最優秀賞
文部科学大臣賞

命と向き合う

南陽市立赤湯中学校

3年 佐藤 充朗

烏帽子山の葉桜を背に、僕は階段に腰を下ろした。あたりはまだ薄暗く、赤湯の町は静かに朝を迎えようとしていた。するとそこへ、「ガーガー」と大きな翼を広げた青鷺が、灰色の空を悠々とはばたいてきた。しかし、彼らは今日殺されてしまう。

5月17日午前4時半、僕は地区の役員をしている父について烏帽子山に向かった。烏帽子山にはたくさんの鷺が住んでおり、この時期はここで子育てを行っている。しかし、この鷺たちは大きな声で鳴いたり、民家にフンを落としたりと近くに住んでいる人にとっては迷惑な存在となっている。そのため、彼らは「害鳥」とみなされ、年に一度行われる害鳥駆除の主な対象となっている。

今日は、猟友会の人たちが撃ち落とした鷺を集める係になっていた。その仕事はただ鷺を袋に入れるだけでなく、生きたまま落ちてきた鷺を自分の手で殺さなければならない。それがいかに残酷で苦しいことであるかはわかっていた。しかし、この鷺たちの現実と向き合える貴重な機会に、自分の動物に対する考えを深めることができるかもしれないと思った。そして、今日殺されてしまう鷺たちから目を背けたくないという思いから、この害鳥駆除に参加することを決めた。

烏帽子山を北側に進むと、背の高い杉が並ぶ鷺の寝床に着いた。空を見上げると、何羽もの鷺が飛び交っており、その下では猟友会の人たちが刻々と準備を進めていた。あたりには緊張感が走る。

午前5時。猟友会のリーダーの合図で一斉に散弾銃の音が鳴り響いた。空を飛んでいた鷺たちが次々と落ちてくる。この光景は僕にとってとても衝撃的だった。

散弾銃の音が一段落したところで知り合いの人についていき、寝床へ鷺を探しにいった。周りを見渡していると、いきなり散弾銃の音が鳴り、がさがさと木の間から鷺が落ちてきた。そして、その鷺は1匹の泥鰌(どじょう)を吐いた。鷺はまだ生きていて、声をうならせながらもがいていた。弾が翼にしか当たらなかったため、その鷺はもう一度散弾銃で撃たれ、殺された。僕はぼろぼろになった鷺と泥鰌を見て、もしかしたら雛に食べ物を持ってきたのかもしれないと思い、胸が熱くなった。そして、罪なく殺された彼らがかわいそうに思えてしかたがなかった。

空を見ると、何度も危ない目にあった鷺たちがまた寝床へと戻ってきた。その鷺たちを再び猟友会の人たちが狙うわけだが、自分の身の危険を忘れてまで子育てに熱中している彼らを僕は心の中で応援していた。

「あいつは白だからだめだな。」
駆除の最中に鷺を狙っていた方の一人が言った。僕はどういう意味か気になって聞いてみた。するとそれは、このあたりには主に青鷺と白鷺が生息していて、そのうち白鷺は生息数が少ないため殺してはいけないことになっているという意味だった。しかし、白鷺は見た目こそ青鷺とは別なものの、生態はよく似ている。つまり、人に及ぼしている害はほぼ同じだということだ。僕は白鷺と青鷺の間に価値観の差を作ってはならないと思った。そして、白鷺だけでなく青鷺にも適切に向き合っていくべきだと思った。

害鳥駆除も終盤に差しかかるころ、民家の近くの岸に鷺がいるという知らせが入った。そこへ行くと、一羽の鷺がうずくまっていた。僕が慎重に近づくと、
「グワァッ」
と叫んだ。その鷺の首をつかんで持ち上げると、大きく翼を広げて暴れた。僕は、なかなかその鷺の首を折る勇気が出なかったが、
「ごめんね。」
と言って、その鷺の首を折った。すると、あれほど暴れていた鷺の動きが止まった。僕が命を奪ったのだ。僕は正しいことをしたのか悪いことをしたのか分からなかった。あの鷺の顔が頭から離れず、何度も心の中で謝った。

僕はこの体験を通して、人と動物の共存の難しさを痛感した。民家の人の身になれば、当然鷺を殺してほしいと思う。しかし、もともと人間が自分たちの生活を優先したことで鷺たちの住み家を奪ったのに、今、命まで奪おうとしているのだ。他に繁殖場所を作るなど、人と鷺が共存できる道が他にもあるのではないだろうか。

今回の体験は、自分の考えの足りなさをも教えてくれた。僕は、人間は自然の一部だと思っている。同じ自然に生きる一つ一つの命の重みを感じ、共存の道を考えていくべきだと強く思った。人間と動物がお互いに心地よく過ごしていくために、僕にどのようなことができるだろうか。それを深く考えていくことが、これからの僕の目標となった。

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優秀賞

記憶のリレー

青森県青森市立南中学校

1年 吉崎 心渚

灰色の空の下、ところどころ残る水たまりをよけながら、黄色い銀杏の絨毯の中を斎場へと急いだ。通りすぎる冷たい風が頬に刺さり、冬がもうそこまで来ている感じがした。

「あら、大きくなったわねぇ。」

斎場の控え室で私はたくさんの人に声をかけられた。中にははっきりと誰だかわからない人もいたが、声をかけられるたび、軽く頭を下げた。曾祖父の葬儀に出席した時のことだ。身近な人が亡くなったのは、私にとって初めてのことで、斎場に着く前から胸の中に重たい石が入っているようなずっしりとした息苦しさと、心に穴があいたような喪失感でいっぱいだった。

周りの人のためにいつも一生懸命な人であった。春になると八戸からわざわざ青森の畑にみんなの好きな野菜や果物の苗を植えにきてくれた。夏の間も暑い中何度も畑の世話をしにきて、秋にはダンボールいっぱいの野菜を収穫した。冬になると、馬刺しを持って雪かきを手伝いに来てくれた。そして、私が一番はっきりと覚えているのは、幼い頃から毎年、私の大好物の口から溢れるほど大きい真っ赤な苺をたくさん買って来てくれたことだ。自分は贅沢をせず、曾祖母が早くに亡くなってからは、作業着や私服、靴下まで穴が開いては自分で継(つ)ぎ接(は)ぎをしながら着ていた。みんなが「父さん」と呼ぶので、小さい時から私も「父さん」と呼んでいた。私はそんな父さんが大好きだった。 あんなに元気だった父さんが死んだ。95歳だった。

沈んだ気持ちのまま、私は少し緊張しつつ火葬が終わるまでの間、控え室の椅子に座っていた。人が死ぬというのは暗く、悲しいイメージがあった。しかし、あのとき時間が過ぎるにつれ、何か違うと感じた。周りのみんながそれぞれ涙をうかべ、ハンカチを握りしめながら、それでもとても穏やかな優しい表情で父さんの思い出話をしていた。

「本当にお世話になって…ありがとうね。」
と祖母の手を両手で握りしめる人。曾祖父とのエピソードを話してはほほえみ合っている人たち。はっきりと話の内容まで聞きとれなかったが、本当にみんな、優しい顔に見えた。みんな父さんが大好きだったんだ。悲し過ぎて、父さんの顔をまともに見られなかったけれど、やっと心が軽くなり、しっかりと顔をあげて遺影に手を合わせられる気がした。体は無くなってしまっても、それぞれの記憶の中でずっと父さんは生き続けていくのだ。

葬儀の間、お経を聞きながら、目を閉じて遺影に手を合わせ、幼い頃からの思い出をたどった。ときどき目を開けると、そこにはいつもの優しい父さんの顔が私を見ていて、

「がんばれよ、応援するからな。」
という声が聞こえてくるような気がした。

葬儀の後、たくさんの弔問客と話をする中で、私の知らなかった曾祖父の話を聞いた。

町内の公園の花壇の世話を進んでしていたこと。近くの保育園に、七夕になると大きな笹を、ハロウィンには自分の畑で育てたかぼちゃを持っていって園児たちを楽しませてあげたこと。曾祖父は人生の中で多くの人と出会い、いろいろな絆を育んでいることを知った。

そして、私もまた、ずっとこれからも思い出すだろう。春、畑の土の匂いがすると思い出す。夏、畑の世話をしていると思い出す。秋、野菜の収穫の時にも、スーパーで大粒の苺が並んでいるのを見かけた時にも、父さんの姿が頭に浮かぶ。私の記憶の中に父さんは生きている。

命も始まりと終わりがある。出会いがあれば別れもある。そして、記憶は受け継がれていく。記憶はリレーされている。命のバトンを確かに受け取って私は生まれてきた。今は私が走る番なのだ。苦しい、悲しい記憶を心の中でリメイク、メンテナンスして、幸せな記憶となるように。失敗は繰り返さず、成功への道しるべとして今を生きる力を育てていきたい。「得」ではなく、「徳」を積む、父さんのような生き方をしたい、自分のできることを周りにも与えられる人、小さな親切や気配りができる大人になりたい。そして、人生を生き抜く力を身につけて、私も最後きらきらと輝く命のバトンを、次へと渡せる人になりたい。

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優秀賞

「知」を求めて

岩手県釜石市立釜石中学校

2年 関谷 佑恭

人はなぜ学び、何を目指して生きていくのだろう。人生は、どうなったら「成功」と呼べるのだろう。私の成功とは、夢である医師になることだろうか。

東日本大震災が起きた時、私は4歳だった。次々と家や工場が倒れ、津波にのまれた街を私は今でも覚えている。多くの尊い命を奪い、多くの人々を苦しめ、その悲しみは今も深く残っている。こんなにもつらい出来事は、私の人生にもう2度と起こらないだろうと思っていた。しかし、あれからわずか9年、今、世界は新型コロナウイルス感染症に苦しめられている。

幼少期、身体が弱く、入退院を繰り返していた私は、治療に携わった医師に感謝し、憧れ、いつしか医学の道に進みたいという夢を抱いていた。弱者を助けられるのは医師しかいない。だから、今、世界の人々を苦しめている感染症に立ち向かい、救うことができるのも、医師だけだと思っていた。

