式が終わって、家に帰ってからも、話しかけてもらえただけで嬉しくて、一週間後の出校日が楽しみで仕方がなかった。それから私は、次の出校日を指折り数えて待った。そして出校日がやってきた。わくわくしながら学校に行くと、前に話しかけてくれた子がいた。上着を廊下のフックにかけている。声をかけようか、どうしようか。この間は相手も軽い気持ちで声をかけただけかもしれない。迷っていると、その子がこちらを向いた。
「あっ、おはよう!」

その子はこちらを見るなり、一瞬もためらわず笑顔であいさつをしてくれた。小学生の頃はあいさつをすることはあまりなかったので驚いたが、「私も返さないと」と思い、慌ててあいさつを口にする。
「おはよう。」
小学生の頃は無理矢理言わされてきたあいさつが、こんなにいいものなんだとその時初めて知った。

その後も、その子は出校日に会うたびに、「おはよう!」と声をかけ続けてくれた。最初はまだ会ったばかりなのに、あいさつをしてなれなれしいと思われるのではないかと不安に思っていたが、だんだん自然にあいさつを返せるようになっていった。

そして、学校に毎日行けるようになって、数日がたった頃。廊下にその子が立っているところが見えて、気がつくと声が出ていた。
「おはよう!」
その子はいつものように「おはよう!」と返してくれた。その返事を聞いた瞬間、言って良かったと心から思った。同時に、声をかけることを必要以上に怖がることはないと気づくことができた。

私は入学式のときまで、誰かに声をかけたりあいさつをしたりすることは難しいことだと思い込んでいた。しかし、私に話しかけてくれた子のおかげで、それらのことは誰にでもできることだと気づくことができた。だから話しかけられるのを待つのではなく、自分から話しかけるようにしたい。「待たないで、自分から。」これが、私に話しかけてくれた人から学んだ姿勢だ。未来の自分にも、この姿勢を忘れないでほしいと思う。

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佳作

世界を変える外交官

青森県八戸市立三条中学校

3年 中野 愛絆

私の夢は、外交官になることです。

外交官は刻々と変化する世界情勢の中で日本の平和と繁栄という国益を守るための外交交渉や外交政策の企画・立案、途上国を支援する政府開発援助など国際協力活動、世界195カ国272におよぶ在外公館での情報収集や外交政策の実施、海外における日本人の生命と財産の保護などを行います。

私は幼いころ、国旗が好きで国旗カードをずっと覚えていました。また、中学生になってアニメを見ていたとき、外国語をたくさん話せるキャラクターを見て、かっこいいと思ったことをきっかけに外交官という職業に出会いました。外交官を知ってすぐのときは、外国語をしゃべることができたらかっこいいな、海外に行ってみたいなという憧れる気持ちで外国語を勉強してみたり、外国について調べてみたりしていました。外国について調べていくと、国際情勢や外交について興味を持ち始めました。すると、私は恵まれていて幸せなんだと改めて感じました。

現在、世界では、食料やエネルギー、経済、核兵器、難民などさまざまな問題が起きています。最近では、コロナ禍でのオリンピック開催や韓国が選手村について批判するなどがありました。

私が特に興味を持っているのは難民についてです。日本にいると分からないことが多いですが、ニュースや本で詳しく見てみると、たくさんの国で紛争や貧困によって、生活ができない人がいることを知りました。私が読んだ本で取り上げられていたのは、シリア難民についてです。

シリアでは、ずっと紛争が続いていますが犠牲者の中には幼い子どもたちもたくさんいました。シリアの戦火から逃れようと海を渡っているとき、船が沈没しトルコの海岸に打ち上げられた男の子や、シリア国内の紛争の空爆で重傷を負った男の子など、大変な思いをしている人がまだまだたくさんいます。そのような人たちを助けるため、「難民条約」が結ばれています。しかし、「難民」といってもいろいろな条件があり、難民条約があっても保護されないことがあります。例で挙げたシリア難民も難民条約では「戦争」や「紛争」という条件が書かれていないため、保護されていない難民がたくさんいます。私はこのことを知ったとき、私がごく普通に生活しているとき、地球のどこかで苦しんでいる人がいると思うと、やるせない気持ちになります。

私は、外交官になって、みんなが幸せだと思えるような世界をつくりたいです。そのために私ができることは、今の生活を大切に生きることだと思います。中学生では世界に向けて意見を訴えたり、政策を提案したりすることは難しいですが、一生懸命生きることならできます。日本で暮らしているとこれがあたりまえですが、他国からすると羨ましいほど豊かで充実している国だと思います。そんな国の国民が適当に生きてはいけないと思います。一日一日を大切に過ごし、たくさんの知識を吸収し、柔軟な価値観を持ち、それらを将来に活かしたいです。ただ知識を学ぶのではなく、国籍や人種、宗教などに関わらず、誰でも受け入れることができる大きな心をもつことが重要だと思います。

今、移民などの差別も起きています。自分と違うからという理由で差別してもよいのでしょうか。自分と肌の色や言語が違うといっても同じ人間です。人間同士で差別し合って、敵対意識を高めてしまっては、国際関係は悪くなってしまう一方です。だから、地球人として、自分が正しいと思うのではなく、さまざまな文化を知って、楽しむことができたらいいなと思います。

私は、外交官になりたいという漠然とした夢を抱いていましたが、この作文を書くにあたって私がしたいことが見えてきた気がしました。私はいろいろな国の人たちで手を繋いで地球を囲むような、そんな未来をつくりたいです。国境を越えて新しい未来をつくる外交官になります。

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佳作

拝啓、未来の自分へ

青森県青森市立沖館中学校

3年 野呂 優里佳

夏休み、私は二つのピアノのコンクールの本選に挑んだ。PTNAピアノコンペティションと東北青少年音楽コンクール。どちらも何年も受け続けていて、今年も賞を取れるだろうとどこか楽観的にもなっていた。PTNAの本番当日も、あんなに練習したのだから大丈夫、とポジティブに考えていた。実際、本番では自分らしい演奏ができたという手ごたえがあった。しかし、私は結果発表で打ちのめされた。何の賞にも入らなかったのだ。ショックというよりも結果を理不尽に思う気持ちの方が強かった。何で何で何で何で。頭の中がごちゃごちゃになる。
「お疲れさま。よくここまで頑張ったね。」
家族にほめられるのはいつも嬉しいのに、その時は心に入ってこなかった。悔しくて涙があふれてくる。会場からの帰り道、何も考えないままスマホを見ると、男子体操の種目別で鉄棒に出場した内村航平選手が、鉄棒から落下して予選落ちした、というニュースが目に飛び込んできた。驚きすぎて涙も止まり、「えーっ!?」と思わず叫んでしまう。体操界のレジェンドとも言われ、メダル候補として名前が挙がっていた内村選手。彼は予選落ちの後、テレビでどんなコメントをしたのか。ニュースの記事を読み進めた。

私は、頭をガンと殴られたような気がした。
「報われない努力もある」
という言葉があったのだ。自分でさらりと口に出せるくらいの、私の想像をはるかに越えた努力をして、それでも結果と結び付かなかった内村選手。自分のコンクールの時くらい大きなショックを受けた。「努力は必ず報われる。」誰でも一度は目にし、言われたことがあるだろう。私もそう信じてきたが、オリンピック選手ほどの努力を重ねても、待っている先は残酷なのか。しかし、記事に載る内村選手には、涙も悔しさも見えない。ふと気付く。自分で、全力を出したと心から思える練習だったからなのだと。比べて私はどうだ? コンクールが終わって悔し涙が止まらなかったということは、胸を張って「やり切った」と言える練習ではなかったのだ。私は、内村選手に自分の甘さを教えてもらった。

それからの一週間、次の東北青少年音楽コンクールに向け、練習内容を見直した。幸いにも、課題曲のうちの一曲はPTNAの時と同じ曲。リベンジのチャンスだと思った。曖昧だった左手の動きを何度も確認したり、ホール等の広い会場で弾くことを意識して、ppの音も芯のある、軽やかに響く音にしたり、細かい部分を注意しながら練習した。いつしか私は、賞を取ることよりも、心の底から全力を尽くしたと思えるよう、笑ってコンクールを終われるよう、考えるようになっていた。

迎えた本番当日。以前は、「賞に入らないといけない」と無駄に力が入っていたが、この日は落ち着いていた。何より前のコンクールと変わったのは、感謝する、ということ。今までは「賞を取れるまで応援してくれたこと」に感謝していた。結果が良いと分かってから、やっと周りのありがたさに目を向けていた。

しかしこの日の私は、支えてくれた家族に、技術面だけでなくメンタル面でも導いてくれたピアノの先生に、大舞台で、そしてグランドピアノで演奏できることに、ピアノを弾く前から感謝することができていた――。

私が内村選手から教えてもらったのは、自分の甘さだけではない。「報われない努力」は確かに結果にはつながらないかもしれないけれど、決して「無駄な努力」ではない、ということだ。自分で胸を張れるくらいの努力の過程で、私はこの先ずっと必要になる集中力や努力する習慣が身に付いた。気付いていないだけで、他にもたくさん得られたものはあるだろう。目先の結果にとらわれず、勝つことよりももっと大きな価値を、努力する意味を、見いだすことができたのだ。

未来の自分へ。一つの目標に対して真剣に向き合うことを、つらいと感じたり諦めたくなったりする時もあると思う。でも私は、頑張り続けた先に、今まで見えていなかった景色が広がることを知ったから、努力する中での苦しさが、いつか大きな達成感、満足感につながっていき、その結果自信になることを、その努力には必ず意味があることを、忘れずにいてほしい。

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佳作

幻の青森ねぶた祭

青森県青森市立古川中学校

2年 渡辺 太朗

今年の冬、青森ねぶた実行委員会は、
「今年の青森ねぶた祭は開催します!」
と言っていた。昨年、新型コロナウイルスの影響で戦後以来、初めてねぶたが中止になった。

昨年の夏は苦しく、季節感がなかった。3歳の頃からねぶた馬鹿だった私は、ねぶた中心の生活だった。だから、ねぶたは私にとって血液であり、体を動かすための基盤であった。そのため、今年はねぶたを行うと聞いたとき、とても血が騒いだ。私はすぐに尊敬しているねぶた師「竹浪比呂央先生」がいらっしゃる竹浪比呂央ねぶた研究所に向かった。先生はねぶた開催が決定してすぐに今年のねぶた制作に取り組んでいた。先生は言った。
「今年は、ねぶたできそうですね。」

2年分の思いが詰まったねぶたはどうなるのだろうと想像がふくらんだ。私は、今年こそ先生のねぶたの手伝いがしたいと思っていた。定期的に研究所に通った。そして、私は先生に伝えた。
「今年のねぶた、お手伝いさせてください。」
先生はすぐに答えてくださった。
「このコロナ禍の中でお手伝いできる人数も限られてきます。今年は難しいかもしれない。決まり次第、連絡します。」
当たり前のことだが、ねぶた制作にもコロナの影響は色濃く出ていた。

2週間後。先生から連絡がきた。
「お手伝いは、今年はごめん。でも、ねぶたは見学したいだろうから、見学なら・・・・・・。」
涙が出そうなくらい嬉しかった。先生には感謝しかなかった。

小屋見学一日目。ねぶた小屋に出向くと、すでにねぶた制作は急ピッチで進められていた。小屋に入ると早々、先生に言われた。
「これから土曜日の午後、毎週来ていいよ。それから、ねぶた小屋の様子やねぶたの構造をメモするといいよ。」

今まで小屋のすき間から顔をのぞかせて見ていた自分が、ついに念願の定期での小屋の出入りができる。嬉しくて心が躍った。スケッチブックでの構造などのメモは、自分もねぶたを家で作っているので、とても参考になった。

ねぶた小屋の出入りもだんだんと慣れてきた頃、2021年のねぶた祭の中止が発表された。要因は増え続けるコロナウイルスであった。ねぶたの中止に伴い、運行団体はいくつもの壁にぶつかった。一番大きな壁は、制作途中のねぶたの存在であった。そのときねぶた師全員の思いを語ったのが、先生だった。
「もう紙を貼っているねぶたもあります。これを明日から中止です。ねぶたは解体です。これは殺生です。どうか、最後までねぶたを作らせてください。」
痛いほど気持ちが伝わった。祭りに出して役目を終えたねぶたは壊せる。しかし、未完のねぶたを壊せるわけがない。幸いなことに先生の作っている2団体のねぶたは制作を続けることになった。

7月27日。先生のねぶたが完成した。青森菱友会「雪の瓦罐寺(がかんじ)」JRねぶた実行プロジェクト「術競べ(じゅつくらべ)袴垂保輔(はかまだれやすすけ)と鬼童丸(きどうまる)」だ。2作ともとてもすばらしいねぶたになった。雪の表情が印象的な菱友会と、大蛇が今にも動き出しそうなJR。

8月1日。例年であれば今日が前夜祭である。前夜祭が中止になった今、竹浪先生の点灯式が行われた。関係者のみで行われた点灯式に家族で行った。囃子の音色とともに、一台ずつ点灯された。2年振りの灯りが点るねぶたに涙があふれんばかりの感動を受けた。やはりねぶたは下から見てなんぼのもんだと思った。先生の言う通りだった。最後に先生に挨拶した。
「コロナ禍の中、ねぶたを学ばせていただき本当にありがとうございました。」
すると、先生は、
「来年はお手伝いよろしく。ねぶた終わってから受験勉強だな。」
と、笑っていた。

来年のねぶたは絶対にやる。憎いコロナウイルスをねぶたの力で吹き飛ばす。囃子の音、ラッセラーのかけ声。

私は、ねぶたの迫力を世界に轟かす日を取り戻す。繋げ、2022!

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未来の自分に伝えたいこと

岩手県盛岡市立松園中学校

1年 兼田 真衣

現在私が生きている世界、地球はさまざまな問題をかかえています。その地球上の日本という国の岩手県盛岡市で私は今、中学校1年生となり生活しています。

私が知る何年も前から、「地球温暖化現象」という大きな問題があります。私たち人間の活動によって、大量の二酸化炭素が大気中に放出され、地球全体の平均気温が上昇しているという現象です。地球温暖化現象により、このままでは、海の水が増え、陸地が減ってしまう。気候も影響を受け大雨、台風、雷など災害も増える。伝染病などの病気が増える。米や畑の作物や魚がとれなくなり、食べ物が少なくなる。本当にたくさんの影響が心配されています。残念ながら、実際の地球上ではたくさんの災害が起こっているように感じられます。大雨や台風により川が氾濫し家が流されたり、土石流や土砂崩れに巻き込まれたりして多くの人々が命を落としています。私が住んでいるところではまだそのような災害は起きていませんが、今までにないほどの大雨や、雷など急な天気の変化に恐怖を感じることはよくあります。

昨年、新型コロナウイルス感染症という命にかかわるとても恐ろしい伝染病が世界中で流行してしまいました。それは、私が住んでいる日本にも、岩手にも広がりたくさんの方々が亡くなっています。無事に助かっても後遺症が残るとても怖い病気です。今までのように普通に外を出歩けない、必ずマスクをして、手の消毒をするという日々が続いています。学校に行くこと、友達と遊ぶこと、ごはんを食べに行くことなど、あたりまえの生活ができなくなっています。国からは、緊急事態宣言や、まん延防止等重点措置など出されていますが一人一人がそれぞれ自分の考えで行動しているように思います。もはや国の宣言に意味があるのかよくわからなくなっています。子どもの私たちは、親や先生方に言われたとおりに動いています。学校が休校になり、自宅待機になったこともあります。いろいろな行事が中止になったり、時間を短縮して行ったり、大会などは親も入れない無観客で行ったりしました。学習旅行は行き先を変えました。

私は小学校六年生のころから、今必要な活動としてSDGs「持続可能な開発目標」を勉強してきました。地球が「持続不可能になってしまう」という記事を読んで、人ごとではないと感じました。そうならないために、未来の自分やまわりの人々がこの地球で安心して、幸せに暮らしていけるようにしなければと思いました。SDGs、「持続可能な開発目標」は17あります。どれか一つでも、興味があったり、理解できることがあれば、できることから始められると思っています。小学校の時は、四十四田ダムの発電所を見学してきました。近くに住んでいるのに、ダムの水力で発電されていることなど知りませんでした。そして、中学では、八幡平市の松川地熱発電所を見学してきました。自然のエネルギーで発電ができることをすばらしいと感じました。今まで知らなかったことを知ることは、今の自分にとっても、未来の自分にとっても大切で、いろいろな問題の解決にもつながっていくと思いました。自分自身が未来のために変わっていくことは大切なんだと思いました。そして、特別意識していなくても、日常生活でやっていること、できていることも多くあることに気付きました。例えば、家の照明をLEDにかえていることや、お店では地元の農産物を選んで買っていること、近い場所には徒歩や自転車で移動すること、水を出しっぱなしにしないこと、そしてゴミの分別をしっかりやることなどです。それらの小さいことが、自分だけではなくて自分の大切な人や、守りたい人のためにもなると思います。

未来の自分へ、今私はこのような状況のなかで、何が大切か、何ができるのか、どのような行動をすれば良いのか考えながら生活しています。そして、いろいろな情報の渦の中で、何が本当なのか、どうしたら良いのかわからなくなることもあります。しかし、今自分や家族の命を守るため、やるべきことをやっています。未来は、どんな世界になっているのでしょう。温暖化現象はどうなっているのでしょう。世界の人々は、幸せに暮らせているのでしょうか。そして未来の私は、思い描いていた自分になっていますか。大変だった時を乗り越えて生きているのだから、それらを思い出し、人のために、自分のために、強く生きて、幸せでいてほしいです。

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未来の自分へ

岩手県八幡平市立安代中学校

3年 工藤 琉翔

僕のスキージャンプ人生がスタートしたのは6歳のとき。嫌々始めたジャンプだったが、今の僕にはかけがえのない存在となっている。

僕は今、「世界一になる」という夢に向かって日々過ごしている。そのために心がけていることと未来の自分に伝えたいことは、「人を大切にすること」、「常に探求心を持つこと」だ。なぜかというと、昔、自分のありさまがひどかったからだ。

兄と姉がジャンプをやっていて、父に無理矢理始めさせられた。本当に怖くて毎週ジャンプ台へ連れていかれ、台滑りをしているうちに飛べるようになった。それから初めて楽しいという感覚が芽生えた。しかし、大会に出るようになってからは、全てが楽しいわけではなかった。今では、「ただ飛ぶことが楽しいジャンプ」が「大会で勝ち負けを争うジャンプ」に変わり、大会で周りの選手に負け、悔しい思いを何度もした。負け続けると、ジャンプが嫌になることもあった。そのうえ、体が小さい自分は周囲の人からも「体が小さいからね。」と言われ、とても悔しかった。小さくたって勝てるということを証明したいと思うようになり、必死に練習に取り組むようになった。しかし、世の中はそんな甘くなかった。どれだけ頭を使って練習しても大会で入賞すらできなかった。そのうち僕は、ジャンプというものが心の底から嫌いになった。そこから、小学4年生から始めた野球と保育園からやっていたアルペンに逃げた。

そんな僕を変えたのは唯一無二の存在、兄だ。八つ上の兄は当時高校3年で場数も踏んでおり、小さいながらも心から尊敬していた。そんな兄は誰にでも謙虚で誠実で、常に探求心を忘れなかった。兄は誰にでも平等な態度で接して生きていたと思うし、何より自分のためより人のために動いていた。また、兄は努力家で常に探求心を持って過ごしていた。兄は勉強でもジャンプでも現状に満足せず、一つ課題をクリアしてもまたもう一つとどんどん進んでいった。僕も兄にジャンプのアドバイスをもらうが、「今に満足しているならお前は三流以下だ」とよく言われてきた。今までは少し良くなったり、課題を一つでもクリアしたりすると、そのことに満足し、次のステップに行こうとは思っていなかった。でも今は、現状に満足しないために、常に上を目指し練習するようになった。

僕は世界一になるという夢を持っている。世界一を目指すきっかけは、小さい頃によく遊んでもらっていた小林陵侑さんの活躍だ。陵侑さんを見て僕も陵侑さんみたいになりたいと思ったのがきっかけだ。今、僕は「人を大切にすること」、「常に探求心を持つこと」が大切だと思うようになった。だからこそ未来の自分にこの二つのことを伝えたいと思う。

まず一つ目の、「人を大切にすること」とは、どんなときも、人への感謝の気持ちを忘れず、行動することである。具体的には、社会に出ると、たくさんの人と関わると思う。相手に向かって暴力、暴言をふるったり、吐いたりしないのはもちろん、年上でも年下でも、先輩でも後輩でも常に謙虚に接して、どんな人にも感謝と尊敬、気を配ってほしい。人間性を磨くことは、直接ジャンプの成績に結びつかないと考える人もいるだろう。しかし、誰にでも感謝と尊敬の気持ちを持つことで関わってくれる方たちと良い関係を築くことができると考える。良い関係になることでコーチの方々からアドバイスをもらうことができ、結果として技術面の向上、世界一になるために必要なことであると考える。

次に二つ目の、「常に探求心を持つこと」とは、現状に満足せず常に高みを目指すことである。具体的には、与えられた課題に取り組むだけでなく、プラスアルファのことまで取り組むようにすることである。現状に留まることなく、もう一つ上を目指してほしい。また、働いたとしても、与えられた仕事に対して、どうしたらそれ以上のものを返せるのかを自分で考え、実行してほしい。

世界一になることは、とても難しいことである。しかし、目の前にある一つ一つのものを着実にクリアしていくことが、夢を叶えるために必要なことだと考える。そのために、まずは、県中学校大会での優勝、全国中学校大会での表彰台を達成できるように、冬に向けて練習できることに感謝し、一日一日を大切に練習していきたい。

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世界を笑顔にする

岩手県一関市立花泉中学校

2年 佐藤 有純

世界を笑顔にする。

これは私の将来の夢であり、生涯をかけて挑む目標である。

なぜ私が生涯をかけてまで挑むのかというと、私には医師になるという夢があるからである。私はいろいろなドラマを見て、医師という職業に関心をもった。そして、実際に働いている人の笑顔を見たり医師という職業について詳しく知ったりしているうちに、自分も医師になって誰かを救うことで笑顔を増やしたいと思うようになっていた。誰かを救い、その人の心まで治すことができたら、世界は少しずつだとしても明るくなっていくと感じたのだ。

また、この理由に加えて、世界の現状を知ったことも影響していると思う。今現在、世界ではさまざまな理由をかかえ、苦しんだり生きていくことさえままならなかったり、中にはやむを得ず亡くなったりする人がいる。私はこの問題の原因に飢餓が関係していると考えた。飢餓について調べていたら世界人口約78億人のうち、8億人以上が飢餓に苦しんでいるということを知った。また、2050年には世界人口の97億人に対し、約20億人ほどが飢餓に苦しむというデータもあり、とても恐ろしく感じた。しかし今、私達が本当に目を向けなければいけないのは、食料は世界の人々全員が健康に生きられる分の量があるのに飢餓の人が多くいるということだ。この原因は、先進国が世界で生産されている穀物の半分を消費しているところにある。しかも余った物や食べられなくなった物を多く廃棄していて、ここ日本でも年間約612万トン以上の食料を捨てている。私も、知らないうちに食料を廃棄しているかもしれないと感じた。それと同時に、その無駄になってしまう食料をうまく飢餓の人にあげられたらいいのにと思ったが、現実は難しく中々そうはいかない。私は涙が出そうなくらい悔しかった。この悔しさを多くの人が感じれば、廃棄される分の食料が苦しんでいる人たちにいきわたり、笑顔になる人が増えるんだ、と考えていたら、私はやはり笑顔の人を増やしたいのだと改めて思えた。

さらに、笑顔の大切さに気づいたことも理由として挙げられる。私は今まで、登下校中や地域行事などでお年寄りの方と話す機会があった。幼い頃はあいさつしかできなかったが、だんだん話すようになって、お年寄りの方と話すことは楽しいし、何よりもお互い笑顔になれることが私にとって一番嬉しかった。また、私が決して笑顔になれない気持ちの時でも、周囲の友達は私に笑顔で接してくれた。友達が笑顔だと、意味も分からないのに自分まで自然と笑顔になる。これは笑顔の魔法だといつも思う。アメリカの著作家、ウィリアム・アーサー・ウォードは多くの名言を残しているが、その中に「優しい笑顔は思いやりの世界共通言語」という言葉がある。世界中で有名な偉人、マザー・テレサは「平和は微笑みから始まる」という言葉を残している。二人の言葉から、笑顔というのは言語に関係なく伝わる、平和への第一歩だと考えた。そう聞くとなぜか笑顔という言葉がすごく偉大で価値があるように聞こえる。笑うことで世界平和に近づくのであれば、私は誰よりもたくさん笑いたい。

笑顔にすることは良いことだけれど、世界を笑顔にすることはそんなに容易ではない。これは誰もが思ったことだと思う。私も笑顔を増やしたいけれど、世界を平和にしたいけれど、世界規模で笑顔にするのは無理なのではないか、小さな規模でも充分ではないか、といろいろ考えた。でもある瞬間、限界は決めず、高い目標に向かってとにかく挑戦し続ければいいと思った。私なんかができるわけないし、自分が思う以上に世界は広く道のりは長いのだからやっぱりできない。いつもそうやって決めつけてばかりで、自分で自分の可能性をつぶしていた。私以外にも勝手に自分の限界を決めてしまっている人はたくさんいると思う。しかし、その考え方を180度変えて、限界を決めずに挑戦し続ける。そうすると、失敗して失敗して成功してまた失敗して、と繰り返してきた努力の積み重ねによって、最高の笑顔や大切なものが生まれるはずだ。

だから私は生涯をかけて挑む。挑んでやる。この目標に。この夢に。

世界を笑顔にする。

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こんな日本の政治を担いたい

岩手県盛岡市立大宮中学校

3年 佐藤 綾音

「私の将来の夢は叶うのだろうか」。

私の将来の夢は、政治家になることです。いつか日本の政治分野のリーダーになり、明るい社会を創ることを目指しています。

きっかけは小学生の頃、祖父が私のために買って来てくれた一冊の本でした。その本では法律について分かりやすく解説がされていて私の「法律」のイメージが変わりました。今までは法律についてよく知らず、「私達の自由を縛る、窮屈な物」というイメージしかありませんでした。しかし、法律はどれも私達の安心で安全な生活を保証するために考えられ、定められていました。本を読み、法律とは「私達の自由で明るい暮らしを守る物」だということを学びました。「法律って凄いな」と感動した私は「私もみんなの安心・安全のために法律や制度をつくりたい。みんなの暮らしをもっと明るく、より良くしたい」と考えるようになりました。こうして、私の将来の夢は「政治家」になったのです。

この夢に近づくため、毎日、新聞やテレビのニュースを興味深く見ています。しかし、ニュースを見るたびに私は不安になります。

「私は本当に政治家になれるのだろうか」と。

日本は政治・経済分野の女性リーダーが少なく、男女格差が大きいと感じるからです。海外では女性リーダーの活躍が広がっているのに対し、日本は取り残されているように思います。以前、私は学級委員長を務めていましたが、他のクラスの学級委員長が全員男子ということに戸惑ったことがありました。リーダーになる能力や適性のある女性はたくさんいるはずなのに、なぜ男性のリーダーが多いのか、疑問に感じていました。しかし、ある何気ない会話から、男女格差解消のヒントに気付きました。

男子の友達、男性の先生と好きな色について話していた時のことです。二人は青色や緑色などの寒色が好きだと話していました。私が一番好きな色は赤色だと言うと、二人は声を揃えて言いました。「女性はそうだよね」と。この一言に、私はとても違和感を持ちました。女性には暖色を好む人が多い傾向があるかもしれませんが、私が赤色を好むのは、女性だからではありません。明るくて元気になれる色だから、赤色を選んだのです。