ところで、私は、いろいろなことを数値化して捉えることが好きだ。例えば、都道府県の人口比を面積に置き換え、視覚理解を容易にしたり、温暖前線と寒冷前線の傾きを数値化してその動きを考えたり。植物が生きるために得たフィボナッチ数列を観察したりもした。スケールの大きなものから、一見意味を持たないようなものまで、数の操作を利用して多角的に見ることを楽しんでいる。もちろん、これらは医師になるという夢のためではなく、好きでしていることだ。そんな中、数を操作することで感染症に立ち向かう研究者がいることを知った。

自らが導き出した公式で、感染者数の動向を推測し、ほぼ狂いなく言い当てた研究者。感染症に立ち向かえるのは医師だけだと思っていた私は、その姿に驚いた。医療従事者の視点ではない、ある種場違いとも思える統計学の見地から感染の勢いや傾向を読み解き、警鐘を鳴らしたデータは、未知のウイルスに漠然と怯える人々の心に安心感にも似た説明を与えた。目に見えない「恐怖」を可視化したデータを自分でも解析してみたいという思いがすぐさま私にペンを持たせた。

コロナ禍において、医療従事者は感謝せずにはいられない頼もしい存在だ。しかし、同時に難局を乗り切るために奮闘し、弱者を救っているのは医療従事者だけではなかった。多くのデータから数学的、統計学的にウイルスの正体を暴く人。流体力学の研究を通じて飛沫の飛び方を考える人。さまざまな専門知識が結集し、感染症という強大な敵と闘っている。

医学、数学、工学、統計学といった別々の学びが、一つの「知」となって感染症に立ち向かう現実を目の当たりにした。今はまだ、感染症の恐怖は続いているが、「人間はウイルスに勝てる」と確信した。と同時に、これまで私が「遊んで」いた数の操作は無意味なものではなく、何かに貢献できる可能性を秘めているのかもしれないと感じた。

医学か数学か、それともほかの分野か。将来の進むべき道に一瞬迷いが生じたが、それはある本の一節ですぐに消えた。

「『何になるか』ではなく『どんな人間になりたいか』」

私が学びや興味から得たものに、正解や不正解はない。意味のないものは一つもなく、どんなことも自分の一部になっていく。一つでも多くのことに興味を持ち、貪欲に学ぶことが、今の私には必要だ。なぜなら、さまざまな分野の知の結集による力こそ本物と言え、私は「知を持った人間になりたい」からだ。

私が経験した二つの困難は、甚大な被害をもたらした。東日本大震災にも新型コロナウイルスにも、立ち向かう力は今の私にはない。しかし、私のような若い世代が、多くの知を身につけようと努力する姿は、今、必死に困難と闘ってくれている大人たちの希望になるのではないだろうか。そして、自然災害、核、環境問題と私たちを取り巻く問題はまだまだ山積している。これらの問題に、どれだけの知を身につけて立ち向かえるのか、身につけた知をどのように発揮して社会に貢献できるのかが、私たち世代には求められているのではないだろうか。 どうなれば私の人生は成功したといえるのかは分からない。ただ、今はっきりしていること、それは、知を持った人間になりたいということ。そして、その知で、自分、家族、世界の人々、地球を守れる人になりたいということ。中学2年生の今、やりたいことや知りたいことでいっぱいだ。多くのことに興味を持ち、貪欲に学びたい。必要のない教科はない。そして、学校で教わることは、それぞれの分野のほんの一部でしかないことを忘れず、自分で学び続ける努力をしたい。それが私の成長につながるはずだと考える。

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優秀賞

三味線と共に

秋田県東成瀬村立東成瀬中学校

2年 谷藤 翔太

厳しい雪国の冬。前も見えないほど激しく吹き荒れる雪の景色がどこまでも広がっている。そんなイメージが浮かぶ津軽三味線の音色が、僕の体中に響き渡る。

僕の趣味は民謡だ。その中でも、伴奏楽器として使われる三味線が大好きだ。民謡を始めたのも「唄がわからないと三味線のよい演奏ができない。」と三味線教室の師匠に言われたのがきっかけだった。

三味線には長唄、津軽、地歌などさまざまな種類がある。その中で、僕が習っているのは津軽三味線だ。津軽三味線の特徴は他のものとは違い、打楽器的要素を持ち合わせているところにある。非常に激しい奏法のため、皮が破れないように犬皮を使用している。犬皮はひとつひとつ職人の手で皮張りがされるが、消耗が激しい。最近は技術の進歩により機械で張れる上に、長持ちする合成皮も出てきたが、それでも僕は犬皮の響きが気に入っている。こんな話をするとたいていの人は、変人扱いだ。けれど、僕は暇さえあれば三味線についての動画を見たり、情報を検索したりしている。

そんな僕には、20歳までに達成したい目標がある。それは、津軽三味線の本場、青森県で毎年5月に行われている「津軽三味線世界大会」に出場し、唄付け伴奏A級部門で優勝することだ。この大会は世界大会というだけあり、外国からの出場も年々増加している。昨年は、カリフォルニアで三味線を製作・販売・修理をしている方が来日し、出場したそうだ。本人は、13歳の時に三味線の音を聞き、魅力を感じ、自分で三味線を作るほど好きになったと動画で語っている。

国境を越えて、これほどまで多くの人の心をとらえる三味線の魅力は語り尽くせない。また、僕が優勝を目指している部門の「唄付け伴奏」は、三味線を単独で演奏するのではなく、その名の通り、唄の伴奏をするということだ。唄の伴奏はとても難しい。唄い手の癖、調子などを聞き分け、演奏中に合わせなければならないなど、教科書通りにはいかない難しさがある。さらに、津軽民謡はたくさんの種類があり、唄われた時代によってもさまざまな曲調がある。それを弾き分けるのも至難の業だ。

津軽三味線の名人と呼ばれた高橋竹山にはたくさんの名言がある。
「下手な三味線では誰も戸を開けてくんね。」
「津軽三味線は耳の学問だ。」
という言葉もその一つである。確かに、人の心に届く演奏をするためにはどうしたらよいのか、さまざまな演奏を聴いて自分のものにしていくのは難しい。しかし、少しでも自分が求める音に近づいたときにはもっとうまくなりたいという気持ちがさらに湧いてくる。

僕の師匠は、津軽民謡の伴奏者ではなく、秋田民謡の伴奏者である。誰にも真似できない唯一無二の演奏だ。師匠が演奏する何とも言えない「間」や「音締め」は僕の心をとらえる。そんな師匠の音に少しでも近づけるように毎日の練習を欠かさない。多いときには一日中弾き続けることさえある。

しかし、大会の本番は練習通りにはいかない。それは、僕がこれまでに出場した三味線の大会からも言えることだ。ある大会では、本番1時間前に演奏の要でもあるバチを折ってしまったのだ。すぐにバチを買い、本番には間に合ったが、バチを折ったショックと焦りで思うように演奏ができずに終わってしまった。悔しさだけが後に残ったが、それまでしっかりメンテナンスをしていなかった自分が悪い。その日からは三味線のメンテナンスを念入りにするようになった。このような失敗は、世界大会のときには絶対したくない。唄い手の方にも迷惑をかけてしまう。

弾き三味線の名人と呼ばれた高橋竹山と叩き三味線の名人と呼ばれた木田林松栄。音源が残っているだけで貴重だと言われている。この方々の音を生で聞きたかったが、2人の音を再現できる奏者はいない。この方々の音源も参考にしながら僕は練習に励んでいる。また、「津軽三味線世界大会」での優勝という目標を叶えるために、練習法も工夫するように心がけている。まず、自分の演奏を録音し何度も聞き、分析し、失敗を生かすこと。そしてもう一つは、優勝者の演奏を聞き、違いを見つけて改善することだ。

僕にとって、津軽三味線と唄付けは、生活の大部分を占めている。現在の目標は世界大会の優勝だが、優勝で満足するのではなく、自分の音楽や三味線の演奏の幅を広げていきたいと考えている。さらに、僕の演奏を聴いて笑顔になってくれる人がいればなおさら嬉しい。

今日もまた、理想の響きを求めて芸を磨いていく。

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優秀賞

閉塞感の中で見つけた一つの夢

宮城県仙台市立幸町中学校

2年 鈴木 心晴

「あなたの将来の夢はなんですか?」
この質問を、これまで何度されただろう。

「水泳でオリンピックを目指したい。」

「父のようなパティシエになりたい。」
堂々と語る友人の姿を見るたび、気後れする自分がいた。私は将来何をしたいのか、どんな大人になりたいのか、ずっと見つからないままだからだ。薄っぺらな自分の内面を見透かされるのが嫌で、いつも口を濁してきた。

今年の春は、昨年までとは何もかもが違っていた。冬休みの終わり、中国で新型のウイルスによる感染症が流行し始めたと耳にした。遠くで起きている出来事と思っていたのも束の間、とうとう一人、また一人と国内でも感染が起こり、瞬く間に県内でもそのニュースが聞かれるようになった。同じ頃、新型コロナウイルスはさらに海を渡り、ヨーロッパやアメリカでも大流行が始まった。連日報道されるおびただしい感染者と死者の数には、ただただ言葉を失うばかりだった。

迎えるはずの新学期、県大会を目指し励んでいた吹奏楽部の活動、それも全て休止となり、外出さえかなわなくなった。感染対策をしながら仕事に向かう両親や、持病を持つ祖父母、家庭内でも見えないウイルスへの恐怖心や緊張感は高まる一方で、私自身もイライラが募っていった。そして私の気持ちの矛先は、感染してしまった見ず知らずの人に向くようになった。いったいどんな行動をしていたのだろう、周りに迷惑をかけないで、と。

そんなある日、一つの新聞記事が目に留まった。それは、アメリカで、ある男性が新型コロナウイルス感染症で闘病した記録だった。男性は高熱と咳、ひどい息切れの症状を抱えて必死に病院を探す。電話では門前払いの連続。受診先が見つかっても、タクシー、バスからは乗車拒否。なんとかたどり着いた病院では、周りの人からさっと避けられ、冷たい視線が向けられ、次々と暴言を吐かれてしまう。心も体もボロボロになり、やっとの思いで診察室に入った彼に、迎えた看護師さんはこう言葉を掛けたそうだ。
「よく頑張ってここまで来てくれましたね。」

私は、雷に打たれたような衝撃を受けた。なんてあたたかく、心のこもったひと言なのだろう。そして改めて気づいた。誰一人として彼を心配する人がいない異常な状況に。人々に相手を思いやる余裕がなくなっているのだ。それは私も同じだ。自分を守りたいあまり、知らず知らずのうちに偏見を持ち、未知のウイルスだけでなく、感染したその人までも排除の対象と見てしまっていた。

看護師さんこそ、常に感染と隣り合わせだ。感染すれば命を落としかねない状況で、怖さを感じないはずがない。しかし、そのひと言からは、どんな時も変わらずに、患者さんの立場に立って寄り添っている姿勢が伝わってきた。相手に丁寧に向き合い、不安や恐怖に心から共感していなければ発することのできない言葉だと思う。そのひと言によって患者さんがどれだけ救われ支えられたかと思うと、私まで胸が熱くなった。

「先生、誰かのランドセルがトイレの中にあります。」

3年前のある日の昼休み、そう言って一人の子が教室に飛び込んできた。置かれていたのは私のランドセルだった。楽しさでいっぱいの学校生活が、突然真っ暗になったあの瞬間は忘れられない。事実と向き合うことができず、動揺する心を隠して笑顔を作ることで精一杯だった。そんな時、一人の友人がいつも隣で変わらずに接してくれた。彼女がいてくれるだけで、卒業までの毎日学校に向かうパワーをもらい乗り越えることができた。

新聞を読んで、あの時彼女がくれた優しさを思い出した。誰かの辛さを代われる人はいない。でも、その辛さに理解を示しそばにいてくれる人が一人でもいたら、人は立ち上がり、前を向くことができるのだ。

遠くアメリカの地で働く、名前も知らない一人の看護師さん。雲に覆われたような閉塞感の中、あたたかく光る彼女のひと言に心を揺さぶられ、私は一つの夢を見つけた。

それは、看護師になること。時に危険も伴い、覚悟が必要になる場面もあるかもしれない。それでも私は、あの看護師さんのように、目の前の患者さんの辛さや痛み、苦しさに寄り添える、そんな人になりたい。今なら、胸を張ってそう言える。

まず、相手の立場や気持ちを「想像する力」を持とう。視野が狭くなりがちな今の状況だからこそ、あらゆる方向から物事を捉え、もし自分や家族だったらと置き換えて考えることから心掛けてみよう。目標に向かって進む先で、いつの日か私が誰かの支えになれたら嬉しい。

私の挑戦は、今ここから始まる。

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優秀賞

おいしい実を実らせるまで

福島県立会津学鳳中学校

2年 小野 釉花

私は植物が大好きだ。堂々としていて、かつ美しい。
「私はここで今、生きている。」
そう言っている。そうさけんでいる。大地からこみ上げる「声」が聞こえる。そう感じるようになったのは、たぶん、あの時から。

小学2年生、夏。きっかけは、学校の宿題だった。トマトを育てて観察して記録する、というものだった。ただただ、めんどくさい。やる気が1ミリも起きなかった。

「毎日、毎日、なんで水をわざわざやらないといけないの。」
文句ばかりで、何も進まない。でも、種を植えないと何も始まらないので、ひとまず植えることにした。しばらくして、ついにその時がやってきた。発芽だ。幼い私には、その芽がとてもかわいらしく見えて、まるで自分の子のようにかわいがった。もうその時には、トマトの芽にメロメロだった。それからトマトの芽は伸び、葉をつけ、日光をあび、やがて、自分の背を超えるほど大きくなった。そして真っ赤な実を実らせ、私の胃も心も満たした。あんなに甘くておいしいトマトは初めてだった。

それからというもの、トマトは私の大好物だ。今年もトマトを育てた。コロナ禍の中、大きく成長する姿に、私はたくさん元気をもらった。

自粛期間中のある日。その日の昼は天気がとても良かった。天気がいいなとベランダから外の様子を見ていると、ふとトマトの花が咲いているのに気がついた。写真におさめようとスマホを持ち、急いで庭に直行した。行って、よく見てみると、いくつかが咲いていて、一つはもう実ができていた。私はその後のことを連想した。この小さい実がどんどん大きくなって、緑色から黄色、オレンジ、赤と、色づいていき、やがて美しいトマトになる。そう思ったら期待で胸がいっぱいになった。そして私はスマホを構えた。全体をパシャリ。普通すぎる。花だけをパシャリ。ピンとこない。上からがだめなら下だ。下からパシャリ。おお、プロだ、プロ。そうしてでき上がった写真は異世界だった。小さな虫になったようにトマトの花が大きく見えた。まさに太陽だった。私を照らしてくれているように思えた。

その写真を、学校の文化祭で展示する個人作品で描くことを決めた。下から上を見上げる構図は動きがあって、あたかも植物が絵の中で空へ伸び続けているようだった。葉は光を受け、葉脈が見えていた。細く、強く、広がる葉脈に強い生命力を感じた。そして、あの太陽も、強い生命力を持っているように思えた。

私は絵を発表する時に何を言おうかと考えた。
「私はトマトを描きました。」
なんて、小学生でも言える。なにか、今だからこそ言えることがないだろうか。ふと、去年のことが頭をよぎった。

私は中学1年夏から不登校になり、いろいろあって立ち直れた。その背景には数々の支えがあった。たった一人の母親、怖い姉、全力でサポートしてくれた先生方、クラスの友達などなど。普通じゃないくらいに、素晴らしい家族、先生方、友達に囲まれていた。だから今があるのだ。

その時、私は気付いた。人と植物の共通点に。それは「支え」だった。植物も土にしっかり根をはるまでは支柱を立てて支えてあげる。その支柱があることで、大雨が降っても、強風が吹いても、無事でいられる。それを乗り越えるから成長できる。太陽からの光をあびることで上へ伸び、花を咲かせて、おいしい実を実らせる。それは人も同じだ。何か辛いことがあったら誰かの支えが必要だ。そして、それを乗り越えることで成長できる。また、上に上がれるように精一杯努力し、誰かの力を借りて新たな力を身に付ける。いずれ、それらは実を結び、かけがえのないものになるだろう。人も植物も「支え」が大切なのだ。

私はこのことを含めて発表した。今年やるはずだった文化祭も、来年に延期になってしまった。高校3年生や中学3年生にはとても辛いことだろう。それでも、卒業という節目の年、私の絵を見て、何かを感じてもらえれば幸せだ。

そして、私自身も、「支え」があることに感謝しながら、日々生きていく。たくさんのおいしい実を実らせるために。

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優秀賞

自分らしく

新潟県上越市立城西中学校

3年 神田 このは

皆さんは「不登校」という言葉にどんな印象を受けますか。私は小学生の時、不登校になりました。そこからたくさんのことを学びました。私は不登校というものも、私を形成する一つの特徴であると思っています。

朝になると泣き叫び、嫌だとダダをこねる私を強引に連れて行こうとする両親。なんとかして来てもらいたいという先生の思い。何で来ることができないのかと興味津々の眼差しを向ける友達。当時の私は、そういった周りの人たちすべてを「敵」だと感じていました。自分でも学校へ行かなくてはいけない、という気持ちがあるものの、でもどうしても行かれないという状況をうまく表現できませんでした。

今思うと、私にとって学校は恐怖でしかなく、とてつもなく恐ろしい場所だったのです。しかし、私に関わってくれたいろいろな人たちのおかげで、私の気持ちは少しずつ変化していきました。

一人目は当時の保健室の先生でした。先生は私に「今あなたは心が風邪を引いている状態なの。だからそれが治るまでここにいていいのよ。」と優しく言ってくれました。その言葉に、私は初めて恐ろしい学校の中にもちゃんと居場所があるということに気づいたのです。

その後、どうしたら教室に入ることができるか先生と一緒に考え、両親に気持ちを伝えることができました。私に力をくれた二人目は両親です。両親と一緒なら教室に入る不安も軽くなるかもしれないと思ったのです。次の日から両親は交代で仕事を休み、毎日教室で私を見守っていてくれました。初めは、両親がいないと不安でたまらなかったのですが、そのうちに不安は徐々に減っていきました。

一人でも教室にいられる時間が増えるようになると、だんだん両親は早めに帰っていきました。給食後、3時間目の後、1時間目の後となっていき、とうとう朝、玄関で見送ってくれるようになりました。そうして学校は私にとって安心で安全な場所へと変わっていったのです。

今、振り返ってみるとさまざまな人の力を借り、乗り越えることができたのだと思います。仕事や生活を犠牲にしてまでも私のことを黙って見守り、支えてくれた両親もですが、学校の先生方もずいぶん配慮してくださいました。私が不安なく教室にいられるように、他のクラスメイトに働きかけもしてくれたのだと思います。そしてその思いに応え、私を受け入れてくれた友達にも感謝しています。

今、さまざまな悩みを抱えて生きている人すべてに、私は伝えたい。それは一人で悩まずに周りの人たちに助けを求めてごらん、ということです。きっとあなたの悩みを受け止めてくれる人がいる、ということを分かってもらいたいです。

学校は勉強するところです。それはとても重要なことですが、私は、まず自分らしくありのままで生き、楽しく笑って過ごせることが一番大切だと思うのです。そして今後は、少しでもこの思いを悩んでいる人に伝えて、誰かの役に立つことができれば、と思っています。そんなことを教えてくれた不登校。私は不登校を経験したのも無駄ではなかったと思います。それも含めて今の私だからです。

実は私には双子の兄がいます。見た目も性格も成績も、本当に双子なの? と驚くくらい違います。大勢の前で漫才を披露するほど、明るくひょうきんな兄ですが、私が学校に行けなくなっていた時には、たくさん嫌な思いをさせたと思います。それは子どもの言葉は時に残酷で、本当だからこそひどく傷つくものだからです。でもそんなそぶりは見せずに、ただ笑って私を見守り続けてくれました。今までは気恥ずかしくて言えませんでしたが、心から感謝しています。