この経験から、女性リーダーの少なさは、このような無意識の偏見や差別が影響しているのではないかと考えました。このようなジェンダーを巡る偏見はジェンダーバイアスといい、長年受け継がれて定着してきた物だそうです。「責任のある仕事は男性がするもの」「政治は男性の仕事」というジェンダーバイアスが女性の活躍の場を狭めています。

「ジェンダーバイアスに悩んだり、困ったりしているのは男性も同じなのではないか」そう思い、周りの男性に話を聞いてみました。すると、周囲からの「男性らしく」という言葉に違和感を持ったり、「女性らしい」とするものを好きだと主張しづらいという人がたくさんいました。ジェンダーバイアスは男性にも影響を与えています。

世界には男性も女性もいて、優劣がつけられるべきものではありません。「男性だから」「女性だから」という理由で、好き嫌いや得意・不得意が決めつけられてしまうのは「平等な社会」だといえるのでしょうか。

私は政治家になったら、一人一人が良いと思うことを主張し、自分らしく生きられる世の中を創っていきたいです。そのために、15歳の私に、今できること、それは、ジェンダーバイアスにとらわれることなく、個を尊重する言動を心掛けること。一人一人の多様性を認める優しさを持つこと。「私が相手を思いやる言動を心掛けることで、周囲に影響を与えることができるのではないか。私の小さな行動が、この大きな社会の変化に少しでもつながるのではないか。」そう考えたからです。相手を尊重し、個性を大切にすることが、今の私にできる「明るい未来」への第一歩なのだということを信じ、一つ一つの言動を大切にしていきたいです。そして、将来は一人一人を尊重できる社会のために、私が法律や制度を整えたいです。

私は「男性らしさ」「女性らしさ」に縛られ、自分の夢を諦めたくありません。多様な個性が尊重され、一人一人がそれぞれの能力を発揮できる。私は、こんな素敵な社会の、政治を担うリーダーになります。

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心が一つにつながった体育祭

岩手県盛岡市立大宮中学校

3年 滝澤 大陽

「体育祭を延期します。」
この言葉を聞いたとき、さすがに正直なところ私も腹が立ったし呆れました。もう無理かもしれないとも思いました。これは、一度目の延期ではないのです。

私は、生徒会長をしています。今年度の体育祭は縮小という形ではあったものの、中学校生活最後の体育祭の実行委員長として、強い思いと希望を持って臨んでいました。

体育祭を明後日に控えた木曜日。いつもと何も変わらない放課後にその知らせは突然やってきました。体育祭の延期です。今まで一生懸命頑張ってきたものがなくなってしまうのではないかと、心配の気持ちが強くおこりました。しかし、私たちの安全のためでもあり、仕方がないと切り換えました。けれども、少しずつ全校生徒の気持ちが体育祭から離れていくのを感じました。これでは私たちが目指す心を一つにする体育祭はつくることができないと思いました。悩んだ末、白・緑・赤・黄・青、この5組団の団長と私と校長先生とで話し合いを行いました。すると団長たちは、
「競技や応援の練習をする時間が増えてよかった。」
と体育祭の延期をとても前向きに捉えていて、私は彼らのことをとても頼もしく思いました。そんな頼もしい団長たちの提案で生徒会は、私と彼らの思いを書いたメッセージと体育祭取り組み中の写真を掲示することにしました。私は体育祭実行委員長としてどのようなメッセージを送ったら全校生徒が体育祭に心を向けてくれるのか悩みました。そんな中一つの言葉が頭に浮かびました。「一心」これは、今年度の体育祭スローガンです。今までこのスローガンに向かって心を一つに取り組んできたのです。それならばと思い私が送ったメッセージは、「こんなときだからこそもう一度心を一つに」です。延期になって残念に思う気持ちはあるかもしれないけれども、こんなときだからこそもう一度心を一つにして取り組もうという思いを込めました。翌朝、メッセージと写真を掲示した昇降口前廊下には人だかりができていました。不安だった私は心の中では「ヤッター」とうれしくなりましたが、いつもどおりあいさつをして自分の教室に向かいました。教室でも掲示についての話がされていました。やってよかったという充実感とともに、まだまだこれからだと気が引き締まるのを感じました。

数日後、再び体育祭取り組みが始まりました。あの掲示が響いたのでしょう。全校生徒の心は体育祭に向かい一つとなっていました。
「延期する前よりも完成度の高い体育祭をつくれる」そう思いました。

日は進み、延期された体育祭を週末むかえようとしていた時、全校集会が開かれました。それは二度目の体育祭延期の知らせでした。私はもう体育祭はできないのではないかと思いました。とても腹が立ちました。しかし、ここで実行委員長の私が諦めてしまっては終わりだと思い、考え方を変えてみることにしました。一度目の延期の際は、競技や応援を練習する時間が増えてよりよい体育祭をつくれるという前向きな考え方に変えることができました。二度も体育祭を延期した私達にとっては、思い出に深く残る体育祭を行うことが大切なのではないかと思いました。

二度目の延期が知らされてから本番まではあまり時間がありませんでした。各組団長の意気込みはすさまじく、思い出に残る体育祭にしようと必死でした。3年生が中心となり1・2年生も協力して気持ちを高めていきました。

当日は、盛り上がりを見せ閉会式へと入りました。組団長からの言葉で団長たちが述べたのは予想外にも地域の方への感謝の言葉でした。体育祭を行えたことへの感謝の気持ちが詰まっていました。一番頑張っていたのは彼らといっても言い過ぎではないと思います。誰よりも体育祭に思いを注いでいるのに、二度の延期にも負けず組団を引っ張ってきたのです。そんな彼らの言葉を聞いて、彼らが団長をやっていてよかったと思いました。この体育祭は、決して私たちだけで開催できたものではなく、先生方や地域の方、保護者の方の協力があったからこそ開催できたのです。そういう意味でも学校を越えて全員がつながり、心が一つとなる体育祭になりました。

未来の自分に伝えたいこと、それは諦めないということと、マイナスなことをプラスにできないかと考えることです。この二つのことで私は体育祭を成功させることができたと思っています。この経験を人生の教科書の1ページとして残し、困ったことがあったときは、読み返したいと思います。

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佳作

当たり前の大切さ

岩手県盛岡市立仙北中学校

2年 佐藤 このか

新型コロナウイルス感染症は、私達の生活を大きく変えた。毎日のアルコール消毒、マスク生活など、今では当たり前になりつつあるが、これまでの当たり前は大きく変化した。

そんなコロナ禍の中、私は中学校に入学し、吹奏楽部に入部した。優しく明るい先輩、共に励まし合える友人に恵まれ、楽しい部活動はスタートした。しかし、その様子が一変したのは間もなくだった。それは、新型コロナウイルス感染症の影響による、吹奏楽コンクールの中止の知らせだった。世の中の流れとして、さまざまな行事が中止や縮小になっていることは知っていた。実際、私自身も小学校の卒業式や中学校の入学式は縮小された。しかし、コンクールに向け、先輩や友人と心を一つに課題曲の練習に日々励む中での知らせだった。先輩は、その知らせを聞くと涙していた。その先輩達の涙を見て、私はこれまでの先輩達の努力を近くで見ていたからこその辛さ、悲しさ、行き場のない怒りさえも感じた。そして、私自身、来年は先輩達の分まで気持ちを込めて頑張らなければならないと、どこか使命感に似た気持ちになった。

そして迎えた今年のコンクール。私にとっても初めてのコンクール。去年卒業した先輩達の気持ちを胸に日々練習に励んできた。課題曲は去年先輩達と練習を積んできた曲。思い入れのある曲だ。先輩達のようにはまだ吹けない。しかし、私の精いっぱいの演奏をしようと心に決めていた。本番、パートメンバーと心を一つに精いっぱいの演奏ができた。演奏終了後、自然と笑顔になれた。みんな笑顔だった。それは、演奏が本当に楽しかったから――。必死に練習に励んだ日々は、苦しいことも多かった。しかし、この笑顔のために自分は頑張れた。頑張ってきて良かったと心の底から思えた。それと同時に、卒業した先輩達の顔が浮かんだ。一緒に笑いたかったなと――。この充実感と、この達成感。先輩も感じたかったはずだ。

今年のコンクールは、さまざまな制約はあったものの、無事に開催していただいた。そこには、多くの方々の協力と努力があった。関わった全ての人に感謝したい。私達の結果は、金賞という目標通りの結果を頂くことができた。やはり、日々の成果をこのような形で評価していただくことはとても嬉しい。

テレビや新聞でも、連日さまざまなイベントや大会などが中止になっているニュースを見聞きする。世の中は、今さまざまな我慢をしている。私達、中学生も例外ではない。私は、最近思う。「当たり前ほど、幸せなことはない」ということを。今回のコンクールも、これまでは実施することが当たり前だったのかもしれない。しかし、その当たり前ができなかった時ほど、人は傷つくと思う。そして、その時に初めて日常の当たり前に感謝するのだと思う。

母に聞いた話を思い出した。それは東日本大震災の時の話だ。その時、母は幼い私と弟と共に、被災地である母の実家の田野畑村にいたそうだ。ライフラインは寸断され、日々の生活に必死だったと聞いた。当たり前に人と会えること、食べること、水や電気があることがどんなに幸せなことなのかを忘れてはならないという話を聞いた。今、自分自身、当たり前にできないことが増え、当たり前の大切さを実感した。

私達が去年出場できなかったコンクールもその一つだ。その状況をのみ込み、卒業した先輩達がいる。私達が今できること。それは、先輩達の思いを心に留め、努力すること。そして、私は社会の一員として、こんな時代だからこそ、全てを当たり前と思わず、一つ一つのことに感謝したい。人と関われること、家族や自分が元気でいること、学校に通えること。全てがとてもありがたい幸せなことなのだ。そして、いつも笑顔で周りの人に感謝したい。自分の周りにいる人々と、いつ会えなくなるか分からない。だからこそ、感謝を伝えられる時に伝えたい。今日という日は、いつまで続くかなんて分からないから。いつ倒れ、いつ災害が起こっても、後悔のない人生を歩みたいから――。

未来の私へ、あなたは今、笑顔ですか。自分や周りを笑顔にする努力をしていますか。

中学生の私は、今制約のある日々の中、「当たり前」の幸せさを感じながら、日々、勉強や部活動など今できることを精いっぱい努力しています。そして、自分らしい笑顔と周りの人への感謝を常に持ち、生きています。

私は、これからもこの思いを持ち続けたい。そして、この時代を経験した自分だからこそ感じたこの思いを、多くの人に伝えたい。

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佳作

だれかのために・・・・・・

岩手県久慈市立山形中学校

1年 田中 彩遥

「負けたら終わりじゃなくて、やめたら終わりなんだよね」。

目にしたときから、私の心に何度も響くこの言葉。これは、私が読んだある本の中に出てきた言葉で、水泳のオリンピック選手、寺川綾さんの座右の銘である。寺川さん自身もある曲の歌詞である、この言葉が大好きで、どんなに結果が出ない時期が続いたとしても、自分が頑張り続けている限り、夢は消えないと綴っている。
「そうか。夢は勝手に消えないんだ。夢に向かって頑張るのをやめたら終わりなんだ・・・・・・。」私は思わず、そうつぶやいた。

私の将来の夢は、多くの人の命を救う医者になることだ。きっかけは、小さい頃に観たテレビドラマだった。主人公の女医がどんなに難しい手術でも完璧に成功させる姿に、とても感動した。どんな困難な手術でも失敗しない姿に、大きな憧れを抱いた。そして、医者は命を救うだけでなく、その人の未来への希望を持たせる存在にもなることに気づいた。そこから、私は人を助ける医者になるという大きな夢を持った。

しかし、この思いに大きな影を落とすことが起こった。それは今もなお猛威を振るっている新型コロナウイルスである。現在、日本は第5波の真っ只中であり、毎日のように感染者は過去最多人数を更新している。岩手県や私が住んでいる地域でも、最近感染者が増加しており、危機感を抱いている。予防策を講じても、感染力の強い変異株の流行によってなかなか収束しないのが現状である。そんな中、感染リスクの高い病院で働いている医療従事者の大変さについてよく耳にする。毎日、多くの患者が病院に搬送されてくる。それによる医療従事者の不足や医療現場のひっ迫。そこで働く人達の身体的精神的な負担は私達の想像をはるかに超えたものだろうと思う。それに加えて、自分への感染リスクや家族にも感染させてしまうのではないかという不安。そんな中で、闘っている医療従事者の方を突き動かしているものは何であろうか。きっと、それはだれかのために何かをしたい、一人でも多くの命を助けたいという強く温かい気持ちからだと思う。感染するかもしれないという恐怖よりも、たくさんの命を救いたいという覚悟、そして使命感があるのだと思う。

そう考えると、私の決意は揺らいできた。ドラマを見て、憧れだけでなりたいと思っている医者に自分はなれるのだろうか。常に危険と隣り合わせで働いている医療従事者のような覚悟を私は持てるのだろうか。たくさんの不安が、頭をよぎる。この先もどこまで感染が広がり、どれだけの人がこのウイルスによって命を落とすのだろうか。もちろん、コロナウイルスだけではなく、他にも命を脅かすものもこれから出てくるかもしれない。

しかし、私たち人間は闘いをやめることはない。世界の医療は日々、進歩している。未知のウイルスにすら、1年も経たないうちに、ワクチンが開発され、そのワクチンは少しずつではあるが世界各国に供給されている。自分の国の人だけが助かればいいのではなく、世界中の人々が力を合わせ、コロナウイルスに打ち勝とうとしている。希望を捨てない限り、光はあるのだ。「やめたら終わり」という言葉の通り、やめてしまったら助かる命も、そしてその先の未来も閉ざされてしまう。誰かのために何かをしたい、人の命を助けたいという強く温かい気持ちを持つことが大切なのだと思う。

今、私は13歳。これから先、進路を決めるにあたってさまざまな分かれ道があるだろう。現実の厳しさを目の当たりにしても、やはり私は医者になりたいと思う。今は、まだ現場で働いている方のような覚悟は持てないが、それでも「誰かのために、自分の力を尽くす」そんな思いを持って歩み続けたい。「自分が頑張り続ける限り、夢は消えることはない」本に書かれていたこの言葉が、いつも私の背中を押してくれる。私はすぐに諦めて、手を放してしまう。何事も長続きしないのはそのせいだと実感している。自分が諦めないことが夢を叶える一歩だ。どんなことがあっても、この言葉を忘れずに努力したい。

10年後の私へ。

13歳の時の私の想いは、今のあなたの胸の中に残っていますか。未来のあなたが、輝き、夢に向かって力強く歩いていることを願って「やめたら終わり」「誰かのために・・・・・・」という言葉を大切に頑張るからね。そして、小さな小さな私のこの想いが、未来の明るい光の一つになることを願って・・・・・・。

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佳作

好きなことは、好きでいていい

岩手県盛岡市立河南中学校

1年 渕上 莉奈

10年後の自分へ。

今、なにをしていますか。今の私は、幼稚園の先生になりたいと思っています。

私は、10年後の自分に、「好きなことは好きでいていいんだよ。」と伝えたいです。

私は、小学生のころから、よくいじめられていました。いろいろな悪口を言われて、最初はそのたびに悲しくなりました。でも、やがて、私は悪口を言われることに慣れて、いつのまにか悲しくなるなんてことがなくなってしまいました。

でも、ある時、悪口を言われて久しぶりに悲しくなったことがありました。それは多くの人にとってはなんでもないようなこの一言でした。
「このアイドルのどこがいいの?」

私は、深く深く傷つきました。

そのころ私は、いろいろなアイドルが好きでした。私を支えてくれる、かけがえのない存在でした。だから、それを言われた時、思いました。
「自分がだれかを好きだと思うのはだめ? このアイドルが好きという感情を持ってはいけないの?」

それは、今思うと、とてもちっぽけなことだったのかもしれません。でも、言われた時は、とても傷つくことでした。

私には、脊柱椎側湾症という病気があります。これは、背骨が左右にS字に曲がる病気です。

曲がりを抑えるために、いつも体に装具を付けていて、さまざまな支障がありました。例えば、体育座りやマット運動ができないなどです。

私は本当に嫌でした。なんで周りの人と同じことができないのか、自分だけこんなにつらい思いをしなければならないのか――。

周りの人は、この病気のことを理解してくれました。でも、以前から私に悪口を言っていた人は、全く理解してくれず、いやというほどまた悪口を言ってくるのです。
「変なの背中から出てる。ただの猫背でしょ。」

その言葉は、私を追いつめるのには充分でした。私は負の感情をかかえこんでしまい、
「私はいなくなったほうがいいのではないか。」
そう考えてしまうことがありました。

毎日生きるだけでいっぱいいっぱい――そんな時、私を、ある言葉が救ってくれました。

「他人から見ればくだらないものでも、私はそれを大切にしてはいけませんか?」

これは私の好きなアイドルの言葉です。彼は、たくさんの素敵な言葉を届けてくれます。この言葉もそのうちの一つです。

この言葉で、私は思わず涙を流してしまいました。たかがアイドルの言葉一つで――。そう思う人のほうが多いと思います。でも、自分は「私は私なのだから、好きなことは好きでいていいんだ」と思えるようになりました。この言葉は、未来の自分にもずっと心に留めておいてほしいです。

つらいことはこれからもたくさんあると思うけれど、「私は私、好きなことは好きでいていい」と強い気持ちで過ごしてほしいです。

私が大切にしたい「好きなこと」――それは将来、幼稚園の先生になり、たくさんの子どもたちと楽しく過ごすことです。

私が今、幼稚園の先生になりたいと思っている理由は、二つあります。

一つ目は、だれかに何かを教えるのが好きだからです。授業で他の人に教える機会があり、教えてあげた人が、はじめは「わからない」と言っていたことがわかるようになった時、自分も心から嬉しくなりました。その時から、教えることが好きになりました。

二つ目は、子どもと接するのが好きだということです。ある時、公園で遊んでいたら、小さい子どもが来たので、一緒に遊びました。それがとても楽しくて、自分は子どもと接するのが好きになったのです。

私は体育が苦手だし、弱いです。だから、「そんなんで子どもたちの相手ができるの?」と思う人もいると思います。でも、私は私にできることをやりぬき、夢を叶えたいと思っています。

私は弱い立場を経験しています。だからこそ、幼く弱い立場の人たちにも優しくなれるはず――。

だから今、誰に対しても優しく接することを心がけています。そして、相手の目線を考えた話ができるようにがんばっています。

「人生山あり谷あり」というように、人生にもさまざまなことがあると思います。どんなに大変なことがあっても、それを乗り越える意志があれば、笑顔になれるはずです。だから、未来の自分へ最後に伝えたいです。

「笑顔を忘れず、好きなことは好きだと胸を張って言ってください。そして、悔いのない幸せな人生を歩んでください!」と。

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佳作

「話す」ということ

秋田県鹿角市立十和田中学校

3年 安保 芹菜

私はうまく話すことができない。声を出そうとすると言葉がつっかえてしまう。いわゆる「吃音」というやつだ。物心ついた時からスラスラと言葉がでてこなかった。当時の私は吃音を知らず知識もなかったため、なぜ私はみんなのようにうまく話せないのか、なぜみんなは私が話すと笑うのか、どうしてこんな話し方なんだろうと分からないことだらけで本当に苦しかった。大人に「吃音がある」と話すと分かってくれる人はいるが、同年代の人に同じことを話しても理解してくれる人は少ないのが現状だ。同年代の人の理解がないと、吃音についてコンプレックスを抱いたり、馬鹿にされたりするのが怖くて、話すことをためらってしまう人がいると思う。実際私もそれが原因で、話したいことや伝えたかったことを言葉で表せなかったことが何度もあった。その時から私は同じ吃音という悩みがある人たちの力になったり、吃音の人たちがためらうことなく自由に会話できる未来をつくりたいと思うようになった。

吃音は細かく分けると三つの種類に分かれる。同じ音を繰り返して発音する型、話し始めの音を伸ばして発音する型、なかなか言葉が出なくなってしまう型だ。私は三つ全ての症状がある。どれもつらいが言葉が出なくなる型が一番精神的につらい。出そうとすればするほど声は出なくなるばかりなのだ。小学校の時、日直担当の日があり、朝の会の進行をしなければならなかった。「おはようございます」という時、吃音が出てしまうのが嫌だった私は小さな声で言った。声が小さかったため案の定「やり直し」と言われ、もう一度声を出そうとした。そのとき吃音の症状が出てきて、全く声が出てこなくなってしまった。先生やクラスメイトの急かす声、異変を感じたのか徐々に静かになり沈黙だけが流れる空間。一番つらく、自分に失望した瞬間だった。吃音というものは相手に急かされたり、馬鹿にされたりするとさらにひどくなることがある。早く言葉を出そうとして自分自身を追い詰めるからだ。もし、私のように言葉がうまく出てこない人に出会ったら何も言わず、ただ黙ってうなずいて話を聞いてほしい。

中学校1年生の冬、小学校の頃のようにひどいわけではないが、一度良くなった吃音がまた再発した時期があった。そのとき私はクラス委員をしていたこともあり、たくさんの人の前で話したり指示をしたりすることがあった。そしてそのような場で吃音が多く出てしまうことに、すごくストレスを感じていた。私がしなければならない指示も言葉が出てこず、一言発するにも一苦労だった。そんな自分に不甲斐なさを感じ母に相談すると「言葉のリハビリを受けてみる?」と提案をしてくれた。そして初めて病院にリハビリに行った日。私はとても緊張していてガチガチになっていた。そんなとき私に明るく声をかけてくださった方がいた。その方は言語聴覚士だった。言語聴覚士の方は私に「緊張しなくていいよ」と言いながら優しく明るく親身に私の吃音の悩みを聞いてくれた。身内以外でこんなに吃音の悩みをしっかり聞いてくれる人がいなかったため、私はそれがとても嬉しく、大きな刺激になった。そして普段なら初対面の人と話す時とても緊張しているはずなのに、言語聴覚士の方には心を開いて楽しんで会話できている自分がいた。

「あなたはすごく上手に話せているよ、自信を持ってゆっくり話せば大丈夫」と言語聴覚士の方は言ってくれた。その言葉がきっかけで私はゆっくり話すように努力し、自信を持てるまでになり、徐々に吃音も改善されていった。今はもうリハビリには通っていないが、あの時リハビリを勧めてくれた母、そして言語聴覚士の方がいてくれて今の私があると思っている。だから私を救ってくれた言語聴覚士の方のように「言葉」について悩んでいる人たちを、リハビリの力で助けたいと思うようになった。

言語聴覚士はまだあまり世間に知られていない。だが話すということにコンプレックスを持っている人たちにとって言語聴覚士はなくてはならない存在だ。実際、私がリハビリを通じて言語聴覚士と出会い、訓練を体験して自分らしく堂々と話せるようになった。このことから私と同じ悩みを持った人にも言語聴覚士という存在を知ってもらい言葉の悩みを一人で抱え込む人を少なくしていきたい。そして吃音がある人がいるということを多くの人に知ってもらい、吃音は特別なことではなく身近にあるものという認識が広がることを願っている。また、言葉の悩みがある人たちに寄り添い、力になれるよう自分自身も努力していきたい。同じように吃音で悩む子どもたちのためにも。

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『意見』と『捉え方』

秋田県能代市立能代第一中学校

3年 加藤 美裕

「誹謗中傷はやめましょう。」と何回聞いたことでしょう。

私はこの頃、このセリフを聞くと「なぜダメなんだろう」と思うようになりました。誰かの発信した言葉について、さまざまな情報が飛び交う中、そもそも「意見」と何が違うのだろうと考えてしまいます。「中傷」と「意見」の境界線はどこにあって、どうすれば見分けられるのか、そのことが自分の中で曖昧になっているからだと感じました。

そこでまず、人が、誰かの言動やSNSで発信された情報に対して、「誹謗」や「中傷」にあたる言葉を発してしまう原因について考えました。

考えられる理由としては、日頃のストレスのはけ口にしたり、その人に対する嫉妬心をぶつけたりしていることが挙げられます。日々の生活の中で思うようにいかないことは誰にでもあって、それが続くと心にかかる負担はどんどん膨らみます。自分がそうなりたいと思ってもできないことを簡単にこなせている人を見れば、自信がなくなり、不安が襲ってきます。

そうした心のもって行き場を自分の中に見失ったとき、他者への「誹謗」や「中傷」が生まれてしまうのではないでしょうか。こう考えると、皆が皆、意味もなく誰かを傷つけているとはいえないのではないでしょうか。そのことの根本を見つめていかない限り、「ダメだ」「いけない」だけでは、言葉の暴力はなくならないのだと思います。

私は先ほど、「誹謗中傷と意見は、何が違うのだろう」と言いました。誹謗・中傷は「誹謗・中傷」というくくりにされている一人一人の「意見」だとも思っています。発する側と受け取る側との間には認識のズレがあるからです。

以前、ユーチューブの動画を見てコメントを挙げました。おそらく、その動画は視聴者へのドッキリとして製作されたもので、「亡くなったおじいちゃんを呼び戻す」という企画のものでした。動画を見た私はそのままに信じて、「動画で初めて涙を流しました。」というコメントを挙げました。その後に送られてきた返信からは、「信じ込んでて草」「頭悪すぎだろ」という批判を受けました。でも私は、これも一つの意見だと捉えました。確かに全くダメージがなかったというわけではありませんが、それほどには傷つきませんでした。むしろ、ネットの中だと、たくさんの考えがあって面白いなあと思うこともあります。

一方で、個人を中傷する言葉を浴びせられ、心を病んでしまう方が後を絶たないのも放ってはおけない現実です。長期にわたり心を苦しめられ自ら命を絶つ人も少なくありません。テレビの企画で数え切れない辛らつな誹謗中傷を受けた、女子プロレスラーの方が亡くなる痛ましい事件も記憶に新しいところです。

加害者側も訴えられると、名誉棄損や侮辱罪の罪に問われます。法整備も進んでおり、これまで以上に発信には気をつけていかなければなりません。でも、厳罰化が根本的な解決にならないことは、誰もが気付いているはずです。

私が伝えたいこと。それは、何かあってから危機感をもつのでは遅すぎるということ。深く傷ついた心の傷は癒えるのにものすごく時間がかかるし、ずっと消えないこともあります。そしてその傷には、これといった治療薬があるわけでもありません。

日頃から相手のことを考えて思いやろうということです。確かに自分の思ったことは大切にすべきです。ただ、それをどうやって伝えるかを立ち止まって考える必要はあります。言葉の捉え方は人それぞれだからです。自分の言葉によって、誰かが苦しい思いをするかもしれない。受け取る側がどう捉えるか、どう感じるかに思いをはせる。これは、ネットでのやりとりにも実生活の会話にもいえることです。

私は、「誹謗中傷なんてやめましょう」なんて、いう気はありません。自分にとって軽い冗談である発言が、時として、他人にとって鋭利な刃物にもなり得る。言葉のもつ可能性と危険性をよく考え、相手の立場になって自分の言葉に責任をもっていくことが大切だと思っています。

あふれる情報の中で、日に日に新しい言葉が生まれ、生き物のように使い方、使われ方が変化していきます。単にその波にのまれていくのではなく、人とつながり合うためのツールとして使えているか、そのことを考えながら言葉と向き合っていきたいと思います。

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佳作

未来に向かって

秋田県湯沢市立稲川中学校

3年 沓澤 慧

 

「じいちゃん、死んじゃった。」
学校の駐車場で母が僕に教えてくれた。その時、僕の時間が止まった。

祖父の死は突然訪れた。その日、祖父は木の伐採作業の手伝いを頼まれていた。そして作業中に倒れてきた木の下敷きになってしまったそうである。

祖父が亡くなった時、僕は学校にいた。いつも通りの登校、いつものように行われる授業、友達と話すいつもの休み時間――。その日も、いつも通りに一日が終わるはずだった。しかし、僕の「いつも」が祖父の死によって一気に破壊された。

学校の集会中、突然、先生が小さな声で、僕に母親が迎えに来ているので、早く家に帰るように告げた。どういうことだろう。こんな時間に家に帰るように指示があるなんて――学校がある日に途中で帰宅するなんてこれまで経験したことがなかった。しかし、何かが起きたことは察することができた。得体の知れない不安と恐怖を感じながら僕は母の車に向かった。

生徒玄関前の駐車場に母が立っていた。母の表情はいつもより暗かった。母は僕の姿を見ると、祖父が事故で亡くなったことを告げた。

僕は母の話が信じられなかった。というのも、祖父は病気でもないし、今朝だって僕が登校前に「行ってきます」という挨拶に笑顔で応えてくれたのだ。そんな祖父がなぜ――。

母の話によると、祖父は今日、山で伐採中に倒れてきた木の下敷きになってしまったそうだ。僕達は家路を急いだ。その時に限って家までの距離がとても長く感じた。

ようやく家に到着すると、近所の人がたくさんいた。家にいる人がみんな泣いていた。人の輪に囲まれて祖父は静かにそこに横たわっていた。

祖父が死ぬなんて何か悪い夢でも見ているのではないかと僕は思った。自分の体が心と一致せず、魂だけがふわふわとしているような錯覚を覚えた。僕は何も考えられなかった。今考えても、その時の自分が何を考えていたのか記憶にない。すべてが夢の中のような出来事だった。

祖父は山についてたくさんの知識と経験があった。だから山登り「師匠」として、近所でも有名な人だった。祖父と一緒にいれば心強い、ということで山登りの時に、同伴を頼まれることがしょっちゅうだった。だから、その日は、木の伐採作業を頼まれたそうである。それがこんなことになるなんて――。一体祖父が何でこんな事故にまきこまれなければいけないのか、祖父が何か悪いことをしたというのだろうか――。いろんな「なぜ」が僕の心の中に一気に押し寄せてきた。そして、それと同時に、祖父はどんなに痛かったのだろう、辛かったのだろう、と思い、心が痛んだ。

今まで僕は、ちょっとしたことで事故で亡くなる人がいることをニュース等で見ていたが、まさか自分の身内が亡くなるなんて夢にも思わなかった。しかし、祖父の事故死から、「死」に対する意識が変化した。

「死」は決して遠いものではない。それはある日、突然襲ってくることもある。だとしたら、僕たちはどうしたらいいのだろうか。いつも「死」の影におびえて暮らさなければいけないのだろうか。

しかし、そうした姿勢ではいけないと僕は思う。「死」は確かに怖い。だが、逆に考えれば、いつ訪れるのか分からない「死」だからこそ、「今」という時間をもっと大切にしていかなければいけないのではないか、と僕は考えるようになった。それというのも、祖父が亡くなってから、僕は後悔しているからである。その後悔とは、もっと祖父と話しておけばよかった、という後悔だ。

僕は祖父が大好きだった。でも、僕は自分の生活の中で祖父がいることが「当たり前」だと考えていた。しかし、その「当たり前」が祖父の事故死によって、突然失われてしまった。そう考えると、「当たり前」であることはどんなにありがたいことなのかを知った。

しかし、祖父はもういない。もっと早くこの「当たり前」の大切さに僕は気がつけばよかったと思う。祖父の死からそれを学ぶなんて、なんて皮肉なことだろう。

また、祖父の死から気がついたことは、命の大切さだ。自分の「命」は自分だけのものではない。祖父の死を悲しむ人がたくさんいたことから、人の「命」はみんなのものであることも僕は知った。

祖父を失った僕の悲しみは正直、未だに癒えていない。しかし、今は、祖父が自分のことを誇りに思ってくれるよう、勉強に部活動に頑張るしかないと考えている。だから祖父のためにも僕は、悲しみを乗り越え、未来に向かって進んでいこうと思う。

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佳作

私と方言と個性

秋田県大仙市立仙北中学校

3年 佐々木 真由華

「津軽弁」という方言をご存じだろうか。津軽弁とはその名の通り、青森県津軽地方で話されている方言のことである。共通語とは発音が大きく異なり、独特の言い回しも多いため、方言の中でもかなり難解だと有名だ。私の母が青森県出身だということもあり、私は幼い頃から津軽弁に触れながら生きてきた。そして、私の中の価値観を大きく左右するきっかけになったのは津軽弁であった。

私が5歳の頃、父の転勤に伴い、私たち一家は秋田に引っ越してきた。父がもともと秋田県出身だったことと、地域の人たちが親切だったことが幸いし、私たちはすぐに馴染むことができた。新しくできた友達も皆優しく、秋田での新生活はとても充実していた。小学校に入学して少し経った頃、記憶に残る出来事があった。ある夏の暑い日、友達数人と手洗い場に集まり、水を飲んだり話したり、まったりと昼休みを過ごしていた。その時、友人の一人が、私に水を飛ばすといういたずらを仕掛けてきた。飛んできた水滴は冷たくて気持ち良いものだったが、いきなりされた私はその冷たさに驚いて、「しゃっこい!」と叫んだ。「しゃっこい」というのは、津軽弁で冷たいという意味だ。青森県と秋田県は同じ東北地方に位置し、地理的にも近い。そのため、方言も似ているものが多く、私の津軽弁もあまり目立たなかった。しかし、秋田の方言で冷たいは「ひゃっこい」というらしく、この地域の方言ではない「しゃっこい」と話した私を、友人達は不思議そうに見つめた。そして少し笑いながら「『しゃっこい』って一体何?」と聞いた。私は津軽弁と秋田弁との違いを知っていたため、友人達の疑問が分からなくもなかった。しかし、私が何よりもショックを受けたのは、私が津軽弁を話したことで友人達に笑われたことだった。私はあまりにそれがショックで悲しくて何も考えられず、泣くのを我慢するのが精いっぱいだった。

友人達と別れて家に帰った後は、だんだんと怒りが湧いてきた。「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、確かに秋田に引っ越してきて数年経ったというのに秋田弁ではなく津軽弁を話してしまったのは迂闊だった。しかも友人達も当たり前のように方言を話しているというのに、私が方言を話したら、嘲笑しながらそれを指摘したのだ。なんだか余計に腹が立ってきて、私は母に相談した。どうしたら私は笑われなくなるのか。どうすれば津軽弁を認めてくれるのか。母は黙って私の話を聞いてくれた。そして私が話し終わった後、母は優しく、そして静かにこう言った。「何人かは津軽弁のことやそれを話すあなたのことを分かってくれるかもしれないけど、それらを分かってくれない人もいると思うよ。津軽弁を言わないように気をつけるのも一つの手だけど、いっそ隠さないでいるのも良いかもしれないよ。一人一人誰だって違うんだから、皆と同じじゃなくても良いと思うよ。」

母のこの言葉を聞いた時、私は正直納得していなかった。確かに「津軽弁」は私の個性といえるかもしれない。だがそれで笑われたりしては元も子もないではないか、と。そんな思いを抱えていた時、私はある素敵な言葉に出会った。それは愛知県の人権啓発ポスターのキャッチフレーズだった。「わたしの『ふつう』とあなたの『ふつう』はちがう。それを、わたしたちの『ふつう』にしよう」という標語は、私に大きな衝撃を与えた。それだけではない。元サッカー日本代表選手の本田圭佑さんの言葉も私の悩みを解決させた一因となった。それは「出身地がもはやもう『アース』っていう」という素敵な言葉だった。この二つの素敵な言葉と母から貰った言葉が結びついて、私はようやく答えにたどりつくことができた。そして、自分がこれからどうすれば良いのかも分かった。

私が導き出した答え。それは「自分から相手を知り、相手の価値観や考えをまるごと認めること」だ。人というのは、一人一人生まれた環境も、住んでいる場所も違う。それは一人一人、常識や「当たり前」が少しずつ違うことを表す。住む地域や国が違えば、それはもっと大きく異なってくる。自分の「当たり前」と他人の「当たり前」が違うことこそ「当たり前」なのだから、自分と他人との常識の壁を乗り越えて接することが大切なのだ。私は今、この「常識の壁」を乗り越えてさまざまな人たちと良い関係を築くために、さまざまな国や地域の文化や伝統を学んでいる。もちろん秋田弁も勉強中だ。高い常識の壁は、時に人間関係を悪化させることもある。だからこそ、その壁から目を背けず、自分から壁を壊すことを考えるのだ。たとえ「当たり前」や常識が自分と違っていたとしても、同じ地球に住む同じ人間なのだから、きっと分かり合えるはずだ。

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佳作

未来の故郷のために

秋田県北秋田市立鷹巣中学校

3年 佐藤 尚貴

僕の将来の夢は救命救急医になることだ。自分の故郷である秋田県のために働きたいと思う。救命救急医として、ドクターヘリに乗り、秋田県民の命を救いたいと思っている。

僕は幼い頃、ドクターヘリに乗せていただいたことがある。家族のお見舞いで訪ねた病院にはドクターヘリが配備されていて、お見舞いに行くたびにそのドクターヘリを間近に眺めるのが大好きだった。ある日、フライトを終えて降りてきた機長さんが「乗せてあげるよ。」と言ってくださったのだ。そして、こう言ってくださった。「大人になったらここで一緒に仕事をしようね。」と。僕は、もう嬉しくてたまらなくなり興奮して眠れなかったそうだ。

この出来事がずっと僕の胸の中にあり、僕はいつしかドクターヘリに乗る医者になりたいと思うようになっていた。

その気持ちがさらに強くなったのは、家族の死だった。曾祖母が4年前、曾祖父が2年前に病気で亡くなった。どちらも僕のことをとても可愛がってくれた。その思い出は、数えられないほどたくさんある。僕の体調が悪いときも、つきっきりで看病してくれた。

そんな曾祖父母の死を目の前にし、僕は更に医療の道に進みたくなった。

医者になることは、決して容易なことではない。非常に困難な道のりが待っていることは覚悟している。学習面においても人間性においても、これから学ばなければならないこと、身に付けなければいけないことはたくさんある。

僕は1年前、生徒会副会長に立候補した。小学校の中学年まではリーダー的な役割にはついたことがなかった。そんな自分が、リーダーとして動くためには、大幅なスキルアップがなければならなかった。それまでの自分は、常識やマニュアルにとらわれてスキルを上げることができなかった。だから、常識にはめ込まれたゴールから脱するために、少しずつ常識を捨て、できることからどんどん取り組むようにした。すると、少しずつできることが増え、やりたいことが成し遂げられるようになった。

僕は現在、生徒会副会長として日々活動している。その活動の内容には、僕がそれまでの常識を捨て、活動の経験を生かして、新たに生み出したものも含まれている。生徒会副会長の仕事は、今までは「生徒会長のサポート」だった。しかし、それに従うと僕の効率的なスキルアップができなかった。サポートをするのは簡単で成長の材料としては乏しい。そこで、自らが率先して活動を行うだけでなく、今までは会長がやっていた仕事も行うようにした。その結果、行える活動の幅が広がり、その経験を積み重ねることで、大きくスキルアップすることができた。

この経験から、僕は自分の座右の銘を発見することができた。それは、「Beyond the theory(常識を超えろ)」だ。今までの失敗を生かして改善し、また失敗を繰り返す中でできあがったものである。

この言葉を常に念頭に置き、行動していきたいと思っている。学習面において、僕は数学と英語が苦手だ。この2教科は、医師になるためにはどうしても避けられないものだ。豊かな知識を身に付けたり、判断力や表現力を高めたりするためには、集中力が大切である。長時間でも学習に打ち込める集中力を身につけたい。

この考えは、人間性を育むときにも必要だ。どんなに知識を頭に詰め込んでも、それを有効に生かすためには、やはり人間性が必要だと思う。患者さんとのコミュニケーションをきちんと取れなければ、患者さんのことをよく知ることはできない。となれば、適切な治療を施すこともできない。逆に、患者さんのことをよく知ることができれば、どんなに病状が厳しい患者さんでも救うことができるかもしれない。

今、新型コロナウィルスが日本中で猛威を振るっている。ここ秋田県でも、失ったもの、悔やまれることなど、数え切れぬほどの想いがある。そんな代償の先に手にした答えを受け継ぎ、磨き上げる使命があると感じた。何が間違いなのか、何が正解なのかも分からない。でも、「絶対に負けない」という熱い想いをもって闘う人がたくさんいる。そんな人のなかの一人に、僕もなりたい。そう思った。

今の世界は傷だらけになって、光が閉ざされて、真っ暗になってしまった。今までの「当たりまえ」が大きく崩れ、人々のくらしが大きく変化した。そんな今こそ、常識を超え、皆で手を繋ぎ、大きな大きな壁を乗りこえていかなければいけないと思う。未来の秋田を美しくて光で満ち溢れたものにできるように、少しずつ確実に前に進んでいきたいと思う。

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佳作

忘れてはいけないこと

秋田県横手市立増田中学校

3年 鈴木 芽依

今年の夏休みが始まって間もない7月の末、飼い猫のトラが亡くなった。具合が悪くなってから2週間ももたなかった。メス猫でおそらく12歳ぐらいだと思う。おそらくというのは、はっきりとした年齢がわからないからだ。もともとはこの辺りに住む野良猫だったトラは、10年前に我が家にやって来た。初夏の昼過ぎ、5歳の私は1階の庭に面した部屋で昼寝をしていた。様子を見に来た母は、私の横ですやすやと眠るサビ柄の猫を見つけた。丸顔で人なつっこいトラは、そのまま我が家の一員になった。先住猫にもおとなしく従い、眠るときは家族の体の上で眠る猫だった。我が家に来た当初のトラは、体の一部に大けがを負っていた。2回もの手術を経て、ケガが治ったトラは、その後、病気らしい病気もせず、いつも元気に家の中をパトロールしていた。まだ10歳すぎだから、これからも変わらず一緒に過ごせるものと思い込んでいた。

夏休みの到来を心待ちにしていたある日、母が、
「トラの様子がなんだかおかしいんだよね。毛並みも悪いし、顔つきが険しいもの。」
と言う。40年以上猫と暮らしてきた無類の猫好きの母が言うのだから間違いないだろう。夏休みにウキウキしていた気分は一瞬にして消え失せ、心臓がドキドキしてきた。不安と心配で押しつぶされそうになったが、トラの様子を見に行くことはできなかった。弱った姿を見るのが怖かったからだ。今まで飼っていた猫たちの最期を思い返してみても、もうトラは長く生きられないことはわかる。それでも、母が病院に連れて行くなど、世話をしているのを横目に、私は受験生だからという言い訳を自分自身にしながら、トラから目をそらしていた。病院に行っているし、母が看病しているから大丈夫、そんなふうに自分に言い聞かせた。

しばらくたったある日の夕方、母が薬を飲ませに行くと、トラはすでに息をしていなかった。トラが亡くなった悲しみときちんと看病してあげられなかった申し訳なさと入り混じって、いつまでも涙が止まらなかった。

母は、「好きで野良猫になる猫はいない」とよく言う。我が家の猫たちは、元は野良猫か、もしくは、元野良猫の子どもたちだ。野良猫を不憫に思った母が飼い始めた猫たちは、私が小さいころからいつも家にいて、私もかわいがってきた。でも、ペットはかわいいだけでは済まされない。幾度も猫たちの死に接してきた。どれだけ経験しても、飼い猫の死は悲しい。トラの死は、私に悲しみだけではなく、考えるきっかけを与えてくれた。

夏休みの終わりに、もう1匹の猫が亡くなった。ぴいちゃん、5歳。がんが見つかり、設備の整った岩手大学の動物病院に通院していた。母が仕事の合間をぬって放射線治療のために連れて行っていた。最後となった通院の日、診察途中で心停止となり、緊急に蘇生してもらったという。酸素を吸入しながら家に連れて帰ってきたが、次の日、母の見ている前でぴいちゃんは亡くなった。最後の1週間ぐらいは水も飲めず、かなり苦しそうだったけれど、亡くなったぴいちゃんは、眠っているようにしか見えない、穏やかな表情だった。私は、まだ温かい体をずっとなで続けた。

夏休みの間中、トラのことで後悔していた私は、ぴいちゃんの看病はしっかりしようと心がけた。母が仕事や家事でついていられないときは、私が代わりに面倒をみた。その30分間があれば覚えられたであろう英単語よりも、私には大事なことだと思えたからだ。日に日に弱っていくぴいちゃんを見ているのは辛かったけれど、しっかりと死に向き合えるように、そして自分の行動に納得できるように毎日毎日看病した。ぴいちゃんの死を知ったとき、さすがにショックだったけれど、割とすんなり受け入れることができた。また、トラを看取ることができなかった後悔の気持ちも、少しだけ軽くなったような気がした。それとともに、動物に関わる仕事、病気の動物を救う手助けとなる仕事に就きたいという気持ちが湧いてきた。その実現のためには、この夏、猫たちを亡くした悲しみや悔しさを忘れてはいけないと思った。動物と関わること、それには、つまり命と向き合う覚悟が必要なのだと2匹の死は教えてくれた。

2匹がいない部屋に入ると、残った猫たちがすり寄ってきた。まっすぐな目で私を見て、元気な声で鳴く。そこにあるのは、計算づくではなく、ただただ私を好きだという感情。そんな様子を見ながら、トラとぴいちゃんの私への愛情に、私はどうやったら報いられるかと考えてみた。一日一日を大切に過ごすこと、そして2匹の死を忘れずに目標に向かって努力すること。私は、このことを15の夏に誓ったと、未来の自分に伝えたいと思う。

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佳作

努力する理由

秋田県潟上市立天王中学校

3年 中島 雪乃

「今、あなたに夢はありますか?」
世の中にありふれた言葉かもしれません。でも、これが、私が未来の自分に伝えたい、大切な言葉です。

私には今、夢と言えるものがありません。というより、最近なくしてしまいました。これまでは、医療に携わる仕事をしたいという夢がありました。夢があると、そのために自分がどの高校に進み、どの大学で何を勉強し、どんな資格を取ればいいのかなど、さまざまな選択を迷わず行うことができます。実際に私もつい最近まで、未来の自分に不安を抱くこともなく、夢を叶えるために必要な勉強のことだけを考え、努力してくることができました。

しかし3年生になり、進路の話を友達とよくするようになると、私の中に変化が芽生えました。友達は、子どもの頃にきっかけとなる出来事があったり、親の働く姿を見て憧れたりと、将来の夢にしっかりとした理由がありました。では自分はなぜ医療関係の仕事を目指しているのだろう。そう考えてみると、何の理由も浮かびません。結局私は、親や周りの大人から「給料がよいから」「安定しているから」という理由で薦められ、自分では何一つ考えず、何も知ろうとしないまま、それを将来の夢としてしまっていたのです。それに気付いてしまうと、「医療の現場は、こんな何の思いももたない私が中途半端な気持ちで目指す場所ではない」という気持ちが強くなり、自分にはもう無理だと思うようになりました。

夢をなくしてからは、これまで明確だった進路が全く見えなくなり、どうすればいいか分からなくなってしまいました。そして、それを言い訳に勉強をおろそかにし、何も努力しようとしない日々を過ごすようになりました。

そんな頃でした。友達から、職場体験に参加したという話を聞きました。自分の夢が見つけられず、ずっと悩んでいた友達です。そんな彼女がなぜ参加したのかを聞くと、友達はこう答えました。
「夢はただ悩んでいるだけでは見つからないって気付いて、どんな職業や仕事があるのかまずは知ろうとすることが大切だなって思ったんだ。」

この言葉を聞き、私ははっとしました。確かに夢は他人から決められることでも、無理矢理見つけるものでもないけれど、だからといって何もしないのは、自分が本当に目指したい夢に出合えるチャンスを逃していることだと気付かされたのです。

そのことに気付いた私は、世界中にあるさまざまな職業や、その仕事内容などを調べ始めました。調べてみると、今まで知らなかったことにたくさん出合い、視野が広がっていきました。そして、それが自分を見つめ直すことにも繋がっていきました。

これまでの私は、狭い範囲の職業しか知らず、その狭い知識の中で「夢」を探していました。しかし、新しい知識をたくさん得る中で、自分はどんなことに興味をもち、どんなことに合っているのか、自分自身を見つめ直すことができました。

今もまだ、叶えたい夢には出合っていません。しかし、知識を広げることは、将来の夢を見つけるだけでなく、自分の世界を広げるために必要なことだと思います。なりたいものは、ある日突然見つかるかもしれません。そのとき、その職業だけではなく、それに関連するたくさんの職業についても知っていれば、さらにその世界で活躍し、多くの人のために働くことができると思います。なぜなら私がさまざまな職業を調べたとき、一見関係ないように見える仕事でも、それがどこかで繋がっていて、それによって社会が支えられていることを知ったからです。

このように、過去に自分がしたことは、必ず未来の自分の決断や考えに繋がります。だから、私がこれから努力する理由は「未来の私のため」です。未来の私がなりたいものに出合ったとき、あるいは進路について悩むとき、助け、導いてくれるのは、周りの人たちだけではありません。過去の自分が積み上げてきた経験、知識、出合いも、未来の自分を助ける力となるのです。

「今、あなたに夢はありますか?」
未来の自分に尋ねたら、夢が見つからないことで悩んでいる過去の私に、真っすぐな目で「見つかったよ。」と答えてくれることでしょう。そして、その夢に向かって努力しているはずです。そんな未来の自分のために今私が努力するべきことは、一生懸命勉強し、自分の視野を広げていくことです。そう信じて、私は努力をし続けます。いつか私が、叶えたい夢に出合えたときのために。

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佳作

僕に送るメッセージ

秋田県鹿角市立八幡平中学校

2年 山口 瑛慎

最近、自分の将来について考えることが多くなった。新型コロナウィルスの影響で家にいる時間が増えたことや、中学生になって職場体験学習を経験したことなどもその要因の一つだと思う。「将来自分はどんな大人になっているのだろう。」「何をしているのだろう。」「こんなことに興味がある、こんなことをしてみたい。」という思いはあるものの、考えても考えても全く想像がつかない。

コロナ禍の今、僕たちの世代は小学校の卒業式も入学式も縮小縮小と制限されて実施された。部活動の練習試合、大会、体育祭、校外学習・・・楽しみにしていたさまざまな行事が縮小、中止となった。そして、最近だんだんとそれが普通の感覚になってしまっている。大人たちもそうだろうが、僕たち中学生も、我慢の毎日を送っているのだ。

僕はテニス部に所属している。本当は卓球をしたかったのだが、僕の中学校には残念ながら卓球部がなく、仕方なく入部届はテニス部に提出したのだ。それでも、よかったのは仲のよい友人たちが同じテニス部に入部してくれたことだ。また、学生時代、卓球で汗を流していたという担任の先生が監督だったことも親しみが湧いた。僕のテニス部入部に母は、
「父さん喜ぶねえ。」
と言った。意味が分からないでいると、
「父さんも中高ソフトテニスやってたらしいから。」
と古くて重いラケットを出して見せてくれた。年代物のラケットには、ピアノメーカーでよく見る「ヤマハ」のロゴが書いてあった。今は作られていないそのラケットは、父が高校時代に使っていたものだそうだ。なんだか急にソフトテニスが身近になった気がした。気がしただけで、現実はそんなに甘くなかった。最初は全然ボールに当たらず、ラケットは空を切るばかりだった。卓球をやっていたときの癖が残ってしまっていたのも災いした。テニス部の先輩たちは一生懸命教えてくれたが、正直つまらないと思うこともあった。中学のソフトテニスは、ほとんどがダブルスで、前衛、後衛のポジションがある。僕のポジションは前衛で、どちらかといえば地味な方だ。後衛が思い切り打ったボールが当たることもあり、損なポジションだと思っていた。

スイッチは突然入った。地区の1年生大会で僕たちのペアは優勝することができたのだ。僕の学校がこの大会で全県に出場するのは5年ぶりぐらいだと先生が教えてくれた。だいたいの年数しか分からないぐらい久々のことだった。僕たちペアは全県大会に向けて自主練習を増やした。先輩たちに頼み、練習相手になってもらった。30年ぐらい前の先輩になる父にも相手になってもらった。現在の外部コーチにはこの時初めて練習をつけてもらった。僕たちなりに真剣に準備をして挑んだ大会だった。予選リーグは総当たりで、リーグ1位だけが決勝トーナメントに進出できる。一戦目、ファイナルゲームまでもつれたが負けてしまった。決勝進出はほぼ無理になった。一気に気持ちが沈んだ。「一勝はしよう!」という先生と家族の言葉で、何とか一勝はしたものの一勝二敗で予選3位。初めての全県大会はあっけなく終わってしまった。でも、この敗戦が、僕を大きく変えてくれた。

僕は今、部活動に思いっきり打ち込んでいる。初めて練習相手になってくれた時には汗ひとつかかなかったコーチが、今は汗だくになって練習をつけてくれている。自分たちの成長を実感するとともに、感謝の思いが溢れてくる。強い相手と試合するときは、本当に楽しい。練習中思った通りにいかず、怒りを抑えきれないこともある。「もっと心も強くならなければ。」まだまだ未熟な自分を反省する。

「1年生大会で全県に行けた人は、次から全県の常連になるんだから頑張れ!」
とコーチが声をかけてくれた。僕はすかさず、
「コーチは行きましたか。」
と聞いた。
「もちろんや。」
ニヤリと笑って答えてくれた。どんな時でも僕を励まし、やる気を与えてくれる先生やコーチに結果で恩返しがしたいと本気で思った。

部活動から僕は、人として大切なことをたくさん教わっている。挨拶や相手を敬う心だ。勝っても負けてもお互いに健闘を称え合うことが大切だと常に先生は言っている。頭では分かっていても、悔しすぎてうまく健闘を称えられず、怒りを爆発させてしまうこともある。いや、まだその方が多いかもしれない。

これが今14歳の僕だ。何になるか何をしたいかも決まっていない。毎日が反省の連続だ。でも、今好きなことに一生懸命打ち込んでいるこの気持ちを未来の僕に伝えたい。何かに本気で打ち込み、熱中することで、迷いや不安なんか吹き飛んでしまうさと。

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佳作

「男の子の夢」を追いかけた

宮城県仙台市立山田中学校

2年 阿部 和樹

僕は、この夏「男の子の夢」を追いかけた。小さい頃、僕は虫捕りがとても好きだった。虫捕りをしていた人は、ほとんどが思っていただろう。「カブトムシ、クワガタムシを捕まえたい」と。そう思い、父とクワガタムシを探しに、この夏出かけることにした。

7月22日。夏としては涼しげな日、父と一緒に名取川の河川敷に向かった。僕は、動画やインターネットで虫捕りの方法を調べ、虫を入れるケースやピンセットなどを買いそろえ、捕る気満々だった。車を降りて近くの木に向かった。その木には、カナブン数匹がついているだけであって、クワガタはいなかった。近くの木も見たが、親指ほどの大きさのナメクジしかいなかった。

川から少し離れたところにある柳の木をポイント@と名付けよう。カナブンは嫌いなわけではないが、今回の目的の虫ではない。むやみに虫を捕ってはならない。少し歩いてみた。そうしたら、大きな雑木林があった。草がボーボーだったが押し倒して入っていった。だがその先は、あまりにも草が多く、半袖でマダニがついてしまったらたまったものではないため断念した。ここをポイントAとしよう。最後、川沿いの柳の低木のあるポイントBに寄った。昼間の河川敷ではクワガタは木のうろや幹で樹液を吸っていることが多いというので、木の隅から隅までくまなく探した。しかし、1匹も見つからず、手ぶらで帰った。

今日の反省として考えられるのは、気温だ。25度で、それほど暑いという気温ではなく、前日に比べ急激に下がったことも原因と考えた。クワガタというものは低温下や急激な気温の変化で活動が鈍くなるのだ。

7月25日。この日は、車でたまたま名取川を通ったときに少しだけ見に行かせてもらえた。まずポイント@だ。見渡すが、クワガタの姿はない。
「次の木だ。」
と、父は言う。うろがたくさんあり、期待値大だった。のぞきに行くとそこにはなんと、大きなクワガタの顎が見えた。僕は、
「お父さん! クワガタだ!」
と後ろを振り返って大声で叫んでしまった。その声はやはりヤツにも聞こえていた。もう一度うろの中を見た。ヤツは奥の方に隠れてしまった。木の棒でほじくっても出てこない。数分粘ったが、ヤツは、出てこなかった。
「帰るぞ、遅くなるから。」
と父が言う。僕はもっと粘りたかった。だが、家族を待たせているので帰ることにした。