太地、ありがとう。

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秀賞

私と青森の挑戦

青森県青森市立佃中学校

3年 小倉 千怜

「ニューヨーク生まれ」とか「香港出身」とか「ロンドン育ち」とかいう日本人をテレビや新聞で見るたび、私は、やきもちを焼いていた。なぜなら私は「青森生まれ青森育ち」だからだ。

思い浮かぶものといえば、「ねぶた」と「りんご」しかない、青森。私の住んでいる青森市は、田舎でもない、かといって都会でもない、本当に微妙な街だ。

東京ガールが、
「今度の日曜日、渋谷のカフェ行こう!」
と言っている時、青森民は、
「どうする? 日曜日何する? どこ行く?」
と言っているに違いない。

とにかく私は、もっとキラキラして、誇れる場所に生まれたかったと思っていた。あの夏までは。

昨年、生粋の青森市民なのに、初めてねぶたで跳ねた。そこには、私の知らない青森があった。心臓の奥の奥にまで響く太鼓の音。透き通り、また、力強い笛の音色。そして繊細な色彩も鮮やかに、今にも大声で叫び、動き出しそうなねぶた。どれも遠くから観客として見ていたときとは何かが決定的に違った。周りの跳人の生き生きとした姿。それは、私の心を奪った。

そうか。これが青森の夏なんだ。「完全燃焼」という言葉がぴったり似合う夏だった。

そして、再び「何もない青森」の「何もない秋」がくると思っていた。しかし、ねぶたで違う青森を見た私に訪れたのは、やはり違う秋だった。

教室から見える八甲田山が絵の具のパサパサした筆でチョンチョンと描いたように、美しい赤色、黄色に染まっていく。その美しい光景を今まで当たり前だと思っていた自分に驚きさえ感じた。

また、青森の冬が、普通なわけがない。あんなにカラフルだった木々も、雪をまとい白銀の世界の住人となる。本当に綺麗な光景だった。

そんなある冬の日、スキー場のリフトで隣に座った男性と少し会話をした。
「私、岡山に住んでて、今年青森に来たんです。本当に青森は寒いですね。」
「そうですね。」
「でも、魅力はどこにも負けないくらいあります。」などと、言おうとした言葉を、私は恥ずかしいからのみ込んだ。すると、
「でも、青森には海の幸がある。あれはどの県にも負けてませんね。」
と言われたので、
「そうですよ。」
と、さっきとは違う明るい口調で答えた。

どうして私のことを褒められたわけでもないのに、こんなに誇らしいんだろうか。嬉しいのだろうか。

ニューヨークにも、香港にも、ロンドンにも負けない、キラキラした青森。私は発見できた。ここに生まれてきてよかった。ここで育ってきてよかった。そう、心の中で強く思った。

このような体験をとおして、青森の魅力を世界中の人に知ってもらいたい。私を育ててくれた温かいふるさと青森に、恩返しをしたい。地域の人たちの支えになりたい。そう思い、私にはいつのまにか、県庁の職員になるという夢ができた。

中学生で公務員を目指している私は、時々、周りの友達に、
「地味な夢だね。」
と言われることがある。アナウンサーや保育園の先生など、やりがいがありそうでみんなが憧れる夢と比べたら私の夢は、周りから見たら、地味なのかもしれない。

でも私の夢は地味じゃない。自分を育ててくれた故郷への恩返しをする。絶対地味なんかじゃない。

この挑戦に向けて、私自身も変わっていかなければと思う。口先でいうのなら赤ちゃんでもできる。ここからが勝負なのだ。

何年か先、世界で最も魅力がある観光地として、人々が真っ先に思い浮かべるのが青森となるように、今できることを精一杯やってがんばりたい。

あの夏まで私は、自分のイメージだけの狭い世界にいた。これからは、もっと視野を広げ、自分で体験してみて、物事を判断していかなければならないと気づいた。また、人との出会いは、新たな知識やものの見方を与えてくれるものだから、大切にしていこう。いつか夢がかなうように。

私と青森の挑戦は、これからだ。

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秀賞

セット

青森県十和田市立三本木中学校

3年 野月 心愛

「オン・ユア・マークス…セット」。

第1走者がスタートした。さすが先輩。いいスタート。バトンはあっという間に第2走者、第3走者へつながる。カーブでも全くスピードが落ちない。流れるようなバトンパス。あのバトンを持って私はゴールを目指す。死ぬ気で走ろう。手を後ろに出す。待っていればバトンは自然と手に乗る。はずだった。しかし、いくら待ってもいくら手を伸ばしてもバトンは私に届かない。おかしい。振り返ると、バトンは地面に落ちて揺れていた。ガランガランと音を立て、いつまでも揺れていた。

また、同じ夢だ。心臓がドキンドキンと打って、夢の中のバトンが落ちる音と重なる。いつまで同じ夢を見るんだろう。どんなに悔やんだってやり直すことはできないのに。

「走るのが好き」そんな単純な理由で、私は中学で、陸上競技部に入部することを決めた。幼い頃から、背の並び順は前から1、2番目の私。たいていの競技は他の子に勝てなかった。でも、走ることだけは違った。地面を強く蹴ってなるべく大きく前に出る。人よりも速く次の一歩を出す。駆けっこだけは、体の大きな友達に負けなかった。

陸上競技部が練習するグラウンドで初めて先輩たちの走る姿を見た時、本当に感動した。何もかもすごい。腕の振り、一歩の大きさ、蹴りの強さ、そして、速さ。少しでも近づきたくて、先輩の背中を追いかけるように練習した。だから、最初の大会でリレーのメンバーに選ばれた時は、飛び上がるほどうれしかった。ましてや、その大会で優勝した時には、天にも昇る気持ちだった。「もっと速くなりたい」と強く思った。そう思うことは以前にもあったが、「先輩のために、チームのために」と自分ではない誰かのために頑張ろうと思ったのはこれが初めてだった。

そこから練習を積んで、地区大会も順調に勝ち抜き、この調子で行けば県大会も勝って、もしかしたら東北大会に行けるかもしれないと思っていた。その県大会の予選で、あのバトン落下のアクシデントが起きたのだ。私の手に一瞬触った冷たいバトンの温度は今でもはっきりと覚えている。なぜしっかりとつかまなかったのか。なぜ落としてしまったのか。私は1年生だったから、次の大会もある。でも、3年生に次はない。どうにもできない現実が私を苦しめた。後悔と申し訳なさで顔を上げられない私に、先輩たちは、 「心愛にはまだ挑戦するチャンスがあるんだよ。今こうやって泣いている間にも練習して速くなってるライバルがいるかもしれない。次に向かって頑張れ。」 と励ましてくれた。今まで目の前の試合のことしか考えていなかったが、「県大会の決勝を走る」という3年間を通した目標ができた。

その目標を支えに頑張ってきた。勝ってうれしかった試合もあったが、悔しい試合の方が多かった。0.2秒の差で負けたリレー。大会直前に怪我をして思うように走れなかった試合。ライバルたちが県大会の決勝に進出している姿を、泣きながら見た。やっと怪我が治り、冬季練習に入ったが、久しぶりの練習はきつく何度も心が折れそうになった。そんな時私を支えたのは、悔しかった思いと、大きな目標と、仲間の「ガンバ」という声だ。最後の夏はもう目の前に来ている。最後こそは、笑ってゴールしたい。

しかし、コロナウイルスの影響で3月以降の大会が次々と中止になった。さらに休校で部活動さえできなくなった。それでも夏の大会だけは開催されることを信じて、自主練習を続けた。それなのに…。5月の初め、目標にしていた最後の大会も中止になったと告げられた。「仕方のないことだ」分かってる。「命を守るための決断だ」分かってる。分からないのは、何のために私は頑張ってきたのかということ。3年間追い続けてきた夢は、挑戦するチャンスすらもらえずに消えてしまった。「引退」という2文字が、突然目の前を大きく塞いだ。今まで一緒に頑張ってきたみんなも同じ気持ちだった。けれど、「このままでは終われない」という気持ちもまた、同じだった。私たちは、いつかきっと大会が開かれると信じて、また走り始めた。

9月5日、全日本中学校通信陸上競技青森県大会の開催が決定した。6月の大会中止を受けて、友達が次々と受験モードに入る中、練習を続ける日々は辛かったが、やっと走れる。挑戦できる。私の中学校最後の挑戦が始まる。9月5日、私はきっと決勝のスタートに立ってみせる。ゴールはまっすぐ走った先にある。けれども、本当のゴールは100メートル先ではない。もっとずっと先にある。ゴールした場所が、次の挑戦へのスタートだ。チャンスがある限り、挑み続けよう。

「オン・ユア・マークス…セット」。

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秀賞

命の大切さ

岩手県岩泉町立釜津田中学校

2年 佐藤 夢菜

皆さんは動物の命についてじっくりと考えたことがあるでしょうか。私は、家で生まれた子牛との3日間の出来事で、心から命について考えさせられました。そのときのことは一生忘れてはいけないと思います。

私の家では、昔から牛を飼っています。その影響もあり、私は牛が大好きです。牛と過ごしている中で、命の「喜び」と「絶望」を体験しました。そして、
「獣医さんになりたい」
私には夢ができました。そう思えた出来事は、今から2年前にありました。予定日を2、3日後に控えた親牛は、お乳も少しずつ張ってきて、私もあと少しで生まれるなあとウキウキした気持ちでした。

その日の夜、親牛の鳴き声で私は目が覚めました。牛舎に急いで行ってみると、予定日を控えた親牛の後ろに子牛が横たわっていました。冷え切った体を抱きかかえて隣の牛舎で体を温めました。どうにか命は助かりました。私は、次の日学校だったので、あとは父と母に任せて寝ました。

学校でもずっと子牛のことが頭から離れませんでした。一緒にいてもっと見ていれば辛い思いをさせなくてもよかったのかもしれないと、私は自分を責めました。と同時に、自分は無力だという現実を突きつけられました。でも、「今自分にできることをして、命をつなぎ止めたい、自分が弱気になっては駄目だ、もっと苦しいのは子牛の方なんだから」と小学生なりに思っていました。