7月31日。この日は台風後で蒸し暑い。うろの中で雨を避け、餌を我慢して我慢しきったところにこの暑さだ。クワガタが出てくる最高の日だろう。今回は、長袖、長ズボンの重装備で行った。期待していたポイント@に行ってみると、早速見つけた。ピンセットで引っ張り出そうとしたが、難しく、父にやってもらったが、出てこなかった。後で捕ろうと考え、ポイントAに向かった。雑木林に続く道は台風で降った雨のせいか、草がとても伸びていた。かき分けながら進むと、そこは、ムシムシしたサウナ状態だった。周辺を探したが見つからず、先ほどのポイントに戻った。そこを見ると、
「出てきてる!」
僕は、急いでピンセットを出し、かき出そうとしたが、奥に潜っていきそうだ。父が手伝ってくれた。数分間の格闘によって引っ張り出した。それは、35ミリメートルのコクワガタのオスだ。今年の初ゲットだ。身体の末端まで熱い熱い血液がいきわたり、もう、最高の気分だった。

水分補給をはさみ、最後、ポイントBに向かった。動画で学んだことを生かし、
「ノコギリクワガタは上だ、上だ・・・・・・あ、いた!!」
木を見上げると、そこには、ノコギリクワガタがいたのだ。高くて届きそうにもないので木を揺らしてみた。そうしたら、ポトッと落ちてきたのだ。45ミリメートルのノコギリクワガタのオスだ。小さいが、嬉しい。

その後家に帰ると、なんと、ノコギリクワガタが死んでいるではないか。直射日光に当ててしまったので弱ってしまったのだろう。本当に、ごめんなさい。でも、標本にして、理科の自由研究の宿題として出そう。

この夏の僕の表情、感性は一度限りのものだと思う。年齢や僕を取り巻く今のいろいろな環境が重なり合ってできたものだからだ。来年は、もう「男の子」でなくなっているだろう。しかし、一生懸命何かに打ち込んだ日々を未来の幸せにつなげていきたい。今を一生懸命生きて生き抜けば、未来の幸せに近づけると思う。その原動力になるであろうこれを、未来の僕に言いたい。
「『男の子の夢』を忘れるなよ。」

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佳作

叶えたい夢に向かって

宮城県気仙沼市立松岩中学校

3年 荒木 みうな

自分の夢が、看護師から医師に変わったあの瞬間を今も覚えていますか。コロナウイルスという未知のウイルスに世界中の人々が当たり前の日常をうばわれ心まで萎縮してしまいそうな中「私には私にしかできないことがある。」と心に決め、自分の置かれている場所や立場で自分なりのベストを尽くしていこうと机に向かっていた中学生だった私。私の壮大な夢が将来、実を結んでいることを今はとにかく信じていたいです。

母が大切にしている本のひとつに『心が元気になる 美しい絶景と勇気のことば』という、世界の美しい風景の写真と偉人たちのことばが書かれている本があります。この本の中には夢を叶えるためのことばや壁にぶつかった時に勇気をもらいたいことばがたくさんたくさん載っていました。

『夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。いつだって忘れないでほしい。すべて一匹のねずみから始まったということを』 1匹のねずみからという所から、これはもしかしてウォルト・ディズニーのことばなのではとワクワクしながら読み進めました。ウォルトは裕福な家庭に生まれましたが、親の会社がつぶれ、一気に貧乏暮らしとなり孤独な子ども時代を送ったそうです。そんな彼の友達は、移り住んだ家の屋根裏部屋にいた1匹のねずみだったそう。なんとミッキーマウスは、そのねずみから生まれたキャラクターだったのです。何があっても夢を見ることを忘れなければ、現実に繋がっていくという、とても分かりやすい実例だと私は衝撃を受けました。

物理学者のアインシュタインのことばの中にも
『想像力は、知識よりも大切だ。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む』
というものがあります。豊かな知識はとても便利なもので、生活のあらゆるシーンで応用し、役立てることができます。その知識よりさらにパワフルなものが、想像力です。この世のあらゆる発展は、想像力の産物です。自動車、家電、ロケット、インターネット、スマホ、数えればきりがありません。知識は「もの」であり有限ですが、想像力は、未来を生み出し、無限の可能性を秘めている宝物です。

コロナウイルスのパンデミック、私たち人間は、とにかく不安や心配事に目をやりがちでついつい悲観的になってしまうものだと思います。過剰に感染を恐れ、人々の生活を極端に制限してしまうことも大きな問題だと考えます。人間の可能性を信じ、目の前の「危機」は同時に「機会」でもあると、少しでも前向きな捉え方もしてみたいと思います。世界中でこの苦しみが永遠に続くわけではありません。必ずアフターコロナの時代をむかえることができると思っています。何か問題が発生した時、「何かできることはないか」と考えれば必ず突破口が見つかるはずです。どんな状況でも待っているだけでは何も生まれないと私は思います。

未来の自分に伝えたいことは、いかなる状況下にいたとしても、好奇心と想像力だけは失わずに生きていてほしいということです。もちろん、豊かな知識は働いて生きていく上でも本当に大切なことだと思います。実際「知識はだれにもうばうことのできない自分の宝物」だと信じ、今も勉学に励んでいます。  自分と似た考えの人たちと一緒に仕事をしたり、生活したりしていると、楽ではあるかもしれませんが、人は考えが凝り固まってしまうような気がします。仕事の場面においては、やりたくなくても、やらなければならない時が少なくないと思います。「やりたい仕事をさせてもらえない」と不満に思うこともあるかもしれません。しかし、それすらもできない人が、世界にはたくさんいるということも忘れないでいてほしいです。

自分が今いるその場所で、日々何かに挑戦して、歩みを進めていってほしいと強く願っています。人生という限りある時間の中で、医師になるという夢を叶えることができるのなら、仕事が順調な時も逆境におかれている時も強くしなやかなメンタルで、一歩ずつ進んでいってほしいです。そして、コロナ禍という特殊な環境下で、培われた人と人とのつながりも大切に生きていってほしいと思っています。

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佳作

障害があっても前向きに

宮城県登米市立米山中学校

3年 加藤 寿騎

僕は、ある障害を抱えています。それは、「中度の難聴」です。周りのみんなよりも耳が少し聞こえない障害です。具体的にどんな音が聞こえないかというと、高い音、雑音の中で話される声、小さい声が聞こえません。

はじめは、とてもコンプレックスでした。4カ月に1回ずつ遠くの病院に通わないといけないことがとてもいやでした。なんだか、親にも迷惑をかけているような気がして自分のことが嫌いになっていたこともありました。

でも、幼稚園、小学校、中学校の友達と先生にはとても恵まれていたと思います。優しい友達と先生は僕に合わせて、声を少し大きく話してくれているし、いつも隣にいてくれる友達がいたから僕は毎日、最高の楽しい日々を過ごしていました。

小学校に入る前、中学校に入る前は、耳が聞こえないことでいじめられるのではないかととても怖かったことを覚えています。「友達と仲良くやっていけるのかなあ。」「部活、先輩とうまくやっていけるかなあ。」と、とても心配で仕方がなかったです。

いざ、入学すると僕のことを分かってくれている友達、先輩がたくさんいました。僕はとてもうれしかったです。初めてあこがれの先輩もできました。それは陸上部の先輩で、僕が長距離走のタイムトライアルをするときには、一周ごとに大きな声でタイムを読み上げてくれるし、やりかたが分からない時には、やさしく教えてくれたり、時には厳しく指摘してくれたりしました。

僕は、サッカーチームにも所属しています。サッカーは耳が聞こえないと無理だろうと思っている人も多いでしょう。たしかに、耳が聞こえないと仲間の声、相手の音を感じることが難しいからです。まず、初めてサッカーを始めたことから話します。僕の友達が一緒にサッカーをしてみないかと誘ってくれ、参加したら楽しくて、めっちゃ夢中になりました。初めて自分の夢中になることを見つけた瞬間でした。そこから学年が上がるにつれて、僕は音を感じるが耳では聞こえないので、体で感じる力を身に付けました。耳が聞こえないのは僕の短所。体で感じることは僕の長所。みんな障害者は、短所とか悪い所しかないと思っているかもしれないけれど、僕のように長所だってあるんだ。みんなには感じない、僕たちにしかない強さがあるということを分かってほしい、と思っています。

中学生になるとグラウンドが広くなり、一年生の中盤までサイドハーフ、フィールドプレイヤーをしていましたが、だんだん難しくなり、キーパーに転向しました。キーパーになったのは二つの理由があります。

一つめは、新体制となったときのキーパーがいないということでポジションを変えました。二つめは、耳が聞こえなかったらキーパーの方が大丈夫かなと思ったからでした。最初はなかなかうまくいかないことばかりで、自分には無理かもしれないとか辞めたいなんて思っているつらい毎日でした。でも今は、チームの守護神となり、チームを支えています。僕は、あきらめず、辞めずに続けてきて良かったと思っています。

今、僕の将来の夢は「プロサッカー選手」になることです。障害があっても夢は必ず実現するということをみせてやりたいし、僕と同じ障害のある人にも勇気をもってほしいということが僕の夢です。

たしかに障害があるのは、普通の人と比べてプレーが難しくなることもありますが、夢を持ち、常に前向きな姿勢があれば、乗り越えることができると思っています。

みんなとちがっていることは、いやなこともありますが、前向きに、自分にだけ与えられた試練だと、考えれば良いと思います。

人は決して一人ひとり同じではありません。一人ひとりの個性があります。それをお互いに理解してほしいです。

障害があったとしても、支えてくれる人、助けてくれる人はたくさんいます。共に乗り越え、共に頑張っていけたら、と思っています。

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佳作

努力の証

宮城県仙台二華中学校

3年 木内 さゆみ

「決勝残った・・・!」
周りの人が一斉に振り向くほど、私たちは大きな歓声を上げた。

中学校3年生、3年間の集大成として迎えた陸上宮城県中総体。3年生4人で臨んだ女子4×100mリレーで私達は7位という成績を収めた。私達の学校は他の学校に比べて部員数が少なく、リレーメンバーを4人集めることもギリギリであり、その中で入賞を果たすことができてとても嬉しかった。

走力が他のチームに劣っている部分も少しあったが、そこで諦めずに「絶対にバトンパスは完璧にする」という目標を持ち、練習を重ねた。大会直前は朝練をし、バトンパスを見合って、「もっとバトン奪った方がいいんじゃない?」など、お互いに積極的にアドバイスをし合った。競技場の練習では、動画を撮りながらスロー再生で細かく確認した。そのため、練習の量と質には他の学校に絶対負けない自信があった。

私は陸上部に入部して以来、陸上にとても一生懸命だった。今は一生懸命やっていない、というわけではないが、ある出来事をきっかけに、少し陸上に対して冷めた目で見てしまう、そんな自分がいた。

そのきっかけは、中学2年生の新人戦だった。私は100mに出場した。しかし、フライングをして失格、走ることがなく終わった。私はその大会に向けて必死に努力をしてきて、自分自身にも、とてつもなく期待をしていた。この試合が終わった後から私は「努力してもどうせ無駄になるかも」というネガティブな考えがどうしても頭をよぎるようになってしまっていた。それ以来、「もっとできるかもしれないけど、まあいいや」と思ってしまうことが多くなった。

そんな私が、中総体で自分のできる限りの努力をできたのは、仲間の存在があったからだった。今回一緒に走った3年生の一人から、「今回の中総体が終わったら、高校は陸上部に入らずに他の部活に転部する」と聞いていた。3年間一緒に走ってきた仲間とはもう一緒に走ることがない。そう思うと、「少しでもラウンドを進めて、少しでも長く一緒にレースをしたい。絶対に、賞状を持たせたい。」そんな気持ちがとても強くなった。「できる限りの努力を4人でやりたい。失敗したっていい。」いつの間にか前のトラウマが消えていた。

決勝進出が決まった後、決勝進出への嬉しい気持ちと、「あ、もう次がこの4人でバトンをつなぐ最後の試合なんだな」という寂しい気持ち、この半分半分が私の心の中にあった。
「もうラスト試合だね!」
「確かに、考えてみるとそうだね。」
アップをしているとき、何となく冗談でそんな会話をしていた。

レースの直前、私は心臓がはちきれそうになるぐらい緊張していた。決勝でなくてもレースの前に緊張するのは私の場合当たり前のことで、日常茶飯事だったが、その時は何かが違った。もう一生このメンバーで走ることはないという今回のレースの重みを強く感じた。さらに、これで終わってしまうと改めて考えると、レースが終わってもいないのに涙が出そうになってしまっていた。なんとかこらえて、自分のレーンに向かう。
「セット、パーン!」
スタートのピストルが鳴る。私が走るのはアンカー。バトンが回ってくるのは一番最後だ。すぐ近くまでチームメートが来た。バトンを受け取る。今までの試合で一番良いバトンパスだった。走っている間のとても短い時間で、さまざまな思い出が蘇った。みんなで励ましあいながらつらい練習をしていたとき、練習の合間に雑談をして楽しかったとき、思い出がたくさん蘇ってきた。その思いをすべてぶつけた。自分の出せる力を出し切ってゴールした。

レースが終わった後はとても気持ちがよかった。まさか県の大会で賞状をもらえるなんて思ってもいなかった。この結果に私は「努力が報われたな。」そう感じた。この感覚はまた私の考え方を変えた。
「やっても変わらないかもしれないけど、やらないと変わらない。」
私の知っている人が言っていた言葉。まさにその通りだと思った。

未来の自分へ。今、努力していることがあったら、絶対に諦めないでほしい。あの日、中学校3年生の最後の大会の日、リレーの決勝で味わった感覚、一生忘れないでほしい。自分を信じてやり続ければ、もし失敗したとしても、一生懸命にやった自分に自信がつく。投げやりな人生じゃなくて、全力で走り抜ける人生を送ってほしい。

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佳作

僕からあなたへ

宮城県利府町立利府中学校

2年 後藤 歩夢

あなたには今、どんな世界が見えていますか。大人のあなたは、中学生の僕には分からないことも、たくさん知っているのだと思います。そのぶん、つらいことや苦しいことも増えたのではないかと思います。僕も中学生になり、悩むことや感じることも増えてきました。ところであなたは、ずっと憧れ続けている夢を覚えていますか。あなたは小さい時から、ずっと「教師」という職業に憧れを持っていますね。その夢をあなたが叶えてくれると信じ、僕はあなたのために準備をしています。もしも、あなたが夢への道の途中で折れてしまいそうになっているのであれば、思い出してください。先生に憧れていたあなたを。憧れている僕の想いを。

小さい頃からあなたは、人に褒めてもらうことが大好きでした。大人に褒めてもらうことがとても嬉しくて、大人について歩くのが好きでした。そんなあなたは、誰よりも頼りになる大人と出会います。それが「先生」という人でした。その先生という大人は、あなたのことをよく褒めてくれる人でした。それが嬉しくて嬉しくて、先生という大人が大好きになりました。ある日、先生はあなたのその性格を褒めてくれます。

「あなたは先生になったほうがいいよ」
と。そのときあなたは、自分なんかが、こんなすごい大人になれるのだろうかと思い、疑問と嬉しさで胸がいっぱいになりました。そして、その時にもらった言葉は、いつしか「夢」へと変わっていました。先生のように自分もなりたい、なってみたい。そんな思いは今もずっと変わらずにいます。

だから今の僕は、あなたが夢を叶えるためにするべきことがあると考えています。あなたに今、何が必要なのかは分かりません。けれど、僕の知っている先生という大人はすごくいろいろなことを知っていたので、僕もいろいろなことを知ろうと勉強しています。そしてその努力は実を結び、現在中学の授業にもしっかりとついていくことができています。ここからは内容が難しくなっていくかもしれません。それでも僕は変わらずに頑張っていこうと思っています。

そして、勉強と同じ位、僕は剣道を頑張っています。中学1年生の時に部活で始めた剣道。最初の頃にはきつかった練習も今では楽にできるようになりました。それは、あなたが頑張った結果だと思います。毎日のように素振りをしたのも、先生方が教えてくださることを実践したことも。他の誰でもない、あなたが頑張った結果です。あなたが今でも剣道を続けているのかどうかは分かりません。でも、今の僕は剣道を楽しんでいます。できなかったことができるようになることが嬉しくて、どんな練習も苦ではありません。

あなたが今、どんな世界を見ているのかは分かりません。もしかしたら楽しいことなどは一つもなく、つらいことだらけなのかもしれません。でも、大人のあなたがそうであっても、今の僕は毎日が楽しいです。誰かと話したり、嫌々勉強して、それでも力になると嬉しかったり、友達とふざけあったりする。当たり前なのかもしれないけれど、それでも僕は毎日が楽しいです。きっとこれからの人生で、楽しくないことや、やらなくてはいけないことも増えてくると思います。だからこそ、今の僕は今を楽しもうとしています。小さなことで大げさに笑ったり、悩んだりして、今しかできないことがあると実感しています。僕は、今しかできないことは今するしかないと思っています。だから、勉強も部活も本気で頑張っています。友達とも、くだらない話を笑ってしています。そうやって今しかできないことをする、それが、今の僕が頑張っていることであり、目標に向かうための道のりでもあります。

今の僕がこれから未来のあなたに挑戦してほしいことは一つだけ。今の僕にはできない、大人のあなたにしかできないことに挑戦してください。いろいろなことにチャレンジして、常に夢に向かって進める人でいてください。未来であなたが頑張っていることを考えたら僕も頑張れます。小さな頃の僕、今中学生の僕、そして大人のあなた。3人で一緒に夢を叶えられる日を楽しみにしています。

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佳作

前に出る柔道

宮城県石巻市立万石浦中学校

1年 佐藤 虎太郎

「一本!」
ぼくはこの声を聞くとやる気がみなぎります。そして、なんだかうれしくなるのです。

6月の中総体の日、ぼくは個人戦で第2位になりました。「何がいけなかったんだろう」「あのときこうすればよかったかな」などと試合を振り返っては悔しくて悔しくて、その答えも探せないまま、ぼくはコーチのところに行きました。
「自分から前に攻めない柔道をしていいのか。虎太郎の柔道は、そんなはずじゃないぞ。」

その言葉を聞いたとき、はっとしました。
「ちいさいころからぼくの柔道は、前に出る柔道だったじゃないか。」

ぼくは小学校2年生のころから柔道をしています。友達にすすめられて始めましたが、練習を重ねるうちに柔道に夢中になっていきました。

小学校4年生の時に出場した「石巻かほく杯」という大会が強く印象に残っています。

ぼくは中堅として戦い、チームは順調に勝ち進んで、残すは決勝のみとなりました。
「始め。」
先鋒の選手が試合を開始しました。ぼくたちの声、コーチの声、たくさんの保護者の声。多くの声援が武道館中に響きわたっていました。しかし、先鋒はまさかの敗北。ぼくは不安でいっぱいになりました。もし、ぼくが負けてしまえば、チーム全体の負けも確定してしまうからです。気持ちが落ち着かないまま畳に向かおうとすると、コーチに声をかけられました。
「虎太郎なら絶対に勝てるぞ。前に出る柔道をしてこい。」
「始め。」
試合が始まっても、ぼくの気持ちは不安なままでした。コーチの言葉を信じたくとも、ぼくにはプレッシャーが大きかったのです。結果は、引き分け。悔しい気持ちと勝利に持ち込めなかった申し訳なさで、心が押しつぶされそうでした。

ぼくたちの勝利は、大将にゆだねることになりました。ぼくはバクバクする心臓を抑えながら応援に徹しました。
「始め。」
双方の選手から出る気合はすさまじく、緊迫した空気のなか、互いに攻防を繰り返していました。
「一本、それまで」
主審の手が上がるとともに、ぼくたちのチームのほうから歓声が沸きました。大将戦に勝利したのです。喜びもつかの間、歓声が急にざわつきに変わりました。大将戦を終えた時点でチームは引き分けだったため、代表戦で決着をつけることになったのです。すると、コーチに急に名前を呼ばれました。
「虎太郎。代表戦はお前に任せる。前の引き分けを取り戻してこい。自信をもって前に出る柔道をすれば、チームを優勝にもっていけるぞ。」
「始め。」
なかなかつかない決着。ハラハラする気持ちと同時に、熱く盛り上がるたくさんの人たちの声が聞こえました。ぼくは、相手の隙を見て足を出しました。
「入った!」
ぼくのかけた技で相手が転がった瞬間、全力で抑え込みをしました。
「ここまでくればいけるぞ。集中して抑えなさい。」
集中するかたわら、コーチの声が耳に飛び込んできたのを覚えています。
「一本それまで。」

その瞬間、周りからたくさんの歓声が沸き起こりました。ぼくの勝利でチームを優勝に導くことができたのです。ぼくの目からは涙があふれ、優勝できたことの安心感とうれしさが込み上げてきました。

そのときぼくはちかいました。コーチに言われた前に出る柔道を、これからもずっと大事にしていこうと。

ぼくには夢が二つあります。一つ目は消防士になることです。柔道をしていくなかで、このきたえた身体を職に生かしたいと思いました。消防士になれば、数々の危ない現場に向かうでしょう。そんなとき、勇気を出せず立ち向かうことができなければ、一人前の消防士にはなれません。ぼくはそこでもコーチに教えてもらった「前に出る柔道」を生かしていきたいです。二つ目は子どもたちに柔道を教えることです。ぼくは柔道を始めたことで毎日が楽しくなりました。仲間やコーチから教えてもらった柔道の楽しさを、未来の子どもたちにも伝えていきたいと思いました。あこがれのコーチのようになれるよう、これからも毎日全力で練習を頑張ります。あの日ちかったことを、これからもずっと忘れずに。

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佳作

一つの夢を叶えるために

宮城県柴田町立船迫中学校

2年 佐藤 叶羽

「努力は必ず報われる。」私が何かに挑戦するときはお母さんがいつも言ってくれる。
「頑張れば夢は叶うんだよ。」
この言葉は、自分をやる気にさせてくれる言葉だ。

私の性格は、恥ずかしがり屋であきらめが悪く、ほめられるとモチベーションが上がる性格だ。そんな私だが、一つだけ憧れていることがあった。それは小学校の鼓笛で総指揮者になること。みんなの前に立ってリズムを刻む。私は何か挑戦しようと思っても
「失敗するかもしれないから。」
と失敗を恐れて辞めてしまうことが多かった。

しかし、総指揮者になるという夢は誰にも譲りたくなかった。総指揮者一人。副指揮者二人。指揮者になりたい人は7人。この中から総指揮者、副指揮者を決めるためオーディションが行われる。そのことを知った日から私は毎日練習した。なぜなら、総指揮者に絶対になりたかったから。

指揮棒を持ちながら「角度」「向き」「肘の高さ」細かい所も丁寧に練習した。放課後も下校時間ギリギリまで残り、自分の姿を鏡で見て誰よりも一番練習した。いや、誰よりも一番練習したと思えるくらい努力した。
「まだ練習しているのか。頑張れ。」
私が放課後、練習していると先生が言ってくれた。私はほめられるとモチベーションが上がる。だから、言われた時かなり嬉しかった。そして、自分に自信がついた。
「本番までもう少し。もっと頑張ろう。」
今までの練習を当日まで繰り返し練習した。

迎えた当日。先生の前に立った次の瞬間緊張が走った。自分から挑戦し、細かい所も練習し続けた毎日。先生から言われた自分に自信をくれる一言。自分はできると信じオーディションを受けた。結果は「合格。」そう言われた時、
「努力してよかった。」
この一言が心に強く残った。そして、副指揮者ではなく、一番なりたかった総指揮者になれた。学年でたった一人しかなれない指揮者になれたのだ。

ここからが始まりだと思う。私は「少しやってみよう。」そう思うことが多くなっていった。中学校に入学し、生徒会メンバーに憧れ立候補した。そして、生徒会書記になり、話し合ったことをまとめる役割になった。私はとてもやりがいを感じており、今も誇りを持って取り組んでいる。

私が生徒会選挙で話した公約は目安箱を設置すること。全校生徒の意見を少しでも多く叶えるための箱だ。この箱に、1年生からの学校に関する質問や先輩の意見などが入っていた。自分が考えた公約が活用され、私はとても嬉しかった。生徒会メンバーとして、初めて全校生徒の役に立てたと思った。

私は2年生に上がり、所属している部活の部長になり、勉強も難しくなってきた。あまり上手に部員をまとめられないことや、授業中、難しい問題が出るとすぐに友達に聞いてしまうことがある。

しかし、悪いことだけではない。部活の練習メニューをスムーズに進められたことがある。難しい問題を一日で何問も解いたことがある。努力し続ける大切さを、今もこれからも忘れずにいきたい。

私は今、高校生になるという夢を持っている。そして、留学のできる高校に行きたい。私が留学したい国はカナダだ。カナダは、自然が豊かで、英語だけでなくフランス語やアラビア語が使われている。私は将来、接客業の職業につきたい。だから、海外の人とも会話ができるように留学して英語を本格的に学びたいと思った。今の私は、やってみたいと思う職業が山ほどある。キャビンアテンダントは、飛行機に乗り、お客様を目的地まで安全に笑顔でお届けする仕事。ブライダルは、一生に一度しかない結婚式を忘れられない思い出になるように働く仕事など。

私がやりたい仕事はどれも、お客様の役に立てる、人を笑顔にすることができる仕事ばかりだ。そして、英語もたくさん使う。私は英語の発音や単語を覚えるのが得意ではないし、ただ好きなだけでテストの点数はあまり良くない。しかし、自分が好きなことに挑戦しそれが努力して叶ったら私はとても嬉しい。だから、挑戦しようと思う。今の夢は高校受験合格を目標として頑張ろうと思う。

10年後、20年後の自分は、今私がなりたい、人を笑顔にする職業にはついているのだろうか。何かの目標のために努力し続けているのだろうか。今の私には、はっきりと想像はできないけれど、努力することを未来の自分も忘れないでほしい。

最後に、10年後、20年後の私が、今の私の夢を叶えて笑顔でいることを願っています。

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佳作

未来の自分に伝えたいこと

宮城県亘理町立逢隈中学校

2年 鹿野 姫夏

変わらないといけない。私は強くならないといけない。それが私の前へ進む道。

私は気は強く、力も強かった。周りの男子からは「お前は男だ。」と言われるぐらいだった。けれどそれは、表面上だけ。本当は内面がとても弱い。マイナス思考で涙もろく、すぐに落ち込んでしまう。みんなが強いと思っていた私は実は、中身はものすごく弱かった。そんな自分が好きになれなくて表面上だけでもと、明るく元気に過ごしていた。そのため悩み事はため込んでしまって、我慢できなくなり爆発してしまったり、一人で悩み、一人で泣いたりすることも多かった。みんなの前で自分を偽ることが多く、偽物の笑顔を貼り付けることもあった。濃い霧の中にいるような感覚、それが少し前の私。

それでは、今の私はどうなのだろう。内面はとても弱いし、マイナス思考で涙もろい。すぐ落ち込む。少し前の私も今の私も、中身は変わっていない。好きになれない中身のまま。昔から染み付いてしまった心の持ちようは、変えることはできなかった。

では、今の私は何が変わったのか。心が傷ついた、どんどんマイナスに考えてしまう、ああ泣きそう、落ち込んでいく。でも今の私は、その後の考え方が変わった。いつもならそのまま落ち込んでいくだけだったり、たまに友達に問われ、話すことになったりするのが関の山だった。でも、今はそこから自分で何かいい解決策がないかと探したり、前向きに考え、次に生かせるように努力をしている。また、私は私を支えてくれる友達の存在を知り、相談するようになった。それが今の私。

私はどうしてそう考えるようになったのか。それは友達からの言葉だった。

「ため込んじゃうから何も解決できない。ちゃんと話を聞いてくれる友達がいるのに。相談しようとしない。もし友達に相談できないのなら、ひなちゃん自身が強くならないといけないんじゃない。変わらないと前に進むことすらできないんじゃないの。」

この言葉から、私には話を聞いてくれる友達がいることを知った。それと同時に自分自身が変わる、強くならないといけないことを知った。そうしないと前に進めないから。それから変わらなくてはという思いでいっぱいになっていた。その時少し違う考えを、違う友達から言われた。

「無理して変わることないんじゃない。弱いままでもいいんだと思うよ。変わろうと思うことがきっと大事なんだと思う。」

この言葉から、変わらなくてはという考えが自分自身を苦しめていたことに気づいた。そしてその時、たまたま見つけたものがあった。それは「平和」という小学生の時に私が書いた詩だった。そこには過去の私から今の私へ考えさせるような、語りかけるようなことが書いてあった。詩を読んでまた考え方が少し変わった。私は「友達」と「過去の私」に前への進み方を教わったのだ。自分の中の霧が晴れるような気がした。

この経験を生かして私は未来の私に伝えたいことがある。

ねえ、未来の私。この作文を見つけてくれてありがとう。そして、この作文を読んでいる今、未来の私が悩んでいるのなら、聞いてほしい。また一人で悩んでいるんじゃないの。でも忘れないで、私だもん、大丈夫、周りには助けてくれる友達がいるはず。一人で悩んでいても解決しないんだから相談してみるべきだと思う。でも、誰にも話せない悩みもできるはず。私も今そんな悩みがあるから。なにより大きく、誰にも言えない悩み事。焦らず少しずつ解決していこう。一人でしか解決策を見つけられないけれど、でも絶対私自身にできることはある。だからやれることをやっていこう。私はそうする。過去の私がこのバトンを繋げてくれたように、私も未来の私へこのバントを繋ぐ。私は過去の私に詩で救われたから、今の私も未来の私をこの作文で救いたい。未来の私が今笑っていなくても、また笑えるように。そしてまた笑えたら、その先の私へバトンを繋げてほしい。

時とともに考え方もまた変わるだろう。苦しみも変わり、つらさが倍になっているかもしれない。けれど、毎日苦労して綺麗に咲いた花のように、少しずつでも頑張って乗り越えていったのなら、きっと私は咲き誇れる。この作文は単なる肥料にすぎない。単なる肥料だけれど、とても大切だ。忘れてほしくない想いを、この作文に詰め込んで未来の私に伝えます。

無理に進まなくていい。少しずつ変わり、強くなっていく。それが私の前へ進む道。

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佳作

未来の自分へ

山形県戸沢村立戸沢学園

7年 安食 日涼

拝啓 25歳の君へ。

やあ、こんにちは。25歳の私。君は今、獣医師として充実した生活を送っていますか。それとも、ばたばたしたあわただしい生活を送っていますか。ここで、君に伝えたいことがあります。生意気だと思わずに、聞いてほしい。

なぜ私が獣医師を目指そうとしたか、覚えていますか。それは、テレビで見た病気の犬を助けたいと思ったからです。世間では、野良犬や捨て猫など、飼っていた動物を捨てる人がたくさんいます。段ボール箱に入っていて「もっといい人に拾ってもらってね」などと、一見優しい言葉ですが、これも一つの人間のエゴです。エサをやるのが面倒になった、飽きたので別の動物を飼いたい、掃除や散歩させることが大変だ、こうした理由で捨てるなんてと思いますが、これが現実です。命をなんと思っているのでしょうか。

君は、毎年わが家に巣を作るスズメのことを覚えていますか。家の門の上に巣を作り、そして、毎年のように雛が生まれます。しかし、雛のうちの一羽は、必ず巣から落ちて死んでいます。見るのが、とてもつらいことです。病気でもないので、何とかしてあげたくなります。けれど、これも自然の摂理です。私には助けることなどできないのです。悲しい現実なのです。このことからも、動物の命を捨てる行為は、我慢できないのです。ですから君には、獣医師として多くの動物の命を救うとともに、命の大切さを訴えてほしいのです。

次に、今の私の生活のことです。この手紙を書いている私は、中学1年生です。小学校とは違い、勉強が難しくなりました。毎日毎日、予習・復習・部活動の日々です。一番苦手としている教科は、英語です。文法など、ややこしいことがたくさんあるからです。部活動では、バレーボール部に所属しています。サーブカットが上手にできなかったり、スパイクのタイミングが合わなかったりと、苦労しています。けれども、勉強にしろ部活動にしろ、獣医師になるという目標を持って努力しています。体力をつけるために、部活動で鍛えています。勉強では、動物の体を知るために、理科をがんばっています。また、絶対に必要とされる英語にも力を入れています。だから、今の学校生活は楽しいし、とても充実しています。君は、このことを覚えていますか。そして、こうした努力は、今の君に役立っていますか。

三つ目に、家族のことです。今の君は、大変なことをたくさん抱えていることでしょう。でも、お母さんとお父さんには、しっかり会ってください。どんなにばたばたとしていても、必ず会ってください。今の私は、毎日ご飯を作ってもらい、部活動で飲むための水筒だって準備してもらっています。よく考えてみれば、これは当たり前のことではありません。私は、最近になってようやく気付きました。私も家族の一員です。自分ができることは何か、考えるようになってきました。そして、部活動の水筒くらい、自分で準備しなければと思っています。

このことを、今の君はよく理解しているのではないでしょうか。どれだけお母さんに頼り切っていたか、実感しているでしょう。だから、お母さんに感謝を伝えるためにも絶対に両親に会いに行ってください。夢を追いかけることは、もちろん大切です。日々の仕事では、楽しいこともつらいこともあることでしょう。しかしその中で、家族と一緒に過ごす時間というのは、一番大切なのではないでしょうか。このことを、今の君に訴えたいのです。

最後に、君への願いです。

今、私はとても楽しいです。部活動と勉強をしっかり両立させようと努力しています。君はどうですか。一つの悩みを解決したとしても、また、新たな悩みが出てくると思います。同様に、一つの目標をクリアしたとしても、また次の目標が出てきていると思います。心が安住することは、なかなかないでしょう。でも、そういうときは、私の座右の銘「プルス・ウルトラ」を思い出して、乗り越えてください。

未来の私、君が多くの命を救い、楽しく充実した生活を送っていることを願っています。

12歳の私より

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佳作

過去も未来も

山形県山形市立第十中学校

1年 荒井 ひよ

2020年。たくさんの人から『当たり前』が奪われた年。したいことはできず、人に会うことすら難しく、悔しい思いをした人が世界にあふれていました。私は過去にも似たような経験をしていたことを思い出していました。

名字が変わったときのことです。父に会える頻度が減ったのがさみしくて、自分のせいだと追い詰めて、夜中に一人で泣いていました。そのときに、当たり前と思っていることは永遠には続かないと気付かされました。以来、もう当たり前を奪われたくないと思っていたのに、またいろいろなものをコロナウイルスで奪われていくのを見ているだけなのが悔しかったです。だから、この先何度も当たり前が奪われる人を減らすため、当たり前について考え直し、私がすべきことを決めました。

私の当たり前の一つに、友達がずっとそばに居てくれることがあります。こんなに弱くて、脆くて、どうしようもない私の話すことを、いつも真剣に聞いてくれる友達がいるなんて、とても恵まれているなと実感しました。しかし、それと同時に、その友達に対して何も返せていないことも実感し、情けなさが押し寄せてきました。友達に甘えてばかりでは、迷惑になってしまうという焦りもあり、これから続けていこうと決めたことが二つあります。そして、その決めたことは、大人になった自分に届けたいことでもあります。

一つ目は、笑顔が似合う人になることです。感情は波紋のように広がっていきます。それは、私が相談をすると、しんみりした空気に変わることから感じとりました。だから、私自身が心から笑って、笑顔が似合う人になることで、周りの人たちにも笑顔になってほしいと思ったのです。また、笑顔が似合う人が一番輝いて見えるというのも理由の一つです。

二つ目は、努力し続けることです。この目標を立てたのは、他人と自分を比べては落ち込むことをくり返していたからです。周りより劣っていることに気付いているのに、努力すらしない自分も居ました。私の周りの友達は、才能がある上で努力を重ねることを厭わない人ばかりです。その友達との差に打ちのめされていたときにふと、劣っているなら努力して当然と思ったのがきっかけになりました。そして、頑張ろうともせず嘆くのは、努力を重ねる人たちに失礼だと考えるようになりました。私も周りの友達のように努力し続けることで、いろいろな人に『自分も頑張ろう』と思ってもらえる人になりたいと思います。

この二つができるようになれば、過去の私のような苦しい思いをする人を救える人に、少し近づけると私は思います。

大人になった自分に届けたい言葉がもう一つあります。その言葉は『自分が笑えたら大成功』です。これは、私の大好きなゲーム実況者の言葉で、私を何度も救ってくれた言葉でもあります。この言葉には、周りから何と言われようと、結果がどうなろうと、自分が満足できたのならそれだけで大成功だよという意味が込められています。この言葉とそばに居てくれる存在の、どちらかが欠けていても、今の私はここまで前を向けていないと思います。それくらい、私を何度も救ってくれた大切な言葉です。だから、未来で苦しい思いをしている私へ、この言葉を届けたいと思いました。

私は、弱くて、脆くて、どうしようもなかった人です。けれど、そばに居てくれる友達や、大好きなゲーム実況者の人に出会えたから、当たり前のように前を向いたり、当たり前のように幸せを感じたりすることができるようになりました。こんな私が、苦しかった過去を、不安な未来を、自分自身のことを愛せるようになったのは、大切な人たちと出会えたおかげです。だからこそ、私の大切な人たちの当たり前が奪われてほしくないと強く思います。そのために、今度こそ私が頑張ろうと、大切な人たちに笑顔になってもらおうと、私以上に幸せになってもらうために努力し続けようと、決意を固めました。

大人になった自分へ。

2021年を覚えていますか。2021年の私は、当たり前が永遠に続くことはないと、身を持って実感しました。だから、私と大切な人たちの当たり前が少しでも長く続くよう、今を一生懸命生きようと思っています。

大切な人は居ますか。私を救ってくれた友達と、大人になってからも仲良くしていると嬉しいです。

未来を生きる私も、2021年に立てた目標に向かって頑張っていると、『自分が笑えたら大成功』という言葉に励まされながら、前を向いて進んでいると信じています。

未来の私にとって、2021年が愛せる過去になっていますように。

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佳作

憧れから夢に変わる瞬間

山形県金山町立金山中学校

2年 柴田 怜

「皮膚科医になる。」そう決めたのは、中学校1年生の時。その前にも、将来の夢は結構あった。例えば、「助産師」「裁判所書記官」などなど・・・・・・。しかし、今は「もう変わらない。」そう言いきれるくらい皮膚科医になろうと心から思っている。

私は小学校の時から結構肌が弱かった。薬をもらうためにたくさんの病院を回っていた。最初は私の家から近い新庄の病院。なかなか良くならなかった。次の病院も、その次の医院も・・・・・・。通う病院はどんどん遠ざかっていった。そんなある日、母から東根市にある皮膚科のクリニックに行くことを誘われた。私は「え、60キロくらいあるよ」「また同じ事を繰り返すだけなんじゃ。」と半信半疑というより、むしろネガティブに傾いていた。しかし、初めて診てもらった時に処方された薬をぬり始め、2週間と経たないうちに、どんどんかゆさや傷がおさまっていった。「すごい。」私はそう思った。これまで何人もの先生に診てもらい、なかばあきらめかけていた私の肌。「このままずっとこの肌と付き合っていくんだな。」などと思い始めていたのだ。「クリニックの先生が、私に合う薬を選んでくれた。」という感謝の思いが湧いた。また、先生やスタッフの、子どもの私に向けての言葉遣いや接客もとても丁寧だった。さらに私の意見を尊重し、粘り気の少ないタイプの薬にしてくれた。私の中で「あきらめ」が「希望」へと変化していくにつれて、「この先生のような皮膚科医になりたい、いや、きっとなる。」と思いが形になっていった。たぶん、この先生とめぐりあっていなければ皮膚科医という夢を持つことはなかった。そう思うと、本当に出会えたことに感謝している。

私の夢は感謝から始まった。私が感謝しているのはその皮膚科医の先生だけではない。母だ。そもそも、そのクリニックを見つけてくれたのは母だ。それだけではない。幼い頃から荒れている所に毎日薬をぬってくれた。私の肌に合わせてボディーソープをわざわざ変えてくれた。本当にお世話になっている。薬をぬられるのが嫌で逃げ回り、べそをかく幼い私をあやしながらぬってくれた。あまり想いを伝えられていないけれど、今「ありがとう!」と心を込めて伝えたい。そして、父。母が用事でクリニックに連れていけない時は嫌な顔ひとつせず、遠い東根市まで連れていってくれる。父にも感謝だ。そして、もうひとつ「皮膚科医になる。」と確信させたのは、祖父と祖母も私の夢を応援してくれるから。「怜ちゃんならなれる!」そう言ってくれた。「絶対になる!」という気持ちでいっぱいになる。友達もだ。笑顔で話を聞いてくれて、「いいじゃん!」と言ってくれた。本当に周りの人たちに私は支えられている。

そして、皮膚科医になるために今の私が努力しなければならないのは学習だ。自分の未来の姿を目指して私は頑張り始めている。テスト期間は特につらい。でもテストの結果を見ると、「やってよかった。」と思う。医者になるまでにはいったい幾つの試験をくぐり抜けなければならないのか途方もなくなるけれど、そんな時は医師になっている自分の姿を想像する。すると、やる気がみなぎってくる。

約十数年後、自分はどんな皮膚科医になっているだろう。まずは、人を平等に扱って、その人にあった薬を的確に出せる医師になっていたい。あの先生のように。10年以上経っていてもあの皮膚科の先生を忘れず、たくさんの人から応援されていたことに感謝している人でありたい。たくさんの人から頼られる人になっていたい。私のような肌の弱い子どもたちを一人でも多く治したい。そして、「あの皮膚科医のような人になりたい。」などと憧れられる医師になっていられれば感無量だ。きっといつか・・・・・・。そのためには、やっぱり今できることをがむしゃらにやるしかない。来年は高校受験だ。二つ上の姉の姿を思い出すと、つらそうだなと弱気になってしまう。そんな私が自信を持つためには今はやはり勉強しかないのだ。受験生でもなく、学校に十分慣れて親友がいる最高の2年生という立場に甘えてしまいたくなる自分にも打ち勝って、将来のために、自分のために、と頑張っていく。「きっとなれる。」そう信じて。

大学入試、医師免許国家試験、中2の今からその時の自分が心配で仕方がない。不安が消えない私に必要なのは、努力と勇気と未来を信じる力だ。「やる時はやる。」という自分でいられるためにこれからの私に向けてアドバイスをする。「きっかけをくれ、支えてくれた全ての人への感謝を忘れるな。その感謝を形にしろ。医師という形に。きっとできる。きっとなれる。信じて努力をすれば花はきっと開く。」

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佳作

自分らしさを大切にする心

山形県山形市立第一中学校

1年 高橋 龍生

生。命は一人に一つずつ、平等に与えられている。命の平等な「人」なのに、人と人との関係が生まれると、関わりに変化が生まれるのはなぜなのだろうか。

世の中にはいろいろなことがある。技術的な進歩とそのことによる暮らしの中で、便利で豊かな生活を送っている。確かにメリットは大きいが、実際には悪いことも存在している。例えば、今話題の「SDGs」、人権や環境などについてさまざまな問題がある。また、ジェンダーの平等化や海と陸の豊かさを守ることなど、それらは一つ一つがとても重要なことである。しかし、他にも見直すべき点、生きるため未来のために必要なことがあるのではないだろうか。

僕は最近「心」の問題が大切だと思う経験をした。仕事の人間関係で悩む人が身近にいたからだ。いじめはなく、仕事に行ってはいる。しかし、仕事のことで考えこみ、嘔吐してしまうこともあるらしい。これは、「心」の問題によるものではないだろうか。考えすぎてしまう心の負担によって引き起こされているのではなかろうか。僕はまだ学校の中にいて、社会に指先が当たった程度しかふれていない立場だ。そんな僕だって嫌なことはあるし、考えすぎて不安になってしまうこと、休日がたくさんあるといいと思うこともある。彼にとっては僕の悩みはちっぽけな小石のようなものだろう。けれど悩んでいる本人にとっては、時に乗りこえられない大きな岩に感じることがあるかもしれない。「悩み」や「辛さ」の大きさは人それぞれ違うのだ。社会に出ても嫌な思いをしながら毎日を過ごしているのは、想像しただけで僕だって嫌だ。苦しい思いをしている人たちの心の負担が少しでも軽くなるような世の中であってほしいと思う。

以前テレビで、苦しさを抱えている人たちの心の中を歌にしたり、その人たちに向けた応援歌が作られたりしているのを見たことがある。彼らがその歌を聴いて共感したり、明日も頑張ろうと思えたり、その歌が心のくすりになって生きる様子だった。歌を作ったり歌ったりする人と聴く人の関係も社会の中ではつながっている。歌を聴いて生きる力がわいてくる。やっぱり「人と社会」、「心と心」は切り離せないと感じた。世の中には、真面目に懸命に生きている人がいる。その真面目さ故にバカをみたり、心が苦しくなったりするような世界はおかしいだろう。さまざまな人の「心」を大切にする世の中であってほしいと思う。

他に、ネットでの誹謗中傷やいじめの問題もある。些細なことがきっかけで起きてしまうらしい。加害者にもストレスがたまっていて、負のくさりを「重いから持って」と言わんばかりに、いじめは弱者へとつながっていく。たすきならゴールは見えるけれど、負のくさりのゴールは見えない。恐ろしいことだが、嫌がらせはずっと続いていくのだ。

人間は考えることが素晴らしいそうだ。そのおかげで今があるのだろうし、生きている。でも、そのせいで心にダメージを受けやすくなってしまう面もある。「強い心をつくる!」や「嫌なことをしない!」と決めるのも正しいことだが、僕は、いろいろなものとの付き合い方も「心」にとっては大切ではないかと思う。ちょっと自分の周囲を見わたせば、自然や音楽、情報、さまざまな命、SDGs……と、数え切れない無数の「自分との関係」がある。平等に与えられたそれらとの関係の中で、それらとどう付き合うかが、自分らしさだと思う。人はそれぞれみんな違う。感じ方も環境も生き方も一人一人違う。個性があっていろいろな違いがあって当然だ。だから、人と人との関わりに変化が生まれるのだろう。そんな中で、どう自分らしく生ききれるかだと思うのである。

将来、技術的な進歩がさらに大きくなり、今からでは想像もできないような世の中になっているとする。地球温暖化もなくなり、「SDGs」がもっと身近にある世界。そこで僕は、どんな人生を送っているのだろう。もし人間関係の中で心が疲れていたら、「そのままの自分で大丈夫。自信を持って頑張って生き抜け。」そう自分にメッセージを送りたい。将来、今より個性や考え方の違いが尊重される時代になっていても、時に悩むこともあるかもしれない。そんな時はたまに休んで、自分らしさを思い出そう。それぞれの自分らしさを認め合えるような、そんな世の中であってほしい。どんなことがあっても自分を大切にする「心」を大切に生きていきたいと思う。

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佳作

「未来」を変えて素敵な「過去」を

山形県山形市立第六中学校

3年 半沢 紅瑠実

「過去は変えられないが、未来は変えることができる」この言葉は、私がとても尊敬している先生に教えていただいた言葉です。

私は2年生の冬頃から、自分のことで悩んでいました。今までの自分の行動を振り返ってとても自分勝手であったことに気づき、自分のことがだんだん嫌いになりました。さらに、私はさまざまなところでリーダーをやっているのにもかかわらず、自分勝手であったことに恥ずかしさを感じました。そして最終的には、すべてのことを適当にするようになってしまい、うまくいかなくなりました。

そんな時、私の相談にのってくれたのがその先生でした。先生は、どんなことも受け止めてくれました。だから私は、泣きながら自分の気持ちを話しました。すると先生は、
「過去の自分は変えられないけど、未来の自分は気持ち次第でいくらでも変えられるよ。今までやってきてしまったことを考えるより、自分がこれからどうしていくべきかを考えるほうが大事じゃない?」
と言いました。その通りだと思いました。私は、自分勝手であったことに気づいただけで、自分から何かを変えようとしていませんでした。そして、ただ先生に頼ろうとしていただけでした。だからそこから、自分を変えようと決心して頑張りました。

まず、部活での自分と向き合いました。吹奏楽部に所属している私は、共に演奏する仲間との人間関係を考えました。自分が謝るべきことは友達に自分の言葉でしっかり伝えました。部活で副部長としてみんなに認めてもらえるように頑張りました。次に変えたのは生徒会での自分です。生徒会では副会長である自分がどうあるべきか考えました。私は生徒会の仲間との関わり方を変えました。そして、男子だから、クラスが違うから、という理由でうまく話せなかった人にも、自分の気持ちを打ち明けることができるようになりました。また、自分の勉強も変えました。塾へ行ったり、自主学習の内容を工夫したりしました。まだ良い成績は出せていませんが、前より勉強することが楽しくなりました。そして、受験に向けてこれからもっと努力していこうという気持ちが強くなりました。

今思うと、前の自分は弱いところだらけで、その自分の弱さに向き合うことができていませんでした。しかし、先生にあの言葉を教えていただいて、未来の自分を変えようと思い、努力できるようになってきたと思います。行動や考え方を変えて分かったこと、それは、私の周りはもっと広いということです。何かを一つ変えるだけで、前とは全然違う結果になったと感じた機会が何度もありました。そして、「未来」というものは、たった一つの変化だけでまったく違うものにすることができるのだと知りました。

自分を変えてゆく中で、先生には何度も相談にのっていただきました。うまくいかないことがあったり、不安になったりしたときには、いつも先生が助けてくれました。先生と出会うことがなければ今の私はどうなっているだろうと考えると、先生との出会いも私の中での一つの大きな変化であり、「未来」を変えるきっかけだったと思います。だからこそ、その先生には、感謝してもしきれないほど感謝しています。

私は今「過去」というものがあまり好きではありません。なぜなら「過去」は「未来」のように変えられないからです。もちろん楽しかったことや嬉しかったことはたくさんあります。でも、後悔していることも同じくらいたくさんあります。そこで、最近よく考えることがあります。今までの人生の約15年間の「過去」は変えられません。でも、あと15年後の自分が、今からの私を振り返ったときの15年分の「過去」は良いものにできます。なぜなら、その15年分は今「未来」であるからです。「未来」はいずれ「過去」になります。だから、これから「未来」を変えようと頑張れば「過去」も良いものにできるはずです。

15年後の私には「過去」が好きになっていてほしいです。自慢できるくらい良い「過去」を持っていてほしいです。そのために、今、私は「未来」を良いものに変える努力をしていかなければいけません。「未来」を変えることは簡単ではありません。しかし、変えられる可能性があるのなら、努力する価値もあると思います。後になって後悔するのは嫌です。だから、今、この瞬間、どうすればいいのかということをしっかり考えて行動していこうと思います。

「未来」の私が、宝物にできる「過去」をたくさん持っていますように。

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佳作

「未来の自分に伝えたいこと」

山形県山形市立第六中学校

3年 舟越 ゆな

「特別支援学校の先生になる」そう決めたのは小学6年生の頃でした。私のいとこの「はると」は耳が聞こえず、手話で会話をしています。私が小学生の頃は家族のように毎日会って、たくさん遊んだりお話したり一緒に勉強をしたりと、普通の毎日を送っていました。そんな毎日を送っているうちに手話で話が通じ合ううれしさや楽しさに気づき始めました。中には「声を出さない会話は楽しいの?」と思う人もいるかもしれません。実際私も「本当に通じるの?」「言いたいことを言えるの?」などあまり良いイメージがなく、疑問も多くありました。しかし、会話をしてみると楽しくてたまりませんでした。手話でも通じ合えたあの日は忘れられません。あの日から私は「もっと手話を覚えていろんな話をしたい」「障害がある人たちと話をして笑顔を見たい」という思いが強くなり、特別支援学校の先生を目指しました。手話教室に行ったこともあります。実際、はるとに勉強を教えてみた時はうまく伝えられず苦戦しました。当たり前だと思ってやっていた、たし算・引き算も難しく思えてきます。しかし、絶対に分かるまで教えたいと思い、私が教えてもらったことを思い出しました。丸を書いて数えたり指を使ったりと、工夫して教えました。今でもはるとができた時の喜びは忘れられません。

未来の自分に伝えたいことは、はるとがいたから成長でき、いろいろなことに気づけたということです。例えば、声で会話できる簡単さや手話の便利さ、勉強を教える側の難しさなどに気づけました。また、はるとのおかげで人見知りが減り、人と話をするのが楽しくなりました。これは、声を出して話ができるのが当たり前ではないと気づいただけではなく、はるとが声を出して会話ができないのにいろいろな人と話そうとしていてすごいなと思ったからです。はるとのそんな姿を見ているうちに負けられないと思い、積極的に人の前に立つようにしました。今では人の前に立つことが前より楽しくなり成長できました。

テレビの音も私たちの声も聞こえない、思うようにやりたいことができない。耳が不自由な人たちは多くの苦労をしていると思います。他にも目が不自由だったり、病気を抱えていたりする人もいます。私はそのような人たちの力になりたいし、手助けをしたいなと思います。手話は難しいし、興味を持っている人も少ないと思います。しかし、私は手話の便利さにも気づけたし、手話を少しでも多くの人に知ってもらって興味を持ってくれる人が増えたらいいなと思います。声を出さなくても手話を使えば会話ができるので、コロナウイルス感染症の対策にもつながると思います。そんなふうになるには程遠いかもしれませんが、私はできたらいいなと願っています。

あの日から3年が経ち、受験生になりました。今はなりたい自分になるために勉強と部活の両立を頑張っています。今のままで私は先生になれるのか、まず何をしたらいいのか分からず悩む毎日です。今は、はるとと会う機会も減り、手話を使う機会も減っています。でも私はあきらめていません。障害のある人と話をして笑顔を見たいという思いを胸に毎日頑張っています。学校の先生は忙しそうで、大変なイメージがあります。しかし、その分やりがいや良いこともたくさんあると思います。仕事は良いこと楽しいことだけでなく大変なこともつきものです。それを乗り越える力とメンタルなどを今からつけて理想の仕事にしたいです。この力やメンタルは、もし他の仕事を選んだとしても役立つと思うので、意識して生活していきたいです。

10年後、20年後の自分へ。私は今、障害のある人と話をして笑顔を見たいという思いを胸に日々頑張っています。小学6年生からの夢を叶えることはできていますか。もし違う仕事だとしてもあの頃の経験を生かして頑張っていますか。AI化が進んで学校の先生がなくなってしまうのではないかとビクビクしながら生活しています。それでも私はあきらめず、ここまで頑張ってきました。今やっていることは無駄ではないと思うので自信を持って人の役に立つことをしてください。ストレスがたまったり疲れていると思います。休みながら、なりたい自分に向かって一歩一歩頑張ってください。

私の思いが全て伝わったかどうか分かりませんが、10年後、20年後の自分が楽しみです。

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佳作

先輩たちの努力を受けついで

山形県東根市立第一中学校

1年 三坂 優月

中学生になり、ソフトボール部に入部したのは、悔しさがあったからだ。

私は、小学3年の終わりに、叔父から誘われて野球のスポ少に入団した。野球といえば男子のスポーツというイメージが強いが、私がいたスポ少も男子ばかりで、女子は私一人だけ。しかも他の学校の人が主体で、私が人見知りだということもあり、なかなかなじめなかったため、6年生になって試合に出ても緊張してしまい、練習したことが発揮できていなかった。

もっとできたはずだという悔しさを抱えたまま入部したソフトボール部。そこには2年生の先輩は一人もいなくて、9人の3年生の先輩たちが優しく迎えてくれた。

先輩たちはいつも明るくて、パワフルで、攻撃では打てばほぼヒット。出塁すれば盗塁でどんどん次の塁を狙い、守備になれば球際に強く、ギリギリのボールでもあきらめずに捕りに飛びこむ。まさに「一生懸命」という言葉が似合う先輩たちだった。

迎えた地区総体は、先輩たちの力が発揮され、見事優勝。雨の中でも自分たちのスタイルを崩さずに戦う姿を見て、私は声かけや応援で少しでも盛り上げようと頑張った。

県大会では、さらにレベルの上がった戦いがあった。その中で先輩が一人故障してしまった。9人しかいない先輩たち。1年生ながら、私がライトで出場することになってしまった。自分が突然県大会の試合に出ると知ったときの不安は忘れられない。先輩の足を引っ張ってしまうのではないか。出られなくなった先輩の代わりになんてなれるだろうか。

そんな私に、先輩たちは励ましの言葉をかけ、仲間として迎え入れてくれた。私はそれに勇気づけられ、恥ずかしさや緊張を必死に押さえ込み、全力でプレーした。まだまだ先輩たちとソフトボールをしていたい。教えてもらいたいことがたくさんある。そんな思いで、1プレー、1プレーを大切にして戦った。でも、東北大会に進むことはできなかった。

そこで初めて先輩の涙を見た。全国大会出場を目標に、仲間と本気で夢を追いかけてこられた喜びと、どうしようもない悔しさ。でもやっぱり最後は笑っていて、一緒に泣いている私に「泣くなよ。お前はまだあるだろ。」となぐさめてもらってしまった。私以上に泣きたいのは先輩の方なのに。

これまで先輩たちはどんな日々を過ごしてきたのだろう。どんな練習を重ねてきたのだろう。そして、どうやって絆を育んできたのだろう。9人ギリギリしかいないチームでも、きっとケンカしたことも、関係がうまくいかないこともあっただろう。去年は後輩が一人も入部しなかった不安もあったと思う。私たちはたった3カ月しか一緒に過ごせていないが、先輩たちが今までどれだけ努力と苦労をしてきたのかが、先輩たちの言葉や姿から伝わってきた。

残された私たちはどうなってしまうのだろう。1年生6人だけしかいなくて、まともに練習できるのか。大会には出場できるのか。心配が大きくなる。しかし、私たちは先輩たちに目指すべき見本を見せてもらった。1年生だけになり、できないことだらけで覚えることは山ほどある。基礎練習だけでも、自分には筋力が足りていないなど、いろいろなことに気づいた。それを、みんなで力を合わせて一つ一つ高めていくだけだ。

今はまだキャプテンが決まっていない。学年代表という立場で、私がみんなをまとめている。前キャプテンのように、チームをまとめて率先して動くということはまだまだできていない。けれど「1年生だから」ということに甘えたくない。「2年生がいないからしょうがない」ではなく、私は自分の役目をしっかり果たしたい。私たちは来年、地区総体の優勝旗を返還するチームなのだ。それに見合ったチームになりたい。

2年後、私たちはどんなチームになっているだろう。いい選手になっているか? 仲間との絆は深まっているか? 初心を忘れていないか? しっかり目標を持っているか? そして何より、ソフトボールを楽しんでいるか?