学校が終わり家に帰ると、私は牛舎に走りました。子牛は顔を上げてくれました。私は子牛の隣に座り込んで体をタオルで優しくさすりました。何回も何回も顔を近づけてくっつけました。子牛と私の間には、「家畜」という壁なんかありませんでした。家族同然の存在だからです。

父が牛舎に来たので、私は聞きました。
「この子牛、立てるよね。」
「立てないかもしれない。」
父は言いました。元気そうに顔を上げた子牛が立てないなんてことがあるのかと正直信じられませんでした。でも、夕方ミルクをあげるときに分かりました。補助なしでは子牛がしっかり立てないことを。しかも生まれてからそれまで1回もミルクを飲んでいませんでした。このままでは栄養不足で死んでしまうと思い、獣医さんに来てもらいました。しかしあまりよい治療は見つからず、注射だけになりました。そして、胃に直接ミルクを流し込むことにしました。私は初めて見るやり方に、興味津々に見ていました。

その後立たせてみると、ふらつきながらも子牛は1人で立てるようになりました。私は感動しました。

もう死んでしまうかも…と思ったのに、自力で立ち上がってミルクまで飲んでくれました。小部屋の中を1人で歩けるまで回復しました。私はこれで元気にすくすく育つと思い、笑顔になりました。子牛もなんだか笑っているように見えました。

生と死の間をさまよっていた子牛が、今は元気に歩いていると思うと、伝えきれないぐらいのうれしさがあります。

次の日、学校から帰って牛舎に行こうとしたとき、弟が私に言いました。
「子牛、死んだよ。」
私は嘘だと思いながらも、恐る恐る牛舎に行くと、昨日あんなに回復したはずの子牛は、わらの上に頭を下げていました。体は冷たく冷え切っていました。私は思わず、「なんで、なんで」と言いながらその場で泣きました。
「助けられなくてごめん、絶対助けられると思ったのに、ごめん。」

あの時立って歩いたのは最後の力を振り絞って歩いてくれたのだと私は思いました。子牛が死んだ原因は今でも分かりません。

その日の夜、父と私は死んだ牛たちが運ばれて行く場所に子牛を連れて行きました。クレーンでつり上げられた子牛を私は見ることができませんでした。

私たちは家畜動物の「命」をいただくことで生きているし、畜産農家が生きていくためなので、しょうがないことです。家畜の牛にとっては、最終的にはお肉になって皆さんの食卓に並んで「おいしい」と言ってくれるのがうれしいと思います。でも、あの子牛のように、病気や事故により命が報われなかった牛も中にはたくさんいます。そんな家畜動物たち、私にとって家族同然の牛たちを守り育てるために、夢に向かって頑張っていこうと思います。

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秀賞

会ったことのない曽祖父に

岩手県盛岡市立見前南中学校

2年 田村 はな 

「はなは、どんどんひいおじいちゃんに似てくるねえ。」

毎年二戸の祖父母の家に行くと、決まってそう言われる。仏壇の上に掲げられた曽祖父の写真。優しい目元で、わりとハンサム。眼鏡がよく似合っている。私は1度も会ったことはないが、似ていると言われると、妙に興味がわいてきて、「会って話してみたかったな。」と思ってしまう。似ているのは外見だけではないらしい。何気ない私の仕草を見ていた祖父母から「ひいおじいちゃんも事前にちゃんと準備しておかないと気が済まない人だったよ。そんなところも似ているんだな。」と言われたこともあった。

お盆にお墓参りに行った時、不思議なことがあった。父や母とは違い、私が手を合わせて拝んだ時に線香の煙が大きく揺れ、ふわふわと辺りに広がった。なんだか曽祖父が、私が来たことを喜んでくれているようで、うれしかった。

以前、間違えた言葉遣いをして恥ずかしい思いをしたことがあった。落ち込んでいた私に祖母は曽祖父の苦労話を教えてくれた。曽祖父は役場勤めで、みんなのまとめ役だったという。そんな曽祖父だが、学生の頃は戦争中だったので、思うように勉強できず、社会に出てから困ったことも多かったらしい。特に言葉遣いは苦労し、たくさん失敗もしたというが、それでも努力を惜しまず仕事をし、周りの人たちからの信頼を集めたそうだ。そんな話を聞いているうちに、ちょっとした間違いで落ち込んではいられないと前向きに考えられるようになった。会ったこともない曽祖父のことを知るたびに、今の自分と重ねて考え、ますます曽祖父に親しみを持つようになっていった。

私は中学校に入って、やったことのないバドミントンをやろうと決めた。ルールも何も知らないゼロからのスタートだった。入部当初の目標は「ダブルスで1位になること。」しかし、私は不器用だから練習してもできないことは多かった。審判もうまくできない、思うように結果も出ず、勝てなかった。初めての試合は、自分の試合で負けたら終わりというプレッシャーの中始まった。それに、周りは経験者も多く、試合の流れも速かった。不安と緊張で足が全く動かず、自分の力を発揮することはできなかった。初心者だから仕方がないと先輩たちは慰めてくれたが、私は先輩たちに迷惑をかけたという申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それからは負けたくないという思いで、必死に先輩たちについていこうと努力を重ねた。審判をして私のミスで何度も試合を中断させてしまったこともあった。プレーがうまくいかず、一人で悩むこともあった。でもそんな時、先輩は私に共感し、指導したり励ましたりしてくれた。また、仲間も私を優しく励まし、支えてくれた。だから今もみんなと切磋琢磨し合いながら成長できている。

生前、曽祖父が残した言葉がある。「恥や失敗を知っている人は、必ず何かを学び、力になって、いつかそれが役に立つものだ。」

曽祖父は分からないことや気になることがあるとすぐにメモをしたそうだ。それだけではない、一日の反省や感じたこと、よいと思ったことなど、仕事のことだけでない、いろいろなことがびっしりとメモ帳に書き込まれている。それを見れば、曽祖父の実直さ、まじめさ、ひたむきさがよく分かる。それはもちろん、私に向けて書かれたものではないが、なんだか私に語ってくれているように感じ、今までも失敗したり、恥ずかしい気持ちになったりした時に思い出している。

曽祖父のメモ帳の中にひときわ太い字で書かれたものがある。

「人は一人では生きられない。誰かに支えられて、守られて生きている。我慢、感謝をして努力する。誠実に精一杯生きるのだ。」

堂々とした字で書かれた言葉。この言葉を後にひ孫が見て、その言葉に励まされているとは考えてもみなかっただろう。何十年も前に書かれた言葉ではあるが、今を生きる私にいろいろなことを教えてくれる。

私は曽祖父を尊敬し、こんな人になりたいと思っている。以前は会ったこともない人に似ていると言われることがそれほどうれしいとは思わなかった。しかし、今はとてもうれしい。

入部当初からの目標は「ダブルスで1位になること。」今はそれに「県大会で上位に入ること。」も加わった。まだまだ高すぎる目標だが、実現できるように曽祖父の残してくれた教えを糧にしながら努力し続けていきたいと思っている。

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秀賞

心を照らすもの

秋田県由利本荘市立本荘北中学校

3年 小川 絆夏

――ドキン。心臓の鼓動が体中を駆け巡る。20段ほどの階段を上がれば、そこは本番のステージだ。暗闇の中聞こえてくる、演技中の音楽や観客席からの歓声が、体に絡みつき、心と体を重くする。ついさっきまでいた奈落には、既に次のチームの活気ある練習の声や笑顔があふれている。出番を待つ真っ暗な舞台袖で、激しい孤独感と闘っていた。

私は、3歳からダンスを始めた。4つ上の姉と共にスタジオに通い始め、今年で12年目になる。小さな頃は、ダンスはただただ楽しいものでしかなかった。泣いても無表情でも「かわいいね」とみんな声をかけてくれた。いつも舞台の中央で、他のメンバーを背に踊っている自分がとても誇らしかった。

ところが、学年が上がるにつれ、自分のポジションが徐々に端へと移っていくたび、自信は失われ焦りが生まれた。他の子よりも力が劣っているのではないかという思いが自分を苦しめた。踊っている目線は周囲に散り、足を上げる高さ、柔軟性、ジャンプ……自分と周りを比べることに夢中になっていった。

そんなとき、先生に紹介された全国JDAダンスコンクール。資料映像の中の個性あふれる衣装、メイク、髪型で華やかに踊る人々。当時小学校4年生だった私は、迷わず挑戦を決めた。自分の実力を試したい一心だった。週に5回、自宅から車で1時間かかるスタジオへ練習に通った。家に着くと、夜の11時を回っていることが当たり前だった。

そうして臨んだコンクール。自信に満ちあふれて見える出演者とすれ違うたびに緊張が高まる。いつもより早く息が上がり、練習もうまくいかない。本番のステージに向かう階段を1段、また1段と上がるたび、緊張と恐怖、プレッシャーは大きくなる。

しかし、舞台袖からステージへ飛び出した瞬間、私にスイッチが入る。客席はかろうじて最前列の人影がわかるぐらいで、ステージを照らすまばゆい光の中にのみ込まれていくような感覚だ。観客に、審査員に、自分のこれまでの努力を見せるんだ。そんなわくわくした気持ちが自然と笑顔にさせた。コンクールの舞台は、自分自身と向き合うことの大切さと、再び踊る楽しさを教えてくれた。「ダンスで人を応援し、励まし、感動させられる人になりたい」という目標もできた。

そして今年。5度目となるコンクール。私は姉とチームを組むことにした。姉のダンス技術は私よりはるかに上で、2人でチームを組むことは、姉に見劣りしない演技が要求されるということだ。姉にレベルを合わせてもらうと、かえって良さは失われる。レベルバランスの重要さは十分わかっていた。「中高生部門」に姉と共に出場できるのは今年が最後。挑戦したい気持ちが、迷う背中を押した。

5月のコンクールに向け、準備を始めた1月。ニュースで、これまで聞いたこともなかったウイルスの名前をアナウンサーが連呼し始めた。初めは、遠いところで何か事件が起こっているといったまさにひとごとで、そのうちに収まるだろうと楽観的に考えていた。