今の自分にはまだ先が見えていないが、先輩から受け継いだ一中ソフトボール部の良さを絶やさず継承していくために、日々の練習で一丸となってメンタルと技術の向上に取り組みたい。2年後、胸を張って「頑張ってきたぞ」と言える自分になっていることが目標だ。努力あるのみだ。

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佳作

30年後の私へ

山形県東根市立神町中学校

2年 吉田 裕香

今、私は中学2年生。平成生まれの私は、令和という新しい元号に、どんな時代になるのかと期待していたはずです。ところが、1年も経たないうちに始まった新型コロナウイルスにより、全てが一変してしまいました。4月7日に緊急事態宣言が出され、学校が休校となり、長い在宅学習を経て、分散登校、時間短縮の授業、気付けば音楽の授業もなくなり、みんなで歌うことさえなくなってしまいました。給食の時間には全員が顔を合わせることなく、前を向き、黙々と食べ、「おいしいね」「今日の献立いいね」「おかわりできるかな」などという、何気ない会話さえも自分一人でのみ込まなければならないのでした。友達やクラスメートとの関わりもどこかよそよそしくなり、おはようと声をかけることすらもしてはいけないような雰囲気が教室中にただよっていました。卒業式に親や下級生の姿はなく、静まり返った体育館に響いたのは、足音と椅子のきしむ音。最後の最後まで校歌を歌うことはありませんでした。

家にこもる時間が長くなるにつれ、外に出たいという感情が大きくなり、ベランダに出てはこれでもかというぐらい深呼吸をしていました。久しぶりに外に出た時のことは、今でもはっきり覚えています。コンクリートの固さ、土の匂い、草を踏む感触、日差しの暖かさ。それらに懐かしさを感じ、当たり前のことが当たり前ではないということに気が付きました。買い物に出ると、棚からマスクやトイレットペーパーなど、普段当たり前に買える物さえなくなり、それを求める人々が列を作っていました。その中には、マスクを着けている人、マスクを着けていない年配の人がいて、マスクを買えなかったのかと悲しい気持ちになりました。

しかし、当たり前のことが当たり前ではないということは、13年間生きてきた中で何度も気付く場面があったはずです。多くの災害、特に2011年に起きた東日本大震災。当時、私は3歳になったばかりで、赤ちゃんの弟と普段と変わらずに公園で遊び、そろそろお昼寝をしようかという時でした。たくさんの人が悲しみ傷つき、一瞬にして多くのものが失われました。私はその時のことをはっきりと覚えていませんが、同級生から、小さなおにぎりを家族で割って食べたという話を聞きました。私と年の近い子は、トイレが流せず、そのことを注意されても黙ったまま。後に、その理由が津波を思い出すからと知った時は、言葉が出ませんでした。どんなに大きな悲しいことがあっても、自分の身にふりかからないと、気が付かないのだと思います。今はコロナで世界中の人々が同じ境遇に立たされ、同じ思いをしているので、気が付いているだけなのです。

そして、もう一つ忘れてはいけないのは命の大切さ。それは人間だけでなく、全ての生き物の命。小学4年生の頃の私は、宮城県の「和牛の祭典」で見た畜産家と牛とのやりとりに、心が温かくなりいやされました。賞をとった牛たちは、会場内を堂々と歩き、その中の一頭は畜産家の前で歩みを止め、頭を寄せ、甘える仕草をしていました。その姿がとてもかわいらしかったのですが、そのように大切に育てられた牛たちの命を私たちが頂いているということを知った時は、何ともいえない気持ちになりました。それ以来、食べ物を残しそうになるとき、あの時に見た牛の目を思い出しては自分に言い聞かせていたはずです。物を粗末にしないこと、もったいないという気持ちを持つこと。食べ物を頂く時は、作ってくれた人に感謝すること、生き物や植物の命に手を合わせる感謝の心、そして、生産者への感謝の気持ちを忘れてはいけないと。

また、小学3年生と中学1年生の時に見た知床の景色から、命を頂くだけでなく、その命をしっかりつながなければいけないということも私は学びました。数年で流氷に変化がみられ、知床に住む野生動物の姿が見られなくなったことから、地球温暖化が進んでいることを目で見て実感しているはずです。人間さえ良ければいいのではないということ、この景色を愛しいと感じ、将来もこの景色が失われることなく続くことを願っているはずです。

最後に、私がここに書いたことは、30年後の私に覚えておいてほしいことです。あなたの目の前に広がる景色は、あなたが望んでいた景色ですか。当たり前のことに感謝できていますか、全ての生き物の命を大切にできていますか。忘れていたのなら、思い出してください。

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佳作

未来の自分に伝えたいこと

福島県二本松市立安達中学校

3年 安齋 里音

未来の私へ。

過去の私は、バスケットボールが大好きでバスケ漬けの毎日を送ってたね。辛い練習に耐えてきたよね。練習試合では先生に褒められ、周りの人にも認められ、キャプテンとしての役割を頑張って果たしたよね。本当に充実したバスケ生活だったよ。でも、そう思えるまでに、いろいろなことがあったよね。例えば、ある日の練習の中でミスを繰り返し、先生に何度も怒られて怒鳴られて・・・・・・。自分に自信が持てなくなってしまったよね。エースにも関わらず、チームの役に立てない悔しさと、いつまでも下を向き、前へ進もうとすることを恐れている自分が情けなかったよ。「そんな自分が嫌い」――そう思う気持ちが大きくなるほど、あんなに好きだったバスケに対する強い思いが、だんだんと薄れていったっけ。

沈んだ気持ちのまま、いつも通り部活動の練習に向かう日々。そんな自信をなくした私に、ある日の練習の中で、先生が言った一言。

「今、自分ができることを精いっぱいやればいい。」

その時、私の心が少し動いた気がしたよね。確かにそうだ、と思った。私は周りの人に、褒められたい、必要とされたい、認められたいという願望だけでバスケをしていたかもしれない。認められるために頑張るのではなく、今の自分ができることを精いっぱいやり続ければ、いつかきっとその努力は報われる。

考え方を少し変えただけで、今までの自分を見直すきっかけがつかめたね。失敗は悪いことだと思っていたけれど、それは行動を起こしたからであり、行動を起こしていない人は失敗もしないということ。つまり、失敗したのは挑戦の証拠。その失敗を改善するために研究して頑張ろうと努力した時、人は大きく成長できるんだ。「努力」の意味は、目標の実現のために、心身を労して努め、骨を折ること。この意味だけを捉えると、辛くて、苦しくて、自分自身を壊しているだけだと、マイナスに考えてしまう人がいるかもしれない。けれども、日々の小さな努力がだんだんと大きくなり、高く積もった時、そこから素晴らしい景色が見えるはずなのだ。辛い時を乗り越えた分、今まで味わったことのない喜びや感動を味わうことができるはずなのだ。

そんなふうに、考え方を変えただけで、人ってこんなにポジティブになれるって知ったよね。「言葉」の持つ力ってすごいんだと知ったよね。

未来の私へ。

あなたには過去の私のように悩んだり、後悔してほしくない。未来の私に伝えたいことは五つある。

まず一つ目は、失敗しても挑戦した自分を褒めてあげること。自分の気持ちをコントロールするのは、他の誰でもない自分だから。自分の心が楽になるよう、挑戦することを恐れて逃げ出すことのないよう褒めてあげてほしい。

二つ目は、自分に自信を持つこと。つい言ってしまっていたよね。「私なんか……」って卑下する言葉。そこから前へ進めなかったよね。でも、辛い時を乗り越えて頑張ってきたからこそ今があるのだから。胸を張っていい。それに、自分に自信を持って生きている人の方が素敵だと思うよ。

三つ目は、完璧になろうとしなくていいということ。けれども、完璧になろうとする強い心と努力は忘れてはいけない。努力をしたから有名になれる、あの人に勝てるとは限らないよね。周りの人は、自分が思っている以上に頑張っているのだから。叶えたい夢や目標があるのなら、人一倍の努力は必要だよ。

四つ目は、今、自分ができることを精いっぱいやること。認められたいという願望だけで頑張っていたら、自分が壊れるよ。期待通りにいかなかった時に、深く悩んでしまう。周りの目や思いは気にせずに、認められたいなんて焦らずに、自分自身が今できることを最大限に続けることで、いつかは認められる日がくるよ。

最後は、感謝の気持ちを絶対に忘れないこと。自分のやりたいことや夢に向かって頑張れているのは、家族、親友、先生など、支えてくれている周りの方々のおかげだということを、忘れてはいけないよ。感謝の心を伝えるのは、なんだか照れくさくて、苦手だったから、私は行動で伝えていたね。でも、できれば未来の私には、言葉でも感謝の気持ちを表せるようになってほしい。

未来の私、よく聞いて。過去の自分ができていたことができないわけがない。「私ならできる」と信じて、自分らしく頑張れ。自分を変えることができるのは私だけだ。私は私を信じている。

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佳作

未来の私へ

福島県郡山市立大槻中学校

3年 遠藤 茜

私の将来の夢は、手話通訳士になることです。以前、耳の不自由な方に出会ったときに、その方が伝えようとしていたことが理解できなかったことがありました。その方はスマホなどを使って伝えてくれました。その方は私に道をたずねていました。その経験から、誰かのために何かをしたいと思い、手話を勉強し始めました。その後また耳の不自由な方に会いました。私は独学で手話の勉強をしていたので、伝わるのか不安もありましたが、今度こそは人の役に立ちたいと思い、一生懸命伝えました。すると、その方に伝わったので、とてもうれしかったです。そのとき私は、手話通訳士になることを夢にもちました。

手話にはメリットもデメリットもあり、いいことばかりではありません。まず、手話をすることのメリットは、耳の不自由な方と話せることと、声の届かない遠いところに離れていても、会話ができることです。一方デメリットは、一つの手話でいくつもの意味をもつものがあり、使い方しだいでは、伝えたいことが伝わらないことがあるということです。話したい内容を頭で整理し、前後の言葉を理解してもらえないと、意味のわからない文になってしまうことがあるので、このようなところは手話のデメリットだと思います。

先日私のクラスに、二日間だけですが、通常学級での授業や生活を体験するという目的で、聴覚支援学校から生徒が通級しました。私が手話を勉強していることを知っていた先生方の配慮により、私の席の後ろがその生徒の席になりました。私はその子と手話で会話したいと思い、一週間前から練習をがんばりました。ただ、もともとあまり記憶力がよくないことと、緊張とで、最初はあまり手話での会話ができませんでした。私は、その子に手話を教えてもらおうと思い、「手話を教えて」とお願いしてみました。そこでその子から手話を教えてもらいました。そのおかげで、できる手話が増えました。

ただ、手話通訳士になるためには、まだ道のりは遠いです。調べてみると、現在、公的資格の手話通訳士として登録されている人は全国でおよそ3,831人、合格率は11.0%ほどです。手話通訳は、聴覚障がい者の職場をはじめ、講演会、テレビの視聴、医療、裁判などさまざまな場面で必要とされており、特に生命や権利に関わる医療現場や裁判では、専門用語を理解して仕事を行う必要がある、と知りました。ただ会話を訳せればよいということではなく、通訳をするためにはまずさまざまな知識を身につけなければならないとわかりました。今私は、五十音はしっかりできるように、そして基本的な用語は完璧に覚えようとがんばっています。手話通訳士になるためにはまだまだなので、これからもたくさん勉強したりまた友達に教えてもらったりしたいです。

私は普段から手話をするのが好きなので、自分で覚えたら一人で復習しています。たまに間違えて覚えている手話があることもあります。独学で学んでいる以上、なかなか実践的な練習ができないことが悩みでもあります。

手話だと感情がわからないと思う方もいると思います。しかし、手話は人の目を見ていれば、その人が今どんな感情なのかがわかります。顔全体ではなく、目を見ることで、よりわかります。手話を勉強するようになってから、日常でも人の目を見て話を聞けるようになりました。

以前まで、私は自分のことしか考えていませんでした。しかし、将来の夢ができ、人のことを考えるようになりました。具体的な目標もできました。手話が学べる高校に通い、数年後には手話通訳士試験に合格する。そして、少しでも多くの人の役に立つ。私はすぐにあきらめてしまう癖があり、今まではめざしたことをすべてあきらめてしまっていました。けれど、手話だけは長続きしています。だから、このまま将来の夢を達成できるようにがんばりたいです。

誰かの役に立ちたい。自分の夢をあきらめず、ちゃんとやり遂げたい。これが、今の私が未来の私に望むことです。そのために、毎日の学校の勉強をがんばり、一歩ずつ夢に向かって前進していきたいです。

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佳作

変わっていく「今」だから

福島県立会津学鳳中学校

3年 菅野 美菜実 (※)菅野美菜実さんの「菅」は、草冠の間が離れた部首「十十」です。

今でも鮮明に覚えている母の言葉がある。「大人は、自分の親がどちらも亡くなって、本当に『大人』になるんだと思うんだよね。」これを言われたのは小学生の時だったはずだが、今でも衝撃的で、母がどんな気持ちでこの言葉を言ったのかは想像もつかない。

私の母の母、つまり私の母方の祖母は、私が生まれる前に亡くなっている。私の5歳上の兄がとても幼かった頃に亡くなったと聞いたため、その時母はまだ20代だったはずだ。母の苦労は計り知れない。十数年後母がもし死んでしまったら。明日のことでさえ不安な今の私に、5年後、10年後の「大人」になった自分の姿を考えるのはとても難しい。

毎年お盆になると、私たちは母の実家に帰省する。1時間弱車に乗り、着いた先は見渡す限りの緑や、どこまでも広がる青空がある田舎の中の田舎だ。いつもと違う風景に心躍る。祖父の家に入り、今度は少し蒸し暑くて、少し暗いお茶の間に上がる。私はそのたび「夏が来た」と実感していた。たくさんのいとこたちと、自分の家族でぎゅうぎゅうになりながら食卓を囲む時間が好きだ。そして、夜になると近所で開催される小規模のお祭りに行き、会場から少し離れた場所での静けささえ楽しかった。

しかし、今年の夏は違った。祖父の家に来たいとこは少なく、私の兄と姉に至っては地元に帰省することもできなかった。いとこたちはみな大きくなり、そして私の兄と姉はコロナウイルスの影響で帰ってこられなかった。かくいう私も少しだけしか滞在できなかった。部活や勉強があり、泊まることはできなかった。それぞれがそれぞれの都合で集まることができなかった。

祖父が小さな声で
「さみしくなるなあ。」
と言っていたのを聞いた。みんな大人になっていく。私も大人になっていく。私はそれが少し寂しくて、怖いのだ。その時、ふと母のあの言葉を思い出した。
「本当に『大人』になる。」

今年はお盆らしくない年だった。いつもだったら晴天のはずなのに、今年は土砂降りの雨だった。一番下のいとこが毎年楽しみにしている花火もその雨のせいでできなかった。お祭りもコロナウイルスまん延防止のため、開催されていない。なにより、前はたくさんの人で溢れていたお茶の間も、今年は人がいなかった。

「みんなが大人になったから。」と母は割り切っていた。歳を重ねることは寂しいことだと思う。どうしても、血縁との関わりが希薄になる。楽しかった時は思い出にして、前に進まなければいけない。無理難題にぶつかることも必ずあるだろうし、誰かに頼りきることはできない。

そして、母が言う「本当の大人」になる日も来るのだと曖昧に思った。大好きな祖父の家への帰省がなくなる年もきてしまう。もう既に楽しかったお盆は失われつつある。

私は未来に漠然とした不安を抱いている。進路はどうするのか、どんな職に就きたいのか、どんな大人になりたいのか。友達同士で自分たちの将来について話したこともある。みんなが明るい未来を想像する中、私はあまり明るい未来を考えることができなかった。きっと「大人」は今よりも自由なのだと思う。だが、私はどうしても母の言った「本当の大人」になる日が訪れるのが不安で仕方がなかった。私の未来は明るいだろうか。

最近ふと10歳の時に書いた「10年後の私へ」という手紙の存在を思い出し、どうしてもその手紙が読みたくなって、押し入れから手紙を引っ張り出して封を開けた。

身長・体重はどうなったのか、勉強をがんばっているか、仕事は何に就きたいのか。ありきたりの内容だったが、拙い字で書かれた自分の未来への期待が、今の私には重く、まぶしかった。そして、昔の楽しかった出来事の記憶も自然とよみがえってきた。

5年後の私へ。あなたは今どこで何をしていますか。15歳の私は、未来へ不安を抱いています。家族は元気ですか。あのとき自分たちの将来を語り合った友達と今も交流はありますか。

大きくなった私へ、最後に。楽しかった時には戻ることはできません。母の言っていた「本当の大人」になる日もいつか来てしまうかもしれません。そう思うと、なんだかこの儚い今が愛おしく感じられます。周囲の人を大切にしてください。そして、今この瞬間を全力で満喫してください。二度と戻らないからこそ「今」が楽しいのです。

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佳作

戦い続ける私へ

福島県郡山市立郡山第五中学校

3年 栗原 花怜

「あれ」はいつも突然私の前に現れる。そして、その前にどんなに嬉しい出来事や楽しい出来事があっても、それらの感情を押し退けて、私の心の中を物凄い勢いで黒く染めようとする。

私は自分の長所を知っている。それと同様に短所も知っている。長所と短所は紙一重だと思う。捉え方によって、優れていると感じることもできるが、劣っていると感じることもできる。私自身の例を挙げると「周りをよく見ること」だ。楽観的に考えると「周りをよく見て行動できる」と捉えることができる。しかし、悲観的に考えると「周りを気にしすぎている」とも捉えることができる。このことを痛感した出来事がある。

新学期、初めてクラスメートと顔を合わせた時、仲良くなりたいと思った人がいた。けれど私は人見知りな性格から、何日も話しかけることができなかった。「話しかけるチャンスが来るのを待とう」と何度も自分に言い聞かせた。新学期が始まって一週間が過ぎてあることが起きた。私が仲良くなりたいと思っていた人が、友達と私を見て話していたのだ。自分を見ているわけではないのかもしれないと思い、後ろを振り返った。周りには何人かいたが、彼女の視線の先には私以外、誰もいなかった。もう一度前を向くと、彼女と完全に目が合った。私は慌てて目を逸らした。今思い返せば、なんの変哲もない出来事だと思うが、当時の私にとってはショッキングな出来事だった。その後の授業は、上の空で聞いていた。そして帰宅後、「あれ」は初めて私の前に現れた。
「嫌われているのかもしれない。」
「悪口を言っていたのかもしれない。」
根拠のない考えを膨らませるうちに、「あれ」は大きくなって姿を消した。私は疲れて寝てしまったのだ。翌朝、私は普段通り登校して授業を受けた。時々「あれ」が見え隠れしてそのたびに私は前日の出来事を思い出す羽目になった。「あれ」が完全に消えたのは、現れた時と同様に、突然のことだった。仲良くなりたいと思っていた人が、私に話しかけてくれたのだ。私は嬉しかった。嫌われていなかったことを確認することができたような気がして、安心した。黒く染められていた私の心は、元の色に戻った。

私はこの出来事から、周りを気にしすぎていたせいで、自分の心を追い込んでいたことに気づいた。また、私の心の中を負の感情で満たし、私の心をさらに追い込ませようと思い込みを激しくさせる「あれ」の存在にも気づいた。

その後、小さな「あれ」は、たびたび私の前に現れた。最初は受け止めようとしても、空振りしてしまったり、かわそうとしても、当たってしまったりしていた。けれど、今は違う。回数を重ねるうちに、受け止めたり、かわしたりすることができるようになった。嫌な出来事や気にしてしまうような出来事が起きてもすぐに考え込まずに、冷静に対処する方法を覚えた。多少落ち込んでも、自分がどうしたら正の感情を取り戻すことができるかを知った。私は、好きな音楽を聞いたり、頭を使う数学の証明問題を解いたりすることで、「あれ」をうまくかわした。そして私の心は少しだけ強くなった。

これから高校、大学、就職と年を重ねるにつれて、今よりも人間関係が豊かになり、複雑になる。私の性格上、「あれ」は今後も幾度となく現れるだろう。今よりも大きくなって現れたり、千本ノックのように毎日降りかかってきたりするかもしれない。だが、私なら大丈夫。経験から、どうしたらよいか最善策を見つけて、両手を伸ばして「あれ」を体いっぱいで受け止めることができるからだ。だから、未来の私には常に周りを気にして行動するような人にはなってほしくない。他人の顔色を伺って自分の考えを曲げるような人にはなってほしくない。自我を貫いて、少し嫌な思いをしても「あれ」を思い切り跳ね返してほしい。そのためには、自分の感情をコントロールするための行動のバリエーションを増やすことが大切だと考えている。好きなことや集中して取り組めることを見つけて、究めることが良いと思う。また、人に話を聞いてもらうこともバリエーションの中に入れることができたら、私の心は今以上に強くなると思う。そして、時と場合に応じてバリエーションの中から、最適なものを選び、うまく対処する。そうすれば、自分に自信がつき周りを気にしすぎることも減っていくかもしれない。

私は大人になったときのために、多感な中学校生活の中で、目に見えない「あれ」と戦い続けている。大人になった私にとって、自信として支えてくれることを、願っている。

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佳作

未来の自分へ

福島県郡山市立郡山第五中学校

3年 佐山 慶太

私は旅行が好きだ。特に知らない国の文化や食べ物・建造物に興味がある。なぜなら、それぞれの国によって文化が異なりおもしろいと思うからだ。

私は幼稚園の頃、父の仕事の関係で中国の上海へ行った。当時住んでいた所は日本人マンションだったため、私が中国語に触れる機会はほとんどなかった。しかし、幼稚園で中国語を習ったときに興味をもち、少しの間英語も習った。それから私は日本語だけでなくいろいろな言語を学ぶことが好きになった。また、私は同じクラスの中国人の友達の家に遊びに行った。そこで母は、その友達のお母さんに中国の家庭料理を教えてもらっていて、とても勉強になって楽しかったと言っていた。母も他国の料理に興味があり、私も母と友達のお母さんが料理しているところを見て楽しかったことを覚えている。

次に私は小学校入学とともに日本に帰国した。それからも毎年夏休みに家族といろいろな国に旅行に行っていた。その中で私は特におもしろいと思った国が一つある。その国は、台湾だ。なぜなら、台湾の人々は家で料理をすることが少なく、一日中外で食事をする人がほとんどだからだ。日本人の多くは家で料理をすることが普通だろう。だが、台湾の人々にとって屋台は、生活に密着したものだそうだ。また、私は世界遺産にも興味がある。特にカンボジアのアンコールワットでは、建物全体の壁面に彫刻が彫られていた。私はそれらを見て魅了されるとともにとても感動した。

世界にはさまざまな国がある。平和で安全な国もあれば、紛争が続いている国もある。いろいろな宗教や信仰、文化の違いは国や地域によってさまざまだが、互いに違いを認め合い、広い心で理解し合うことができれば平和に近づくはずだ。そのためにはまず他国の文化や歴史を勉強すること、そのうえで言語に興味をもち、学び続けることが必要不可欠である。だから私も将来のためにたくさんの国の文化や歴史、言語を学び、世界の人々とコミュニケーションをとり、さらに深めていきたい。

私の将来の夢は、海外で働き、貧しい人々と助け合い、誰もが平等な社会をつくることだ。こう考えたのは、現在、世界のさまざまな国々に経済格差や貧困の問題があるからだ。これらの問題を解決するには、私達一人一人が世界の現状を知り、互いに助け合う必要がある。そのためには、真のコミュニケーション能力を高めていかなければならない。だから、私は多くの言語や文化を学び、さまざまな国や地域の人々と話すチャンスをつくることが大切だと思う。

最近、私は貧困に苦しむ人達を救う活動をテレビでよく見る。その国や地域の人々の生の生活の様子が分かり、自分にも何かできることがあるのではないかと思えるが、実際のことを考えると、なかなか思い浮かばない。せめてできることといえば、私の知っている国や地域のことをもっともっとたくさんの人に紹介したり、知ってもらったりすることだけだ。そして、このようなことで少しでも苦しんでいる人達のために協力ができ、一人でも多くの人が笑顔になれればと思う。私一人の力には限界があるが、世界中の人に少しずつ協力してもらうことで、誰かを支え、助けることのできる大きな力へとつながるはずなのだ。だから、私はもっと多くの人達に協力してもらえるよう、さらにいろいろなことを伝えていきたい。

未来の自分にこう伝える。「もっともっと勉強するので、誰かの役に立つ仕事をしてください。」と。これまで確かに学校や塾でなりたい自分になれるように頑張ってきたつもりだが、今私達に与えられた環境を考えてみると、改めてこう感じる。自分はとても質の高い教育を受けることができている。少しも不自由でない生活を送りながら。しかし、世界にはこのように質の高い教育を受けられず、子どもの頃から働いている人もいるのだ。そのような人達を救うのは、私達しかいないのでは、と。私達は、もっと国籍や文化などに関係なく協力し合い、互いに助け合うべきだ。私はそのために今できることに一生懸命に取り組み、さまざまな国の人達と話すのに必要なたくさんの言葉を学びたい。ずっと努力し続け、この先、さまざまな国々で働き、一人でも貧困に苦しむ人々を救おうとする人、仲間を増やすことができれば私の夢は叶ったといえるだろう。