しかし、その遠い遠いはずの事件は、急に私のそばにやってきた。2月末、学校が休校となった。自分の身に変化が迫って初めて、大変な事態なのだと気がついた。コンクールも延期が決まった。開催は9月。中止ではないことに安堵しつつも、4カ月先への延期は、ダンス練習では異例の事態だった。

いつもよりも注意深くテレビのニュースを見る日が続いた。感染者の数はみるみる膨れ上がっていく。高齢者の重症化報道に、同居する祖父母の存在が頭をよぎった。同じ振り付けを半年も練習し続け、モチベーションを保つことに必死になりながらも、ウイルスと社会が闘っている中、踊っていてよいのか、迷いが生じていた。スタジオの皆も同じだった。

8月。「棄権しよう」と姉と2人で決めた。苦渋の決断だった。本当はあの舞台で踊りたい。けれど、どんなに良い演技ができたとしても、大切な家族を危険にさらして心から喜べるのだろうか。後悔するようなことにならないだろうか。正しい決断をしたとわかっていても悔しかった。練習してきた半年間が、日の目を見ることなく埋もれてしまう……。

そんなとき、ある提案が心を明るく照らした。先生のために踊ろう。3歳から一緒に過ごしてきた家族のような存在。これまでの感謝をダンスで伝えよう。スタジオで、私たちは心を込めて踊った。先生の笑顔と拍手が心にしみた。コロナは、ダンスの機会を奪っていった。それと同時に、当たり前のように思っていた大事なことに気づかせてくれた。ダンスを踊れる楽しさ。それは、たくさんの人の応援と支えがあってできるということ。それらの存在を大切にできるから喜べるということ。この思いを胸に、私はこれからも踊り続ける。

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秀賞

一歩を踏み出すために

秋田県横手市立増田中学校

2年 鈴木 芽依

私には、つい口をついて出てしまう言葉がある。「でも」「どうせ」「私なんか」の3つ。見事なまでに後ろ向きな言葉だ。意識したことはなかったが、母から指摘され、自分でも気にしてみると、たった1日でもかなりの回数、口にしていることがわかった。

勉強で、みんなをあっと言わせ、親にほめられるようなすごい点数を取ってみたい。部活動では、「やっぱり、トランペットは花形だね!」と賞賛されるような素敵な演奏をしてみたい。好きなアイドルのライブや、テレビで見たきれいな景色の外国に行ってみたい。なりたい自分、やりたいこと、「夢」はたくさんあるけれど、そのためには、どれだけ努力をしなければならないのか、どれだけの運が必要なのか、考えただけで途方に暮れてしまう。

そして、夢の実現を考えたときに、私の得意なせりふが頭に浮かんでくる。わからない数学の問題を過去にさかのぼって復習し直す労力、うまく吹けないメロディーを嫌になるほど繰り返し練習する根性。すべてを出し切る前に、「どうせ」「私なんか」「やったってできっこない」、と思ってしまう。できる限りのことをやったとする。「でも」うまくいくかわからないじゃないかと考えてしまう。

こんな言葉が脳裏に浮かんでくるのは、単に努力したくない怠け心のせいだと思っていた。でも、自分の気持ちをよく考え、振り返ってみると、本当の理由はそうではないことに気付いた。

その理由とは、きっと自分が一生懸命に努力した結果、思うような成果が得られなかったり、人から認められなかったりするのが怖いのだろうということだ。自分では、できる限り努力したつもりでも、友達の方がよい点数を取るんだろうな、練習を重ねたのに失敗して笑われたら嫌だな、そんな自分のネガティブな空想が努力することをやめさせていたのだ。やらなければ点数だって技術だって向上しないのは当たり前で、私はそんな現状をどうにかしなければと思いつつ、傷つきたくない一心で殻に閉じこもっていたのだと思う。

去年の12月、祖父が亡くなった。病気が判明してからわずか4カ月だった。あっという間の出来事で、信じられなかった。私は、お見舞いに行っても、涙がこみ上げてきそうで、集中治療室の祖父に「じじ、また来るからね。」と声をかけるのがやっとだった。孫の私がこうなのだから、娘である母はどんなに悲しいだろう、母が泣き出したらどうしよう、と心配したが、母が泣くことは一度もなかった。

会社を経営していた祖父のあとを継ぎ、いつ寝ているのかわからないほど忙しそうな母に聞いてみた。「なんで泣かないの? 悲しくないの? 仕事はわからないことばかりで嫌にならない? 失敗するのが怖くない?」と。すると母は笑いながらこう話してくれた。「はじめのうちはわからないことばかりでとても困ったし、お客さんからの苦情も怖かった。でも、失敗したらきちんと謝ろう。そして2度と同じあやまちを繰り返さないようにすればいいやって腹をくくったから、あとは頑張るだけなんだよ。」と。

女手一つで私と兄を育てていかなければならない母は、祖父の死で会社も抱えることになり、必死なのだと思う。そんな母を取り巻く状況では、私のよく言う言い訳の言葉は通用しない。日々、私たちのために頑張っている母の姿を見て、私も変わりたい、変わらなければならないと思うようになった。

まずは、頑固な思い込みをなくすことから始めたい。失敗を笑う友人なんていないはずだ。むしろ、励ましてくれるはずだし、失敗したくなかったら、誰よりも練習すればいいだけのこと。新しいことをするのがおっくうだと思うのはもうよそう。もしかしたら、すごく上手にできるかもしれないし、すらすらと理解できるかもしれない。どうしてもできなかったら、やり方を変えてみればいい。これまでと異なるやり方で取り組むことは、イコール新しい自分を発見することなんだと思う。できるかどうかわからないなんて、誰にも見通せない先のことを不安に思って時間を浪費するよりも、よい結果を求めて努力を重ねることの方がよいのはわかりきっている。今までは、やりたいことでも、手を挙げるのをためらっていたけれど、これからは勇気を出して、声を上げてみよう。

「同じ泣くなら、悲しいことじゃなくて、うれしいことで泣きたいね。」母の言葉だ。祖父が亡くなっても、悲しみにひたる間もなく、泣くこともできなかった母のためにも、私は変わりたい。母に私の成長を認めてほしいし、うれしいことで泣かせてあげたい。そんなひそかな思いを心に秘めて、今、私は新しい自分を実践中だ。

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秀賞

私の成長

宮城県柴田町立船迫中学校

3年 黒澤 里菜

「私はみんなと違うのだろうか。」ずっと、そう問い続けてきた。普段から身の回りの些細なことを気にしてしまう私に、周囲の人は
「そんなの気にすることないよ」
と言って笑う。私は不思議だった。周囲の人の思う気にしすぎは、私にとっての普通。気にしてしまうことは、おかしなことなのだろうか。周囲の人が居る世界は私が見ている世界ではない別の場所にあって、私だけがひとりぼっちでいるように感じ、寂しさを覚えた。それと同時に、自信も失ってしまった。

それからは、自分のことを不思議に思うようになった。たしかに、私は周りの人とはどこか違う気がする。他人と自分の違いによる違和感を感じてからは、自分自身をもっと知りたいと思うようになった。しかし、いくら自分を見つめても答えは出なかった。

美術の授業のとき。私は、作品を完成させるにあたって、人一倍も時間がかかる。それは、小学生の時も今も同じだ。

「丁寧に取り組むことも大切だけど、時間内に終わらせることも同じくらい大切です。」
何度も言われたことがあるこの言葉。私には、とてもハードルが高いことのように感じる。どうしても、細かなところが目につく。そして、過ぎてゆく時間に対して作品はなかなか終わらず、焦りや不安が募り、空回り。時間が足りずに結局、未完成のままで終わってしまうことも少なくない。

些細な部分にも目を向け、地道に仕上げていったことで、賞を取った作品もあった。ずば抜けた才能があるとは到底思わないが、誰よりも丁寧に作品と向き合う精神は自慢できる。吹奏楽部に所属していたときは、音楽という作品を誰よりも美しく仕上げることに全力で取り組み、誰よりも生き生きとしていた。

しかし、やはり違和感は消えなかった。仲の良い友達はいるのに、なぜかひとりぼっちでいるような感覚が、私にまとわりついていた。

そんなある日、SNSで偶然「HSP」と言葉が目に入った。これは、ハイリー・センシティブ・パーソンの頭文字を取った、人一倍敏感な気質をもつ人という意味の言葉だ。興味本意で調べてみると、特徴のほとんどが自分に当てはまっていた。大まかには、生まれつき「高い共感能力をもつ」「深く情報を処理する」「些細な刺激や変化にも敏感」という特徴がある。他人の機嫌に影響を強く受けてしまうこと。物事を納得のいくまで考えずにはいられないこと。さまざまなリスクを無意識に予測し、異常に恐れてしまうこと。これらの「気にしすぎ」に悩まされていたのは、自分だけではなかったのだと初めて気付かされた。それは、言葉にしきれないほど嬉しく、今までの孤独や焦りはなかったかのように消えた。

そして、自分がHSPだと意識し始めてから気付いたことがある。私は、身の周りの美しさを感じ取り、繊細に味わうことのできる感性をもっていた。しかし、中学生になってからは徐々に忙しくなり、効率や生産性を優先させるようになってしまっていた。そのため、夕日を眺めたりなどの娯楽とは距離を置くようになり、常に時間に追われているような感覚でいた。また、過去を振り返ってみると、何気ない幸せを大切にしている時間が、何よりも充実していて、心を満たしてくれる存在だった。日常の微かな幸せを、明日を生きる活力に変えることのできるこの感性は、私らしさを生み出しているともいえる。だからこそ、人の優しさや芸術の美しさなど、心にそっと明かりを灯してくれるものを味わう時間は、私にとって大切にしなくてはならないものだと思う。

今まで以上に自分を知り、思っていたよりも長所があることを知った。それによって、自分を少しずつ受け入れることもできた。最近は、うまく言葉にできなかった感情や生きづらさもようやく伝えられるようになり、私を理解してくれる友人もいる。しかし、中学校を卒業すれば新たな環境に慣れ、当然、新たな人間関係を築くことになるだろう。その際に、自分とは違う特徴をもつ人と出会い、違いに戸惑うときがあるかもしれない。そのようなときでも、自分らしさを忘れず、かつ相手の個性を尊重する意識をもちたい。

最後に、「普通」「正解」「常識」「当たり前」、私は今まで、これらの言葉に振り回されていた。しかし、この世界はきっと、白と黒ではなく、全てが色彩豊かなグラデーションによって成り立っているのだろう。そして、私もそのうちの一色なのだ。だからこそ私は、これから自分の個性に誇りをもって人生を歩んでいきたい。

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秀賞

存在証明を描く

宮城県気仙沼市立気仙沼中学校

3年 村上 愛弥

ペンが動く。線が引かれていく。

何の変哲もない動作が、私には特別な動作。

幼い頃から、気がつけば利き手にはペンやクレヨンが握られていた。私には当たり前のこと。紙に線を引いて、父や母に見せるとほめてくれる。笑顔を見せてくれる。私の絵で人が笑顔になってくれるのが、嬉しかった。

小学校5年生のとき「イラスト」という絵のジャンルがあることを知った。自分もアニメや漫画のようなかわいい絵が描きたくて、本屋さんで子ども向けの「イラストの描き方」という本を買ってもらった。ここから今日まで、私は独学の5年間に入った。誰しも最初からうまく描けるわけではない、そう思いながら必死に練習した。参考書もノートも年々増えていった。

私はもともと、教室の隅っこで絵を描いているだけの「おとなしい子」。それ以上でもそれ以下でもない。それはまるで、誰もいない喫茶店の隅っこで、自分だけの空間に入り込んでいる人、のような感覚だった。そんな静かで薄暗い空間に、来客があった。

「ええ、すごい。絵、うまいじゃん。」

初めて絵のことで声をかけられた。突然のことで、何と言って返せばよいかわからなかった。「ありがとう」と言い返せなかったのは、自分ではうまく描けていないと思っていたから。とりあえずその時の私にできたのは、小さく笑い返すことだけだった。その日から私が絵を描いていると、机の周りを、人がぐるりと囲むことが多くなった。少し恥ずかしかったが、なんだか温かい気持ちになった。ランタンにポッと火が灯ったような、そんな温かさ。

少しずつ絵も上達したような気がした頃、学校生活の中でも、何かと頼まれごとが多くなった。運動会の学級旗やちょっとした学級文集の表紙や挿絵などだ。6年生になると、卒業文集のクラス表紙も担当させてもらった。クラス内では、「絵と言ったら愛弥」ということになっていたらしい。

中学生になって、タブレット端末を買ってもらった。そして今度は、「デジタルイラスト」というものを知り、それに挑戦するようになった。初めは、絵を描き始めた頃のように困惑することがたくさんあった。それでもやはりいろいろ学んでいくと、いつもの自分の世界観を作ることができてきた。なんだ、簡単じゃないか。手はするすると、線を、色を、生み出していく。次第にSNSにも自分のイラストを載せるようになった。もっと自分の絵を見てほしいと思う気持ちがあった。そこは私の知らない、素敵なイラストがたくさんきらめく遊園地。その世界で、私の心は観覧車のように、ゆっくりと動いていた。

中学校では、小学校のときよりも、さまざまなもののデザインを任されることが多くなった。行事のしおりの表紙、学校新聞のタイトル、校舎内の案内表示、文化祭の個人作品……。

そしてこの夏、3学年全員で着るオリジナルTシャツのデザインに関わらせてもらった。最初は、私に服のデザインの才能なんかない、と思っていた。けれども、着てくれるみんなの顔を思いながら描き始めてみた。みるみるうちに、アイデアが浮かんでくる。

初めて全員でTシャツを着た、運動会の日。私がデザインしたTシャツを着ている仲間の姿を見ても、それが当たり前かのような感覚。嬉しいのか、感動なのか、自分でもわからない。ついこの前まで、私の頭の中にしかなかったデザインが、Tシャツにプリントされ、それを着た仲間が一列に並んでいる。雲の中にいるような、不思議な気持ちになった。それでもそこから、自分で何かをデザインする楽しみを知り、自ら洋服やキャラクターのデザインもするようになった。

今思えば、小学生の時に「イラスト」というものに関わっていなければ、描くことも見ることもできない世界であったと思う。だからこそ、絵を描き続けて本当に良かったと思う。

絵を描き始める前までは、自分は個性も何もない人間だと思っていた。けれども今は違う。自分のためだけにあった、この大切なもの。いつか、私の手で作り出すもので、人を、多くの人を笑顔にし、その心に明かりを灯す仕事に就きたいと思う。身近な人も、遠くの人も、言葉が通じない他国の人も、皆同じように笑顔になれるのは、とても素敵なことだと思う。

そんな目標を達成するため、今日も少しずつ、自分の世界を作っている。私はそこに、創作者としていつまでも居続けたい。

それが、私の存在証明なのだ。

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秀賞

僕と農業

山形県舟形町立舟形中学校

1年 伊藤 奏和

今春、新型コロナウイルスが流行し、学校が休校になった。入学式はしたものの、次の登校は1週間後。僕は、その間、祖父の手伝いをすることにした。

ある日の朝、祖父が部屋の扉を開け、僕に
「畑さ行ぐげど奏和も行ってみねが」
と言った。何もすることもなく、暇だったので
「うん、わかった」
と軽い気持ちで返事した。畑は、家の近くに5カ所あり、その場所、その場所で植えている物が違う。今行く畑は、『カラ』という畑だ。名前の由来は、河原に作った畑。それを略して、カラという名前になったそうだ。カラの畑では、2年前、8月の大雨で2度も畑に水があがってしまい、その時植えた野菜は全部流されて、畑の砂も全部川に持っていかれた。しかし、祖父は一人で再生させた。広さは15アール。祖父は行く前、僕に
「カラさは自転車で行げな」
と言ってきた。
「どうして。車で一緒に行ってもいいのに」
という疑問を残したまま、祖父とは別に僕は一人で自転車で向かった。すでに、祖父は作業を始めていた。この日は、トラクターで畑の土を耕す予定だ。だから、僕に自転車で行けと言ったのだ。すぐに僕は祖父に 「俺は、何をするといいの」
と聞いた。祖父は
「まず見でろ」
と言ったので、黙って祖父の畑仕事を見ていることにした。祖父は、はじめに消石灰、石灰窒素をまいていた。半分位終わったところで、さらに奥に移動していった。奥にあるもうひとつの畑は、祖父が新しく開拓して作った畑だ。途中でトラクターを止め、僕に
「こごさ奏和の畑ば、作ってやる」
と言った。えっと思いながら祖父に
「畑の作り方を教えて」
と言った。祖父は、早速、棒と棒にひもを結んだものを持って、
「メジャーでゼロセンチにイボ竹を立て、60センチ間隔を2本立てる。そして、ひもを張ったところに、次は鍬で外側の土を中に寄せてならす」
と説明し始めた。いよいよ僕の出番だ。祖父から言われた通り丁寧に、そして慎重にイボ竹を立てる。ひもの間の土も、ゆっくりと中に寄せる。やっとの思いで、畝が完成。

僕は、祖父の畑作業を見て、つくづく昔の人はすごいなあと感心してしまう。当時、人々は畑を耕す作業も何をするにも、全部手作業で行っていたはずだ。その中で工夫を重ねていったのだろう。今はすごく便利だと思うが昔の人の知恵と技術はすごいと改めて思う。

幾日かして、僕は祖父に家の裏の田んぼを1枚貸してほしいとお願いした。すると、祖父は、ニコニコしながら認めてくれた。田んぼ1枚、僕の畑だ。早速カラの畑で学んだことをやってみようと思い、自分でスコップや鍬を使い、耕してみた。ところが、少しの面積を耕すだけで、すごく疲れる。何とか半分を耕して、この前祖父から教わった作り方で畝を作ってみた。普通の畑とは違い田んぼの土は、ずっしりと重くて大変だった。夜になって僕は何を植えるかも考えた。すぐに頭に浮かんだのがスイカ。しかし、他にはなかなか思いつかず祖父に聞いてみることにした。すると祖父は、
「農業1年生だから簡単なもの。例えば、ピーマンやトマトを植えてみたら」

スイカにピーマン、トマトか。いっぱしのファーマーだ。布団に入ってからもわくわくしてなかなか寝つけなかった。翌朝、苗木屋さんに行くと、僕はトマト、ピーマン、ししとう、パプリカ、メロン、スイカ、南瓜の苗木を買った。自分の畑に植えに行った。そしてすぐに見てもらった。すると祖父は
「植えてすぐは根っこが弱っているから、水をかけろ」
とアドバイスしてくれた。どんな葉ができるか、実はなるか毎日ドキドキしながら畑に向かった。そんな農業生活を送っているうちにやっと学校は再開した。

7月上旬、僕は、噴霧器で栄養剤をまいた。すると、7月20日にピーマンがとれた。今は、スイカやパプリカが毎日のように収穫できる。世間の人が言う通り、自分で作った野菜はすごくおいしい。コロナ休みから産声をあげた新米ファーマー。僕のもう一つの顔だ。来年、再来年、もっともっとおいしい野菜を作ってみたい。そして、そこには、畑の中で小さくガッツポーズをしている僕がいる。

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秀賞

思いを受け継ぐ

山形県尾花沢市立尾花沢中学校

3年 西尾 セルシャ

父のことを語ればきりがない。アイルランド出身で、日本の高校で英語を教えている。来日前から空手を習っていた。加えてグレイシー柔術や忍法体術まで身につけている。どれ一つとっても珍しい人物だ。さらに、父はアイルランド独立の戦士でもある。1919年に始まったアイルランド独立戦争において、父の家族は代々戦ってきたという。父もその意志を受けて陸軍に入り、祖国の自由のために奔走した。私の名前「セルシャ」の綴りは「Saoirse」。アイルランド語で「自由・独立」という大きな意味を持つ言葉でもある。