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佳作

10年後の未来へ 私の体験と想い

福島県福島市立松陵中学校

3年 佐々木 花純

中学3年、受験生。つい先月も高校の体験入学に行ったばかり。3年生になってから、自分の将来について考える時間が多くなった。今の想いを、SDGsの目標を達成している年、10年後の自分に伝えたい。

なりたい職業や興味のある仕事もあるが、漠然とした、でも絶対に叶えたいことがある。それは、自分が生まれ育った福島県のことを発信すること。将来、リアルタイムの福島のことも、過去に自分が感じたことも、多くの人に伝えられたらと思う。これまでの生活の中で、そう感じたきっかけが大きく二つある。

2011年の東日本大震災。私は4歳だった。家の中が大きく揺れた時のことを、未だに忘れられない。棚の扉が開いて食器が割れていく音は、当時の私にとって恐怖でしかなかった。あれから10年が経とうとしていた今年の2月。部活動の最中に、顧問の先生の携帯電話が鳴った直後、体育館が揺れ始めた。すぐに部長が、しゃがんで静かに待つように指示を出した。全員が言われた通りに身を低くした。しかし私には、体育館で活動していた生徒の半分以上が危機感を持っていないように見えた。体育館が静まるまではかなり時間がかかった。幸い、外に避難するほどの地震ではなかった。

その時私はこう思った。私たち3年生と1、2年生の後輩たちは何かが決定的に違う。私はその日から、部活動中に起きた地震に対する反応を自分なりに考えてみた。その結果、10年前のあの地震と結びついた。3年生は地震イコール危険、身を守るべきという思考を持っているように見える。一方、多くの1、2年生はいつもと違うことが起きているという認識で、不安などのマイナスな気持ちよりも、はしゃぐような態度になる。この差は、本当に危険で命が危ないかもしれないような体験をしたか覚えているかによって生まれるのではないか。実際の体験ではなくても、身近な人などから話を聞いたことがあれば必然的に、同じことが起こるかもしれないと思うはず。避難訓練だけでは分からない怖さを知っているかどうか、それが大切だ。無論、地震は起きてほしくないが、いつ起こってもおかしくない、自分にも関係があることだとたくさんの人に知ってほしい。

もう一つは人から聞いた、忘れられない話だ。あるイベントで、福島のことを知ってもらうために東京でPRをしていたそうだ。福島県産の桃の試食・販売をしていて、ある一人のお客さんが来た。その人はおいしそうに桃を食べていた。そして、スタッフにどこの産地の桃か尋ねた。
「福島の桃です。」
それを聞いた瞬間、その人は目の前で桃を口から出したそうだ。この話を聞いた時、私はショックを受けた。数字でも安全なことが分かっているのに、風評被害とはこのことかと。仮に福島の桃を食べた人ほとんどがおいしいと言っても、一人でも悪いイメージを持っていたら、風評被害の払拭はできたといえないだろう。目の前で桃を吐き出された人の気持ちや、生産者の方の想いを想像すると悲しくなる。

この二つの出来事は私にとってとても大きく、これからも考えていくべき課題だと思う。将来、福島の正しい今を知り、それを発信していける人になりたい。また、福島に限らず世界まで目を向けて、たくさんの人と関わり困っている人を助けられるようになりたい。

そのために私が今取り組んでいるのは、SDGs(持続可能な未来を築くための世界共通の目標)を知ることだ。私はこの目標がとても好きだ。特に「誰一人取り残さない」という言葉からは、自分が地球に住むすべての人とつながっていると感じられる。私が前に挙げた二つの事は、17個目の目標「パートナーシップで目標を達成しよう」に当てはまるのではないか。今から10年後、私が25歳になる時にはSDGsが達成されていなければならない。そのときまでには、福島の復興も進み風評被害もゼロになっていなければならないと思う。地球の目標も、福島に関わる私の目標も叶えるために、SDGsを知り、取り組んでいくことが大切だ。環境を守るためにエコバッグを使ったり、食品ロスをなくすために商品を手前から取ったり。自分の世界や視野を広げ、将来役立つときがくるように、手話の学習も始めた。自分にできることを見つけ、少しずつ取り組めるように努力している。福島や地震に関することも同じだ。自分が体験したことや想いを、自分の言葉で一人でも多くの人に伝えたい。将来はSNSなどで、自分よりも若い人を中心に、福島のことを知ってもらえるような企画を考えたい。世界も、福島も、自分も、それぞれの目標を達成するために、私は今、こう想っている。

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佳作

「10年後の私へ」

福島県南会津町立南会津中学校

3年 芳賀 愛梨花

あなたは今、元気にしていますか。どこで何をしていますか。全世界に広がったコロナウイルスは無事に終息し、マスク生活は終わりましたか。なりたい職業につけましたか。未来は、全世界の人々が幸せに暮らせていますか。

令和3年8月。今私は、中学校最後の夏休みを過ごしています。今日もとても暑いのですが、私の住んでいる南会津町は自然が豊かなので、部屋の窓を開けると、緑と青空が一面に広がり、心地よい風がスーッと吹き抜けていきます。虫たちの鳴き声が、さらに夏を感じさせてくれています。自分はというと、受験勉強に追われる忙しい日々を送っています。そんな中、ふと考えることは、
「本当に高校生になれるのかという、不安や心配な気持ち。7カ月後には中学校を卒業するというさびしい気持ち。その反面、少し大人に近づけるという楽しみな気持ち。」
何だか不思議な感情も味わっています。でも、今の自分はとても充実していて心から笑えていますよ。

しかし、残念なことにこの世の中はあるウイルスに困っています。それがコロナです。今日の感染者も全国で2万人を超えました。死者もでる恐ろしい病気です。毎日のように何度も何度もその言葉を耳にしています。2年前まではありえなかったマスク生活が今では当たり前になってしまいました。そんな中でも、1年延期された東京オリンピックが、この夏無観客で開催されたのです。コロナで多くの人々が苦しんでいる中、アスリートたちは私たちに感動と喜び、そして勇気を与えてくれました。コロナ関連の暗いニュースばかりだったのが、オリンピックの話題が多くなり、明るいニュースが聞こえてくるようになりました。

さまざまな競技でたくさんの選手が活躍している中、忘れられない試合を観ることができました。それは、卓球の混合ダブルスでの試合です。メダルをかけて、必死に最後まであきらめず頑張る水谷選手・伊藤選手の戦う姿に、私は心を打たれたのです。そんな素晴らしい選手たちのおかげで、私も何かに対してがむしゃらに頑張ってみたいと、強く感じたのです。そして、オリンピック選手たちは世の中の人々に元気や勇気を与え、みんなのために頑張ってくれていたのだということに気づかされたのです。私はハッとしました。初めて、人の役に立つということはこういうことなんだと知った瞬間でした。この感動は、私の心の中にズシンと響き渡りました。そこで私も、将来は人の役に立てるような人間になりたいと考えるようになりました。未来の自分は、そのことが実行できている大人になれていますか。たとえまだできていなくても、その思いをいつも忘れずに生きていれば、願いは絶対に叶うはずです。もし挫折しそうになっているのだとすれば逃げないでください。あの東京オリンピックを見た時のこと、選手たちの戦いぬいたあの姿を思い出してください。

もう一つ、未来の自分に期待したいことがあります。心の成長です。私は消極的な面があり、自分から進んで前に出ることをためらってしまうのです。未来の自分ではこの短所が直っていてほしいです。積極的になるには、自分からなにか行動を起こさなければ変われないと思います。私は中学生になって、少しでも今までの自分を変えたいと思い、特設駅伝部、合唱部、クロカン部に所属しました。1年生の時には英語弁論大会にも挑戦しました。今振り返ると、とても貴重な経験だったと思います。しかし、それでもやはりあまり変わることはできませんでした。大人になるにつれて、少しずつでも積極的な性格になっているといいなと思います。そして、未来の自分は養護教諭として働いていたいです。休み時間になると、保健室に笑顔いっぱいの子どもたちがたくさん集まるような、信頼され、人の役に立てる先生になっていたいです。

さて、10年後の自分はどうなっているのでしょうか。がむしゃらに生きていますか。誰かのために役に立つことができていますか。自分から進んで行動することができる人になりましたか。人生は長いです。まだまだ失敗することはたくさんあると思いますが、10年前の自分が考えていたことを思い出しながら一歩一歩前進していってください。そして、世界が平和でありますよう願っています。

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佳作

出会いで人は変わる

福島県白河市立白河第二中学校

2年 本田 侑樹

誰も私を見ないで。

放っておいて。

勝手に私の価値を決めないで。

周りからの視線が怖かった。自分がどう見られているか、常に気になって、誰かの後ろを歩いていた。授業中も手を挙げれば指され、立った瞬間、クラス中からの視線がつき刺さる。私にとっては恐怖でしかない。だから、絶対に手は挙げない。それなのに先生は私を指名する。皆が答える中、私だけが分からないと思われないようにという配慮だろう。しかし、それがどれだけ私を苦しめているかなど先生には分かりもしないだろう。ただ恥ずかしいだけだと思っているかもしれない。

私が人の視線を怖いと感じ始めたのはいつだったかは定かではないが、物心つく頃には、視線が私に向けられると、とたんに体が緊張して固まってしまう。私は幼少期、あまり他人との関わりを持ってこなかった。4歳上の兄が、ネフローゼ症候群という難病にかかり、常に入退院を繰り返していたので、家族は交代で、兄に付き添っていた。私は隣に住む親族に預けられ、常に一人で遊んでいた。本当は、母と一緒にいたかったし、兄とも公園に行ったり、おもちゃで遊んだりしたかった。でも、それは叶わず、母の帰りを一人寂しく待っていた。

いつしか、自分の本音が言えなくなったのは、この頃からだったと思う。兄に対しては母を取られたという感情が少しはあったのかもしれない。しかし、病で苦しんでいる兄の姿を目の前にすると、そんなことを考えてはいけないと、自分の感情に蓋をしてやり過ごしていた。そうしているうちに、負の感情は外に出してはいけないという、自分の中のルールができ上がっていき、他の人に対し、本音を伝えることが難しくなっていた。しかし、そんな私に転機が訪れる。部活動で、3年生が引退をする時に、次期部長を推薦するのだが何と私が選ばれたのである。感情を表に出すことが苦手だが、まじめに努力をしてきたという自覚はあった。しかし、リーダーシップを取るという部分は欠けていたと思う。人を注意すると相手に嫌われてしまうのではないかと不安になり、強く伝えることができないのだ。しかし、先輩たちは、私になら任せられる。大丈夫だと言ってくれた。良い部分もそうでない部分も、全て見てきた先輩たちが認めてくれたのだから、部のためにも一生懸命やっていこう。そう決心した。

それからの日々は、やはり苦しい時も多かった。感情を隠すように生きてきた私が、先頭に立って指示をしたり、先生に代わって指導もする。部をまとめるために厳しいことも伝えなければならなかった。そんな時に、助けてくれたのは、同じ学年の仲間たちだった。相談をしたり、一緒に悩んで答えを導いてくれた。少しずつだが、本音を言えるようになってきた。お互いに悩んでいることや、考えている作戦、そしてどんなペアで戦っていくか。話していると時間があっという間だった。こんなふうに、人と真剣に話し合うなんて、今までなかったと思う。自分の意見をぶつけることが怖くない。むしろ、どんどん伝えていきたい。そう思えるのは、仲間との間に、絆が生まれたからだろう。自分から他人を受け入れることより、他人から受け入れられた方が、安心して、素の自分を出せると聞いたことがあったが、今の自分たちは、部活を通して一つとなり、お互いが必要な存在になっている。確かめ合う必要などないほどの繋がりだ。私は仲間たちによって、人から見られることが苦手だった自分、負の感情を隠す自分に、少しずつ別れを告げている。自分は、人に対して感情を出せないと思い込んできた。幼少期の思いが元となり、今に至るわけだが、人との出会いによって、自分の中の固定観念が崩れ、前に進むための一歩を踏み出している。

これからの人生の中で、たくさんの新たな出会いが待っているだろう。恐怖がないと言えば、嘘になるが、今出会えた仲間との繋がりは一生の宝物だ。自分の人生が、どこで、どんなふうに変わるのか、全く予想がつかなかったが、大きな変化をとげたことで、自分に自信がつき、どんな場面でも、堂々と行動できる気がしている。たった一人では、抜け出すことはできなかっただろう。他人からしたら、小さな変化かもしれない。でも私にとっては、とても大きな一歩だ。今後、何度も大きな波を越えていくことになると思うが、これだけは忘れないでいたい。変わるきっかけをくれた仲間たちには、本当に感謝している。私の人生の要所要所で、思い出しては、初心に戻り、自分を出せなかった頃に戻ることのないよう、そして自分も、そんな人の助けになれるような人生を歩んでいこう。未来の私、今から楽しみに待っていてほしい。成長した姿を見せるから。

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佳作

差別のない世界に向けて

新潟県上越市立城西中学校

3年 秋本 真歩

私は海外で生活した経験があります。父親の仕事の関係で、アメリカへ行くことになったのです。振り返ると、とても幸せな経験をさせてもらったと思います。ただ、小学2年生だった当時の私には、そのありがたみは全く感じられませんでした。それもそのはず。私はいじめられていたのですから。

日本よりも大きい車、カラフルなお菓子、さまざまな人種が行き交う街。アメリカに行った当初は、目に入る全てのものが新鮮に感じられました。

2週間が経つ頃、私はアメリカの現地校に通うことになりました。母と一緒に学校へ行くと、メキシコ人の先生が、広い校舎を案内してくれました。壁にかわいらしい絵が描いてあったり、窓があまりなかったりと、日本との違いがありましたが、やはり、大きく違ったのは言語でした。私は英語を習っていたわけではないので、学校のことを説明する先生の話は、理解できませんでした。そして、クラスメートから日本について質問された時も、どう応えたらよいか分からず、付き添いで来てくれた日本人の男子に頼ってばかりでした。

学校に少しずつ慣れ始めてきた頃、背後から笑い声が聞こえるようになりました。からかうような笑い声で、日が経つにつれ、頻繁に聞こえてくるようになりました。何がそんなに面白いのか、全く分からなかった私は、戸惑うばかりでした。そして、とうとうその光景を目にしたのです。クラスの男子が集まって、私に向かって指を差して笑っているのを。目尻を横に引っ張って目を細くして「チャイニーズ」と言っているのを。私は泣きたくなりました。なぜ、こんなことを言われなくてはいけないのか。私は父の仕事の都合でアメリカに来ただけなのに。生まれも育ちも日本なのに。

次第に、学校に行くのが嫌になっていきました。しかし、弱いと思われるのが嫌だった私は、学校を休まず、平静を装って過ごしました。友達を作ろうとしましたが、英語が話せなかった私には会話を続ける能力がなく、一人で過ごしていることが多かったように思います。そんな友達のいない私が一番困った時間は、給食の時間でした。アメリカは、カフェテリアという場所で、全校生徒が集まって給食を食べます。目の前で、楽しそうにおしゃべりをしながら食べる男子から、時折聞こえる「チャイニーズ」という言葉。何度聞いても慣れませんでした。次第に「私なんかいない方がいいんだ。」と思うようになっていきました。

差別やいじめは怖いものです。人を傷つけ、死に追いやってしまうことがあるからです。そして、これは世界中の問題です。世界でたくさんの人が苦しんでいるのです。人々が協力し、この問題の解消に向かっていかなければいけないのです。

では、どうしたら、差別をなくすことができるのでしょうか。私は、一人一人が自分を愛するように、相手の人格を大切にし、幼少期から命の尊さを学ぶことが大切だと思います。そして、対話をすることが大事だと思います。そうすれば、相手の人柄やよさに気付くことができるからです。今年、東京で開催されたオリンピックの開会式で、多様性と調和を表すパフォーマンスが見られました。互いの個性を尊重し、誰一人として差別されることがない世界を、私たちがつくり上げ、発信していかなくてはと、改めて思いました。

私には夢があります。それは、音楽で人を笑顔にすることです。言語は各国で違いますが、人を感動させる音楽は、世界共通語といってよいと思います。私の大好きな音楽で人と人とをつなぎ、世界中の人を笑顔にしたい、差別をなくしていきたいです。

未来の私へ

これからも数え切れないほどの壁にぶつかることがあると思う。もう何もかも嫌になって、投げ出してしまいたい時もあるかもしれない。そんな時は立ち止まって、今まで歩んできた道を振り返ってみて。アメリカでの生活、差別を受けた経験。それらは、自分をつくり上げているアイデンティティーの一つ。決して、恥じることではないのだから。自信を持って前へ進んでいこうよ。そして、相手を思いやり、対話をすることを忘れないで。皆と力を合わせ、差別のない世界にしていこうよ。

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佳作

「よく頑張っているよ。」

新潟県上越市立三和中学校

3年 内山 春樹

「よく頑張っているよ。」と、私は未来の自分に伝えたい。私は中学3年生、今年度いっぱいで中学校生活に終止符を打つ。今日まで生きてきた15年間を振り返ると、多くの「頑張ったこと」がある。それらが今、私自身の支えとなっている。

自分で言うのも何だが、私は集中力と英語力にはちょっと自信がある。それらが身に付いたのは、過去の自分の頑張りによるものだと思っている。

まず思い当たるのは、小学校1年生から5年生まで習ったピアノと、4年生から6年生まで通った英語塾での経験だ。ピアノでは、楽譜、鍵盤、指の動かし方、演奏のテンポ、姿勢など、常に多くのことに注意を払わなければならない。一つのことだけに集中してしまうと、他のことがおろそかになってしまう。何度も先生から注意された。しかし、私は負けず嫌いで「先生から褒めてもらえなきゃ嫌だ。」と、家で必死になって練習をした。テンポが合わなかったり、ミスを繰り返したりして、悔しくて泣いてしまうこともあった。それでも私は諦めず、上手になるため一心不乱に練習に打ち込んだ。上手に弾けたときは、楽しさと高揚感に包まれる。論語に「これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」という章句があるが、私はまさにピアノを楽しんでいた。

また、英語塾でも、私は楽しんでいた。塾では様々な学年の人が集まって学習していた。静かな部屋の中でやらなければならなかったことは、「全問正解」であった。提出した課題、塾で出された課題、その両方が正解にならなければ家に帰れない。まるで、某テレビ番組のような厳しさだ。しかし、正解すれば先に進めるという喜びと快感があったので、楽しみながら学び続けることができた。だから私は、目の前の獲物を確実に仕留める虎のような集中力を手に入れることができたのだ。私にとって「頑張り」は武器だったといえるかもしれない。しかし、その「頑張り」は、武器であると同時に、私を苦しめることにもなった。

最近まで、私は「拒食症」であった。「しっかり食べて体力をつけて頑張らなくちゃ。」と焦れば焦るほど、体からどんどん力が抜けていった。頑張れなくなった私は、本当の私ではないのではないか。そんな思いにとらわれることもあった。思えば、私は学力、性格、容姿など、全てにおいて「完璧でありたい。」という思いに支配されていたのかもしれない。その思いから抜け出せず、本来の「頑張り」の道を踏み外してしまったのだ。そして、そんな私の思いに対して、体が悲鳴を上げたのだろう。

振り返ってみると、私は「頑張る」ことはできても、自分を「褒める」ことができなかったのだ。「もっと、もっと」と自分を駆り立てる中で、いつしか身も心もボロボロになっていた。幸い、私は病院の先生、家族、友人など周囲の人たちに見守られながら、徐々に回復し、本来の自分に戻ることができた。自棄になったり、ひどく落ち込んだりしていた私を温かく包んでくれた人たちには、感謝してもし切れない。

この経験は、自分にとって「本当の頑張り」とは何かということを考える契機となった。理想の姿になろうとして、過度の頑張りを続けることは、自分を見失わせるだけではなく、自ら理想の姿から遠ざかることになってしまうのだ。

私は、これまで多くのことを経験し、失敗もした。その失敗は手痛いものであったが、私にとって大変貴重な武器にもなった。努力の結果、身に付けた集中力や英語力のようなものに加え、「本当の頑張り」というものを理解することができたのだから。これまでの人生で体得した武器を、将来の夢、やりたいことに活かしていきたい。

中学3年生である今の私が努力すべきこと、それは言うまでもなく受験である。人生100年時代といわれる現在、私の人生はまだ始まったばかりだ。しかし、子供である時間、学生でいられる時間はそう長くはない。勉強に情熱を注げるのは今しかない。ある人が「学生時代にする努力と、大人になってからする努力には、18倍もの差がある。」と言っているのを聞いた。その言葉を胸に、これからも頑張っていきたい。過去の私が現在の私を支えているように、現在の私が未来の私を支えていくのだから。

しかし、常に前だけを見て生きていくことは難しいだろう。時には過去を振り返って、過去の自分に問いかけることもあるかもしれない。「今の私って、どうかな?」と。だから、私は未来の私に向かってこう言っておくことにする。「大丈夫。あなたはよく頑張っているよ。」って。

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佳作

「自分の好き」を大切に

新潟県立燕中等教育学校

3年 川上 世奈

子曰く、「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」
この言葉は、教科書で出会った『論語』の言葉です。私の今の気持ちにしっくりと当てはまる言葉でした。皆さんには、とことんのめり込める趣味はありますか。どんな思いをもってその趣味と向き合っていますか。私は、何よりも「楽しむ」ことが大切だと感じています。

私の趣味は絵を描くことです。自分にしか感じることのできないものがある。自分にしか描けないものがある。そんな世界に魅力を感じたのは、私が3歳の時でした。自分の想像が形になる感動や、一枚の絵を描き終えた後の達成感。私に絵を描かせたのはそんな「楽しさ」でした。しかし、それよりも私にペンを執らせる力となっていたのは、「上手だね!」「かわいいね!」という周りの人たちからの評価でした。友達や先生に褒めてもらうことが何よりも嬉しく、もっともっと喜んでほしくて、友達や先生からのリクエストに応えていました。褒めてくれる人たちが好きなものばかりを描いていたのです。

小学校に上がってもそれは変わらず、褒めてもらいたいという一心で絵を描き続けました。運動も勉強も苦手な私が、唯一一番になれることが嬉しく、もっとうまくなりたいという気持ちも高まっていきました。正直なところ、自分は学年で一番上手に決まっていると思っていたし、そうでなくてはならないという思いさえ強くありました。

しかし、そんな思いは中学校に入ると一変しました。私より絵がうまい子に出会いました。ネットでは同い年なのに、高校生かと思うくらいにうまい子にも出会いました。小学生の時まで、自分は一番だと思っていたことが、本当のところは、自分は全然大した力はなかったのだと知り、愕然としました。私もその子たちに負けてはいられないと、必死の思いで絵を仕上げ、自分が描いたものをSNSに投稿するようになりました。
「たまたま同い年で、たまたますごく絵がうまい子を見つけただけ。私だって下手じゃないはずだ。」
自分自身にこう言い聞かせながら、ペンを走らせました。しかし、どんなに練習しても、どんなに頑張ってみても、相手よりうまく描くことはできないという現実を突きつけられました。やがて、SNSへの投稿もしなくなっていました。

「私が絵を描くことに、意味があるのだろうか。長い時間をかけてまで、しかも今の時代、わざわざ手で描く必要があるのだろうか。何のためにこんなことをしているのだろうか・・・。」
失望感に心をふさぎながらも、ふと気がつくと絵のことばかり考えていました。書店に入れば、自然と画材コーナーに足を運んでしまっていました。結局、絵から離れられなかったのです。

「絵が描きたい・・・。」ある日、急に気持ちがわき上がってきました。余計なことは考えず、ただ自分の描きたいものを、描きたいように描いたのです。いざ描き始めると集中してしまい、気がつけば6時間がたっていました。できあがった絵は、これまで自分が描いてきた絵の中で一番綺麗! というわけではありませんでしたが、私にはとても魅力的に見えました。初めて「人のため」ではなく「自分のため」に、楽しんで描けた気がしたからです。きっとその絵には、自分の「好き」がいっぱい詰まっていたのだと思います。

私の好きなマンガの中にこんな言葉があります。
「作った本人が、好きで楽しんで情熱を込めて作ったものは、それを見た人も楽しくなるものです。逆にどんなに技術があっても、情熱のないものは人の心に響きません。」

私は今も絵を描き続けています。人に認めてもらおうとするよりも、自分が自分の中で最高だと思えるものを描くということを大切にしています。自分が心の底から楽しんで描いた作品は、胸を張って人に誇れると思うからです。

「自分らしさ」に思い悩む人は多いはず。「自分らしさ」は、その人にしかない個性です。自分の「好き」が、その人の個性そのものであり「自分らしさ」だと思います。理解されないこともあるかもしれないけれど、それが「自分らしさ」であると、自分自身がまず理解をして自信をもつことが大切だと思います。私はこれからも、「人の好き」よりも「自分の好き」を大切にしていける人でありたい。大切なのは技術ではなく、自分の「好き」をどれだけ堂々と誇りをもって表現していけるかです。私の愛する人生を生きるために、未来の自分に認めてもらえるような努力を精いっぱい楽しんでいきたいです。

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佳作

追いつけない心と共に

新潟県十日町市立下条中学校

3年 小宮山 理子

「バイバイ」と友達とあいさつを交わし、帰宅する。背伸びして玄関の鍵を開ける小学1年生の私。「じゃあねー」と友達に手を振り、帰宅する。少しかがんで玄関の鍵を開ける中学3年生の私。

人は年齢とともに心も体も成長します。しかし、私には、年齢、体の成長に心が追いついていけないときがあります。それは、自分が人よりも上の立場になったときです。

小学校では6年生、中学校では3年生が最高学年になります。そんなときに言われるのが、「下学年のお手本になるんだから、しっかりしなさい」「最高学年として立派な姿を見せなさい」などの言葉です。このような言葉は私にとってプレッシャーになり、私は最高学年になりたくありませんでした。一つ一つの行動がお手本になるので、常に見られていることを意識し、つい良い先輩ぶって疲れてしまいました。

部活動もそうです。私は陸上競技部で長距離をしていますが、個人競技なので、下学年と比べられてしまいます。「1、2年生に負けるな」「先輩がひっぱってやれ」などの言葉をよく耳にします。スポーツなのだから、比べられてしまうのは仕方ないとは思ってはいるものの、速さ・強さに学年なんて関係ない、先輩なんてなりたくない。学年が上がらなければいいのにと何度も思いました。

3年生になり、自分の進路に向き合うときがきました。私は今まで進路についてあまり具体的に考えたことがありませんでした。しかし、3年生になると同時に、先生、友達など、周りの人から進路について聞かれるようになりました。

「早めに進路を決めなさい」「もう高校は決まったの」「ちゃんと進路について考えていますか」と。あまり考えもしなかったことをいきなり聞かれて、私は正直困りました。将来のことなどよく分からないし、めんどうくさいなとも思いました。

年齢が上がっていき、いつの間にか受験生。焦りや不安でずっとこのままでいたいという幼稚な自分もいます。この先、就職活動をするときも悩み、この幼稚な心と闘うのかなとも思っていました。そんな私に、ある日5歳上の兄が言いました。

「就職先を決めるときは人に言われてではなく、自分でしっかり考え、決断しなくてはいけない。自分は高校3年生のとき、周りの人から何の仕事に就くのかとたくさん聞かれて、焦ってしまった。だから、焦って決めた就職先は長く続かなかった。そして、自分は何をしたいのか、何をするべきなのかを自分自身でじっくり考えた結果、今の仕事を頑張れている。」
そう話してくれました。私は兄の話を聞いて、進路を決めるとき、職業に就くとき、自分がしたいこと、するべきことを焦らず、しっかり考えようと思いました。進学先や職業だけに目を向けるのではなく、大事なことは、まず自分の心としっかり向き合い、決断するべきだと感じました。

年齢や体に心が追いつけないなと感じることは、人それぞれ違うと思います。この年齢だからこれができる、できない。年齢が上の人は、常に前にいなくてはならない。もしかしたら世の中がそう決めつけているのかもしれません。社会の仕組みの中では年齢によって決めるべきものも、もちろんあります。それでも心の成長は人それぞれ違うはずです。それに気づかず、心ない言葉をかけてしまうことも事実です。

みんな心の成長のスピードが違うし、年齢に追いついていけない心も誰にでもあることでしょう。そして、その心は、他の人は気づきにくいものです。年齢にとらわれず、一人一人が自分らしく、自分のペースで少しずつ成長していく世の中になればいいなと思います。

私も、自分のペース、自分らしさを大切にしていきたいと思います。しかし、自分にあまり自信のない私は、他の人と比べてしまいます。あなたは友達の良いところを見つける名人だと言われることがありますが、私は自分の良いところを見つけるのは苦手です。だから、余計に他の人と比べてしまうのかもしれません。小さいころから親に言われていた言葉があります。

「よそはよそ、うちはうち。」
改めて考えてみれば、魔法の言葉です。そう、きっぱりと他の人を気にせず、自分のペース、自分らしさに目を向ければ、きっと自分の進むべき未来が待っているはずです。そして、自分のペース、自分らしさを大切にする世の中にするために、一番変わらなければならないのは、まずはこの私自身なのです。

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佳作

とびら

新潟県立村上中等教育学校

3年 橋 由梨佳

「どうして私はこんなにダメなんだろう。」誰もいない真っ暗な部屋に閉じ込められたような気分でした。毎日がつらくて、孤独な気持ちでいっぱいでした。

私は小さい頃から部屋を片づけることが苦手で、毎日部屋は汚いです。忘れ物もひどくて、提出物の期限を忘れることがたくさんあります。「そんなこと、できて当たり前じゃないか。」と、毎日のように両親に叱られてきました。しかし、私にはその当たり前をすることが難しく、直すのは困難なことでした。

だからといって、何もしなかったわけではありません。自分なりに頑張って部屋を片付けてみたり、カレンダーにメモをして、忘れ物をなくそうとしてみたりしました。でも、どれもうまくいかず、すぐに元の自分に戻ってしまいました。そんな自分が本当に大嫌いでした。当たり前なことができない。「きっと、こんなことを相談しても、誰にも理解してはもらえないのだろうな。」そう思い、誰にも相談できないまま日々をやり過ごしていました。そして、どんどん私自身を嫌いになっていきました。こんな自分では誰も私と話してくれなくなる、家族も、私にあきれて家族の一員として見てくれなくなるかもしれない。そう考えると苦しくて、孤独な気持ちになりました。私には家族も、友達もいるのに、なぜか孤独に感じました。次第に、学校に行きたくなくなり、人と関わることさえ苦痛に感じました。親に相談しようとも思いましたが、怒られるような気がして、怖くてできませんでした。いっそ、この世界から消えてしまおうか。そう考えたことも少なくありません。毎日が苦痛でした。そして、この孤独が何から生まれているのか知りたい気持ちでいっぱいでした。

そんな私を救ってくれたのは、母でした。すっかり元気のなくなった私を抱きしめて、母はこう言ってくれました。
「これだけは忘れないで。私は世界で一番、あなたを愛している。だから、一人で悩まないで、いつでも私に相談してね。」
涙が止まりませんでした。母の「愛してる」という言葉で、私はあの孤独感がどこからきているのか、気づくことができました。私を孤独にしていたのは、私自身だったのです。自分はダメだ、自分は何もできない、自分に価値なんてない。自分を他の誰よりも嫌って、苦しめて、孤独にしていたのは自分でした。そのことに気づいた時、私を閉じ込めていた部屋のとびらが、開いたような気がしました。その先には、家族が、友達が、大人がいる。私は決して、孤独ではありませんでした。

もし、未来の自分が今の私のように、自分について悩み、苦しんでいるならば、私は伝えたい。私は孤独ではないことを、とびらを開ければ、自分を支えてくれる人がいることを。自分のことを責めて苦しむ前に、他の人に助けを求めてみてください。きっと、自分の力になってくれる人がいるはずです。私や、他の誰もがこの世界から消えてはいけない存在だということを忘れないでください。

私には、小説家になるという夢があります。私が書いた本、私が描いた物語で、読者を元気づけてあげられるような、そんな小説家になりたいです。私の本が、生きづらさを感じる全ての人の心のとびらを開けるきっかけになればと思います。未来の私へ、私の夢はかなっていますか。未来の私は、私のことを好きでいられていますか。私の周りに、孤独で苦しむ人はいませんか。未来の私は、孤独を乗り越え、そして孤独から人々を救えるような人になっていることを願っています。

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佳作

本当の会話とは

新潟県糸魚川市立糸魚川中学校

2年 谷内 南帆

新型コロナウイルスがはやりだした当時、私はすぐに収まるだろうと単純にそう思っていました。しかし、驚異的な速さで世界中に広まり、世の中は一変していきました。恐ろしいウイルスの蔓延防止のため、2020年2月の終わりごろに政府から出された臨時休校要請。小学校生活最後の1カ月が休校になりました。楽しみにしていた卒業式は縮小され、友達と気軽に遊ぶこともできなくなり、感染予防のためにマスクを強いられるなど、日常生活での不自由が増えていきました。

休校は小学校卒業間近の2020年3月、中学校に入学してすぐの5月と2回。全国的に見れば、回数も期間も少ない方かもしれません。最初は、
「休校? ずっと休めるじゃん、最高!」
と思っていました。確かに休校による気楽さはありました。友達にも会えないのですが、通話アプリやゲームのチャットなどでは話せるのでオンライン上での会話で十分だと初めは思っていました。しかし、だんだんと実際に会って話す時よりも何か物足りなさを感じるようになっていきました。例えば、学校生活の中では、友達との間でたわいのない会話が自然に発生して盛り上がったり内容が深まったりします。ですが、通話アプリやゲームのチャットでは相手がその場にいないことで、自分の本心が伝わりにくく思わぬ誤解を生んでしまったり、相手の本心も分かりにくかったりする面もあるので、会って話したいと思うことがよくありました。

それに、オンラインの会話だと、実際に会った時より、相手がその場にいないため感情や思いが込めにくい・伝わりにくいと感じます。加えて、「この花きれいだね」といった同じ空間にいることで共有できるような話題の広がりが、対面した時よりも少ないとも思います。これらのような物足りなさを感じることから、人と対面して会話することの価値や効果の大きさに気付くことが休校中何度かありました。

今年の4月に兄が大学へ進学するため宮城県仙台市へ住むことになり、引っ越しをしました。道中、山形県の母の実家へ挨拶をしてから宮城に向かいましたが、滞在時間はたったの30分。久しぶりに会う祖父母ともお互いにマスクを着用したままの対面となりました。コロナを考えての対策だということは分かっていましたが、マスクなどせず、気兼ねなくできていた会話ができないことが悲しく思えました。しかし、孫の成長ぶりや、祖父母の喜ぶ様子を互いに実感できました。祖父母に直接会いに行けたことは、旅立つ兄にも送り出す私たちにも特別な思い出となり、直接会って会話ができることの大切さを家族全員で共有できました。お互いが同じ空間にいることで、声量や仕草がダイレクトに伝わるので、相手の気持ちを考えて円滑なコミュニケーションにするための工夫がよりできるようになると学ぶこともできました。

このように、直接会うことの価値や必要性がある一方、オンラインにも良さがあります。例えば、山形の祖父母のように遠くに住んでいて会えない人と話をするなら、オンライン上では時や場所を問いません。オンライン授業などもそうです。また、顔を合わせず、チャットなどでなら気兼ねなく話すことができる人もいると思います。要するに、会話とは状況や自分に合う方法を模索してするものなのだろうと思います。

また、現在は、テレワークの推奨や、大学・小・中・高等学校などでオンライン授業や分散登校などが増えています。将来10年後・20年後、リモートワークやネット上での活動が主体となり、出勤や出張など、現場に出向くということが少なくなっていくだろうと思われます。だから今の私がこのような考えを持っていても、未来の社会人の私は実際に会って話すことの大切さを忘れていくかもしれません。

「会って話す」と書いて「会話」です。未来の自分にはこれを忘れないでほしいと強く思います。そして、それを忘れないために、身近な人には会うことを制限されていない今、人と「会話」することを大切にしていきたいです。また、以前のように長く会えない日がまたくるかもしれない、自分が楽しみにしていたことが縮小・中止されるかもしれない・・・そんな切ない気持ちをこのコロナ禍が収まった時の喜びに変わるよう、少し心に残しておこうと思います。そして、いつか言えるこの言葉を話題にして会話する日を楽しみにしようと思います。
「コロナ、収まってよかったね。」

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佳作

半径2メートルを変える

新潟県立柏崎翔洋中等教育学校

2年 長島 もえ

あなたは「人間」と言われたら何を思い浮かべますか? 黒い髪、黄色がかった肌、焦茶の瞳。大抵の人は日本人を想像するでしょう。

では、同じ質問をアメリカ人にしたらどうでしょうか。アメリカには、さまざまな髪や肌や瞳の色、そして文化を持つ人々が暮らしています。皆が皆、同じ「人間」を想像するとは限らないのです。

さて、私は数年前、ハワイに行ったことがあります。これから書くのは、そこで体験した出来事についてです。

その地に立って、私はまず違和感を覚えました。青い空、伸びるヤシの木、そして人、人、人。体格も肌の色も話す言語も違う。知らない言葉、知らない土地。私は全てに釘づけになってしまいました。そこは未知の世界! 怖さすら感じるほどの刺激が私を襲いました。

しかし、そんな「未知の世界ショック」にもすぐに慣れ、自分なりに海外を楽しむことができていました。

そんなある日のことです。私は飲み物を売っている屋台に行っていました。そのとき、屋台に並んでいた白人の男性が、その前に並んでいた黒人の女性を押しのけて商品を購入したのです。店員も、それを知らぬふりで商品を渡していました。列から外れた女性は男性に抗議していたようでしたが、全く相手にされず一人立ち尽くしていました。輝く太陽と、抜けるような青空の下で起こったこの出来事に、私の心は凍りつき、逃げるようにその場から離れました。

次の日も、その次の日も、家に帰った後でさえも、私はそのことで悶々としていました。なぜあの男性はあんなひどいことをしたのだろう。相手が女性だったから? 黒人だったから? どちらにせよ、私は許せませんでした。理不尽な行いをした男性を、そして、それを止めることのできなかった、自分自身を。

私はこの出来事に遭遇するまで、差別をただ漠然と「いけないこと」だと思っていました。なぜなら、私にとってそれは「遠い国で起こること」であって、自分とは一切関係のないことだと思っていたからです。もちろん、深く考えたことなんてありませんでした。しかし、今では、自分にもすぐ近くの人にも起こり得ることだと考えています。

差別は、性格や人種だけでなく、その人の存在までも否定してしまいます。そんなことが起きて良いはずがありません。あって良いはずがありません。

あの日の光景を、私は忘れることができません。後悔や怒り、悔しさや悲しさは、まだ胸の内に残って絶えず私に問いかけてきます。差別のない世界にするにはどうしたらいいだろう? 私には何ができるのだろう? と。

私は人々を救うヒーローにはなれないし、魔法が使えるわけでもありません。首脳会談に参加できるわけでもなければ、世界中の人々を和解させられるわけでもありません。

しかし私は、身近な人を受けいれようとする心を持っています。当たり前のようで難しく、なかなかうまくいかないこともあります。身の周りの人を慈しみ、受けいれること、自分と価値観や考え方が異なる人を認めることは、とてもエネルギーを使うし、勇気がいります。しかし、人から人へとそれがつながってゆけば、差別という名の心の溝はいつか必ず埋まると信じています。

私はあんな思いをする人をもう増やさないために、この意志を忘れずにいたいです。人を否定しないために、人を認め、尊重することを決して軽んじないために、そして、青空の下でみんなが笑っていられる日のために、私は強くなりたいです。

私が目指すのは、周りの人々と幸せを分かち合い、彼らを温かさで満たせる大人です。彼らがもし困っていたら、全力で助けになれる大人です。この国を、この世界を、私一人で変えられるとは思いません。だからこそ、身近にいる友人や家族、そして私がその日関わる人々を笑顔にし、そのささやかな幸せが、人を思いやる優しさへと変わり、周囲に広がっていけばいいと思うのです。そんな「半径2メートルを優しい世界に変えていける大人」に私はなりたいです。

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佳作

2021年、届け!

新潟県上越市立浦川原中学校

3年 山本 光莉

拝啓、20年後の私へ。

今の私は15歳。35歳の私は元気に過ごしているでしょうか。今の私は部活動が嫌いだとか、学校が嫌だとか、生意気なことを言っています。私がどうしてこんなイヤイヤ期なのかはあなたが一番分かっているでしょうから、説明はしません。

さて、本題です。未来の私、あなたは目標を達成しましたか。養護教諭になりましたか。正直、なれていないのではないかと心配しています。だって、私だから・・・。このまま何をやるにもやる気を出さないで、だらだら日々を過ごす私が浮かんでくるから、怖くて嫌なんです。私は今、何になりたくて、何がしたいのか、よく分かっていないから、前に立てた目標も、自分に合っているのか分からない。相談する人もいなければ、信用している人もいない。全てが憂鬱なこの感じ。病んでしまったのでしょうか。嫌ですね。でも、逃げたらまた別の形でやってきますから、逃げないでくださいね。あなたは今の私を笑ってくれるくらいに元気でいてもらわないといけませんから・・・。幸せだって言える生活をしていてくださいね。

あと、両親を考えてくれていますか。たくさん苦労をかけましたからね。高校でも社会に出ても、また苦労をさせたのではないですか。ちゃんと「ありがとう」を言えていますか。今の私は言えていないから、頼みますね。車に乗れるようになったら、一緒に旅行に行こうと母と約束しましたが、行きましたか。楽しみましたか。行っていないのなら、連れて行ってくださいね。思春期は終わっているでしょうから、父とも話してあげてくださいね。

信用できる人はいますか。いるといいです。家族以外で、大切な人はできましたか。私は人を信用しないから、したいと思っていないから、その気持ちがなくなるくらい大切な人がいたらいいですね。大切にしてください。

20年後の世界はどうなっていますか。戦争なんて起きない平和な世界だといいです。もうAIが仕事をしているのですか。だとしたら楽しそうですね。車が空を飛んでいたりするのでしょうか。こちらの世界では考えられないことがたくさんあるのでしょうね。20年経ったら私も見られるようになるでしょうか。もしかしたら、あと数年でそうなるかもしれませんね。楽しみにしておきます。

そういえば、あなたはまだ、好きなものが変わっていないですか。今の私の本棚や机の上は好きなものと夏休みの宿題があふれています。覚えていますか。何が好きだったか。ヒントも答えも教えません。自分で考えて思い出してみてください。こんなにもハマっているのですから、あなたもまだ好きなのではないですか。まだ好きならうれしいです。それとも、もう捨ててしまいましたか。取っておいてください。大切なものですから。捨てていたら…、許しません。

大切なものといえば、気に入って使っているステンドグラスのライト。もう使っていないでしょうか。父が持っていたものを譲ってもらったのです。白熱電球だから、ほんのり暖かくなるのが好きなのです。たまに使ってみてくださいね。大切なものを全部しっかり保管してください。

長くなってしまいましたね。セミが鳴いています。私の部屋から夕日が見えるのを覚えていますか。今日も見えていますよ。これから空が紫色になります。私はこの景色が大好きなのです。それはあなたもよく知っているでしょう。好きな音楽を聴きながら、静かに漫画を読んで、母が来ると怒るから、さっと隠していましたね。思い出、忘れないでください。

最後に、私は今、元気がないので、良い話はできないのですが、あなたが大切な人を、ものを大切にしていれば、文句はありません。ただ、周りを大切にしてください。自分のことは後でいいから。あなたが善い人なら、私もそうなれるように頑張るから。あなたが悪い人なら、道を外れないように頑張るから、そこにいてください。途中でいなくならないで、そこで頑張っていてください。

敬具

私より

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総 評

出揃った青春を生きる作文

元信州大学教授
元文部省初等中等教育局教科調査官

澁澤 文

一斉休校から3年がたった今年は、学校は懸念していた休校措置から免れ、また前年度と違って学校行事の中止、部活動の休止なども大方回避され、中学校にもようやく活気が、生徒には笑顔が蘇える年となりました。ただし、新型コロナウイルス感染症対策から解放されたわけではなく、先生も生徒もお互いにマスク着用が原則となり、マスク越しの授業、昼食時は「黙食」、休み時間・会話は「ソーシャルディスタンス」に配慮してなど、いろいろな制約下での学校生活が続いています。一方、このコロナ対策を通して一人一台の学習端末が推進され、学校も本来展開されるべき教育活動を実現しつつあるといえるでしょう。

本作文コンクールも、今年は開催を危惧するというよりも、コロナ禍での学校生活における感動体験の不足等から、応募数の減少が一部で案ぜられたりしました。しかし、実際には学校数、作品数共に、昨年を上回る応募がありました。コロナ禍にあっても、中学生たちは思いのたけをぶつけたくなるような体験をしていることが再確認できたものと喜んでいます。

実際、今年度も、本作文コンクールの最終審査には、青春時代を心豊かに過ごした中学生ならではの作文が出揃いました。その頂点に立ったのが宮城県の栗田遼人さんの「祖母の味への挑戦」でした。今は亡き祖母が作ってくれた“味噌焼きおにぎり”の味が忘れられず、その再現に試行錯誤する過程で、期せずしてデパートの支援が受けられることになり、本格的に取り組んだ結果、祖母の味に到達するとともに改めて祖母の孫への“深い愛”に気付かされた様子が生き生きとした文章で清々しく綴られており、最優秀賞に輝きました。

この作品に遜色のない高い評価を得たのが岩手県の照井妃奈さんの「24歳の私へ」でした。左眼の病気治療体験から「人を助ける仕事」に就きたいと願う心境に至った経緯が力強く表現されており、感動的な作文となっており、優秀賞に輝きました。

今年度は「未来の自分に伝えたいこと」という基本テーマが反映してか、中学生らしく自立に向けて、進路を模索し見いだす作文がめだちました。その代表格として山形県の佐藤未菜さんの「母の笑顔がみたい」が挙げられます。母の病気・リハビリ体験を通して理学療法士の存在を知り、それを自分の仕事にしていきたいと決意する凛とした意志の強さを感じる作文となっています。青森県のM形紗那さんの「違いに寄り添うこと」は、多様性の環境下にあるにもかかわらず一様性の下での偏見、差別に悩み、それを打開した体験から、教職の道を歩もうとする心境がきりりと清々しく綴られています。秋田県の佐藤誉士さんの「19代目を引き継ぐ僕へ」は等身大で気負いのない文体がむしろ効果的であり、例大祭を通して「伝統を引き継ぐ」というキーワードが浮かび上がってくる構成・展開の妙をお楽しみください。これらの作品も優秀賞に選定されました。

家族の心、絆の深さが味わえる作文も見られました。福島県の池田玲菜さんの「残していきたい大切なもの」は、母から聞いた故郷の話から望郷の念を募らせている郷土愛たっぷりの心情が綴られた作品となっています。新潟県の鈴木千尋さんの「父から学ぶ」は、中学生が書く作文の題材としては数少ない父親と娘の前向きな交流が綴られており、齟齬(そご)、軋轢(あつれき)ではなく成長、信頼が感じられる味わい深い作文となっています。これらの作品も優秀賞に選ばれました。

今年の最終選考に残った作品群では、方言を取り入れた作品は皆無でした。三世代が一緒に暮らす東北地方においても、若い世代を中心に“方言”離れが進んでいると聞きます。それは、ひいては伝統的な祭り、行事、産業離れを促すことに結びつくものと考えられます。こうした動向を踏まえると、本作文コンクールにおいては方言の取り入れ方を前向きに工夫・検討し、適切に方言を導入した作品が応募されるような風潮を醸成してもよいのではないかと考えます。最後に、先生方の作文指導、特に事後の生徒作品の手入れに関しては、誤字・脱字の指摘や修飾語、作文タイトル等の再検討に関する指導に止めるよう、自制心を持って取り組むようにしていただきたくお願いいたします。

コロナ禍において本作文コンクールを主催、共催、後援してくださった関係諸機関、参加・協力・支援してくださった関係者の皆様方に改めて衷心より敬意を表し、深甚の謝意を申し上げます。

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総 評

誇れる子どもたち

作家

高橋 克彦

肝心の選考会を心身症気味の体調を理由に欠席した私に、いまさら結果について云々する資格などないのは重々承知である。いや、こうして書こうとしている今だとて判断に迷いがある。そこまで思っているのなら、無理をしてでも出席すべきだった、と選考委員としての無責任さを叱っている自分が、この文章を書こうとしている裏側に居る。

と同時に「未来の自分に伝えたいこと」という作文テーマの時間的曖昧さにも問題があったのでは、と選考会の結果を受けて考えさせられた。このテーマは一見「分かりやすい」ものと感じられる。それに私も欺されていた。私の考えでは最低でも5年、あるいは10年先が「未来」というもので、それを前提として皆の作文と向き合っていた。けれど単純に考えれば半月後だとて未来であり、1年後は掛け値なしのそれに違いない。その基準が書き手によってまちまちで、結果テーマの「縛り」が曖昧となってしまう。極端な例を挙げれば「来週のテストで満点を取るために頑張っている」という意気込みでも立派な「未来の自分に対する励まし」となる。それは本来主催者側の望んでいるものと違っていたとしても、書いた当人にすれば大事な問題であろう。

つまりそのテーマの設定が今回書き手の子どもたちの混乱に繋がったのではないかと私は思っている。現実に直面している今現在の苦悶や悩みは遠い未来への希望や情熱とは違うものなのに、それらの文章も同一の範疇で括られてしまう。

そこの部分の見極めがむずかしい。

このコンクールの選考委員を10年以上も任せられてきた私であるが、今回ほど悩まされたことは正直なかった。

テーマを外して文章とだけ向き合えば「見事」と唸らせられた作品が幾つもあった。

とても中学1年生とは思えぬ筆致と豊かな感性に満ちた青森県の北山美芽莉さんの地元に伝わる古典芸能への愛情の深さと習得しようとする努力には本当に感心させられた。ましてやこの世代でありながら並み居る上級生たちに劣らぬ構成のうまさには驚かされた。1年生と言えばまだ小学生から上がったばかりの年頃ではないか。私がその頃にこれだけの文章をモノにできただろうかと考え、ほとほと呆れてしまったほどである。

次いで心底うまいと驚かされたのは福島県の遠藤夕騎君。情景や心の動きが鮮やかに読み手に伝わってくる。熟達過ぎるのが反対に少年らしい瑞々しさに欠ける、という部分がないでもないが、見事な自然描写には唸るしかない。オチもきちんと10年後の自分の言葉で閉じられていてテーマに即している。

宮城県の吉田美咲さんの作品は同県から最優秀作の栗田遼人君が選ばれたため秀賞止まりとなってしまったけれど、ドラマチックな冒頭から入り、現在自分の抱えている悩みに読み手を引き込んでいく展開には並々ならぬセンスが感じられた。読み手をぐいぐいと引き込んでいく。これが小説であれば「満点」と手を叩きたくなる。私は迷いもなく最上点を与えたが、後半の結果には少し出来過ぎの感もある。栗田君と競った末の次点となったのはそこかもしれない。けれど今回の作文でこの吉田美咲さんの作品の完成度は抜きんでていた。それだけは記しておきたい。

とまあ、今回は少し偏った選考評となったかもしれないが、最優秀作や優秀作に輝いた人たちへの感想は他の選考委員の方々が詳しく記すだろうと見てのことである。東北にはこの通り優秀な子どもたちが沢山育っている。それを私も誇りに感じている。

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総 評

「密な青春」が輝く

河北新報社 取締役 論説・編集・防災教育担当

今野 俊宏

「青春って、すごく密なので」。2022年は皆さんにとってどんな年でしたか。東北にとって最も明るいニュースは、夏の全国高校野球選手権大会で仙台育英学園高校が東北の悲願だった初優勝を飾ったことでした。冒頭の言葉は閉会式後のインタビューで須江航監督が語ったものです。新型コロナウイルスは収束が見えず、「密」を避けることを強いられ続けた「青春まっただ中」にいる皆さんの心情を思うと、いたたまれない気持ちになります。私は父の転勤や学校の分離・新設もあって三つの中学校に通いました。思い返すと「密な時間」でした。

深紅の優勝旗が初の「白河の関越え」を果たした意義は、野球の話にとどまりません。東日本大震災から間もなく12年を迎えます。新型コロナの影響や世界情勢、物価高による生活の厳しさも相まって重苦しい空気に包まれる中、東北の人々を前向きに、明るくしてくれました。仙台育英の選手たちのたくましさ、ひたむきさは全国の人の胸を熱くしました。そして皆さんが将来の夢や未来の自分に託す思いをつづった本コンクールの作文もまた、審査に当たった私たちを今年も熱くさせてくれました。

最優秀賞を受賞した仙台市立仙台青陵中等教育学校2年栗田遼人さんの「祖母の味への挑戦」は、祖母が幼いころに作ってくれた懐かしい味を再現したストーリーです。自分の夢を見つけた、こんな大人になりたい、という趣旨の作品が並ぶ中、とてもユニークな内容と言えます。今は亡き祖母の味を残したい、プロの指導をはじめたくさんの人とのつながりが再現の道をもたらしてくれたことへの感謝など、テーマを抑制的に扱ったことが効果的でした。味噌と砂糖の割合が味の決め手であることなど、「へえー、そうなんだ」と気づかせる記述も光ります。全体の構成や文章がよく練られています。

このほかに上位を競ったのは、釜石市立釜石中2年照井妃奈さんの「24歳の私へ」、三沢市立第一中3年M形紗那さんの「違いに寄り添うこと」、会津若松市立第一中1年池田玲菜さんの「残していきたい大切なもの」などでした。病気との闘いの中で命の大切さを訴える内容、国籍をめぐる差別の問題、東日本大震災で失われた故郷の復興に貢献する気持ちなど、涙なしには読めない作品もありました。書き手や家族、友人、周囲の人々の優しさが読む者の心を揺さぶります。

「原稿用紙4枚以上5枚以内」という分量は、中学生にはかなりのボリュームです。ちなみに河北新報の紙面は1行12字です。原稿用紙5枚を新聞に換算すると160行ほどになります。各面のトップ記事は80行が目安なので、注目記事2本分に相当します。これだけの量の文章を読みやすく、まとまった構成にするのは骨が折れます。いったんさまざまな要素を盛り込んで長めに書き、不要な部分や冗長な表現を削っていくとキレのある文章になります。「文章を磨く」作業にもチャレンジしてください。

昨年も強調しましたが、タイトルも作品の重要な一部だということを意識してください。募集テーマは「未来の自分に伝えたいこと」でした。これは本屋さんや図書館で言えば、書棚コーナー全体の名称であり、一冊一冊の本には魅力的なタイトルが付いています。「何が書いてあるんだろう」「読んでみたい」と思わせるタイトルは読者の興味をひきつけます。「○○年後の未来」などテーマをなぞっただけでは工夫が足りません。最優秀賞の栗田さんの「祖母の味への挑戦」は合格点です。でもここはずばり「味噌焼きおにぎり」にすれば強いインパクトを与えると思いますが、どうでしょう。作品を象徴するもの、印象的なフレーズをタイトルにすると作品全体が輝きます。石巻市立万石浦中2年木村麻央さんの「保健室は充電所」などは秀逸でした。

最後に仙台育英の須江監督の言葉で、中学生の皆さんにエールを贈ります。「(新型コロナで)活動していてもストップがかかってしまうような苦しい中、どんなときでも諦めないでやってくれました」

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