ではなぜ独立戦争が起こったのか。尋ねると父は経緯を細かく教えてくれた。いわゆるアイルランド独立戦争が始まったのは100年前だが、実はアイルランドは800年もの間、各時代において、イギリスからの独立を保持しようと人民たちが立ち上がり、戦ってきたのだという。壮絶な歴史である。現在は休戦協定が結ばれているが、父曰く、イギリスがEUから離脱したことにより、北アイルランドとの境界の線引きなどを巡って一触即発の状態になるのではと危惧しているとのことだ。

日本では、アイルランドの独立や北アイルランド問題について、歴史の授業にはほとんど出てこない。だからほとんどの人はこの問題を知らないし、アイルランドとイギリスの区別さえつかない人も多いと思う。父がアイルランド出身で、独立戦争に関わってきた家系であったからこそ知り得た事実である。

そんな歴史の一方で、アイルランドにはケルト民族としての文化も根強く残っている。父の家族もアイルランドの伝統音楽に親しんできた。父はイリアンパイプを演奏するが、その楽器は父方の祖父の手作りである。家にあるアイルランドのヴァイオリンと言われるフィドルは、少なくとも100年以上前のもので、母方の祖父から受け継いだものだそうだ。家には他にもアイリッシュフルートやバウロン、ティンホイッスルなどがあり、父の呼びかけで私と妹、弟が楽器を演奏してセッションすることもある。家には常に音楽があり、家族みんなが音楽を愛してやまない。そんなわけで以前からフルートにはなじみがあって、中学校で吹奏楽部に入部し、偶然フルートの担当になった時は驚いたものだ。

もう一つ父が大切にしていることがある。それは、アイルランド語を後世に伝えることだ。アイルランド語は英語とは似ても似つかない言語で、アルファベットも18文字しかない。私の名前の綴り「Saoirse」も、英語読みでは発音に戸惑うだろう。現在はアイルランドでも、学校の授業の中でアイルランド語を学ぶことはあるが、日常会話はほぼすべてが英語で、アイルランド語を使う人は少なくなってしまったそうだ。実は3年前、父と一緒にアイルランドを訪れたのだが、その時にもいとこたちは全くアイルランド語がわからず、私たちがほんの少し使っていただけで驚いていたほどだ。言葉は文化であり、言葉が失われると、その国独自の文化も失われていくことになる。父は何とかしてアイルランドの文化を守ろうとしているのだと思う。私も最近思い立って、父からアイルランド語を学び始めた。私が覚えたての言葉で父に話しかけると、父はとても喜んでくれる。

3年前、初めて実際にアイルランドを訪れてみて、父の話からだけでは伝わらない生の景色を見、空気を感じることができた。初めて知ったこともたくさんあった。小高い丘には妖精が住み、身の回りのすべてに妖精が宿っているというものの見方。5000年前に造られたというニューグレンジにはさまざまな伝説があり、冬至の朝日を内部の部屋に正確に取り込むよう設計されていること。

ニューグレンジを初めて訪れ、実物を見た感動は今でも忘れられない。辺り一面の緑と白い石のコントラスト。中に入り、暗い通路を一筋の光が駆け抜けて奥の石室を照らした時、時間が止まったかのように思えたこと。記憶が鮮やかによみがえってくる。あの場所にいると、秋の風のような、凜としているのに心地よい何かに包まれている気がした。あの時の私は、大きな自信に満ちあふれているような気分だった。アイルランドという国の神秘性を感じ、ますます興味を引かれるきっかけとなった。

あれから3年。今は渡航することも難しくなっているが、アイルランドが父の祖国であることは変わらない。私はアイルランドという国と繋がりが持てたことを幸せに感じ、誇りにも思う。父の思いを受け継いで、アイルランドの歴史と伝統文化を大切にし、後世に伝える手伝いができたらと考えている。そのために何ができるか、今の私にはまだよくわからないが、まずは父の話に耳を傾け、少しずつ言葉を学ぶ努力を続けていくつもりだ。

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秀賞

思考の先にあるもの

福島県須賀川市立西袋中学校

1年 大石 悠叶

2020年、今まで生きていた中でこれほど世界の危機を肌で感じたことはあっただろうか。得体の知れないウイルスとどう闘い、どう向き合うのか世界中が混乱している。

近年携帯やパソコンの普及で、ますますネット社会が広がりを見せている。ゲームや買い物も遠隔操作でできるこの便利なツールは、世界をより身近な存在にした。また、AIの導入によりさまざまな分野で活用され、慣習にとらわれず何事においてもスマートなやり方にシフトしてきている。コロナウイルスの流行においても、今までのようにパッと検索して情報を引き出し、すぐに解決できたら良いのだろうが、しかし相手はまだまだ未知のベールに包まれている。この未開発分野を開拓する行為はAIの苦手分野でもあり、この問題を紐解くのは容易ではないようだ。

これまでの僕は、この便利すぎる生活を当たり前と思って生きてきたが、コロナウイルス感染拡大においては今までのようなやり方では通用しないと改めて考えさせられた。それはまるで何不自由ない現代を生きている人間に対して、未知の分野を切り開く力があるかどうかという地球規模の課題を問われているようにも思えた。今まで自分が見てきた世界は、授業やニュースで取り上げられるようなただの情報・知識でしかなかった。しかし、コロナ禍において、毎日のように繰り返し流れる世界情勢を目の当たりにして、各国の特徴や考え方、どのようにして問題を解決しようとしているのかなど、これまでの自分とは違った角度から興味を持つようになった。

今、世界の至る所で未知のウイルスを根絶する方法、あるいは共生の道を探っている。やり方は違うが、僕はこれらの取り組みに共通するのは「考える」ことだと思う。例えば学校のテストで思わぬ難問が出題されたり、たくさんのピースがあるパズルで型にはまるピースが見つけられない時にどうするだろうか。僕はこのような状況の時に、正解を導いたりパズルを完成できる人と、そうでない人の違いは「考える」ことにあると思っている。

「考える」こと、この行為は一見簡単なようで難しい。なぜなら、僕たちは分からないことや知りたいことは、パソコンや携帯で瞬時に情報を引き出し、考えることをしなくても答えが出てしまう習慣が身についているからだ。確かに、調べることで知識を得て、それを深めていくことは大切である。しかしながら、考えなくても情報を引き出せる手段があることは、一見便利なように思えるが、人間から考える力や自分の意見を持つ力を奪っている。その結果、難しい課題や未知のことに遭遇すると、あきらめたり、投げ出したりするしかなくなるのだ。

僕は小学生の時から自然の力で雑草を枯らす研究に取り組んでいる。そして、この研究は今年で6年目になるが、毎年研究の終わりに残った課題や疑問を次の年に突き詰めていくスタンスができていたことで、研究の継続と新しい発見につながっている。僕の考えは今のところ自宅の庭という狭い範囲にとどまっているが、これからは考えの視野をもっと広げて世界をも見ていかなければならないと危機感を感じている。

この自由研究から得た経験を生かし、僕は自ら考えて行動できるような人になりたい。コロナウイルスの問題だけでなく、地球温暖化やプラスチックごみによる海洋汚染、貧困や内戦など、世界で起きている問題は山積みなのだ。これらの問題は整理され、@各国への問題提示A段階ごとに問題を解決するプランBボランティア活動などさまざまな形で取り組まれている。しかし、国内情勢や文化・価値観の違い、考え方や取り組む姿勢の違いが、これらの問題解決の行く手を阻んでいる。

世界で何が起きているのかを漠然としたイメージでとらえているだけでは、深刻な問題だということは理解できても行動を起こせない。よって、これからは世界で何が問題となっているかについて興味・関心を持つことから始めて、自分に何ができるかを考えていきたい。そして、テストや受験のための知識だけではなく、いろいろな体験や経験を積んで、これからの困難に立ち向かえるような芯のある考えの持ち主になっていきたい。また、ネット社会の便利なツールも生かして、各国の現状や特徴を知り、お互いに歩みよるための経験や体験に繋げていきたい。そうすれば世界はぐっと身近な存在になり、真の意味で相手を思いやり世界全体の平和に繋がると思う。

僕の取り組みとして踏み出す一歩は小さく、まだまだ先が長い。僕はこの先も便利すぎる世の中に甘えることなく、考える力、自分の意見を持つ力を身につける努力を続けていきたい。

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秀賞

私の挑戦

福島県郡山市立富田中学校

1年 武藤 さくら

「はあ。」

私は小さなため息をついた。「伴奏はできません。」と断ればよかっただろうか。後悔が胸に広がった。

私の学校では、秋の文化祭でクラスごとに合唱の発表をする。先日、曲についての話し合いをした。中学生になって初めての文化祭。「文化祭」という言葉に心が躍った。そこで、伴奏者についても話題になった。ピアノの経験者は私の他に4人もいたから、まさか私に声が掛かるとは思っていなかった。だから、昼休みに担任の笠井先生から、
「合唱の伴奏をやってみない。」
と声を掛けられたときは、心臓に雷が落ちたかと思うほどの衝撃だった。頬が強ばるのを感じた。私は伴奏ができるほど上手じゃない。他にもっと適任者がいる、という思いが胸を締め付けた。夏休みを前に難題を突きつけられた気分だった。

それから1週間、ピアノのことが頭から離れなかった。伴奏を引き受けて、本番までに弾けなかったらどうしよう。本番で頭の中が真っ白になったらどうしよう。去年のピアノの発表会のことが頭をよぎった。曲の中盤まではいつも通り弾けていたのに、急に頭の中にあった楽譜が消え、指が動かなくなった。止まってしまった。初めてのことだった。あんなに練習したのに……。演奏後の罪悪感とも恥ずかしさとも違うやりきれない思い。苦い記憶が蘇ってきた。それだけではない。部活に宿題、テスト勉強。やらなくてはならないことはたくさんある。時間がない中で、本当に練習ができるのか。何度も自分に問いかけた。

勉強にも身が入らず、夕食のとき、家族に相談した。
「無理してやらなくてもいいんじゃない。」
と父は優しく言った。妹は、
「私だったら、即やるって言う。」
と陽気に答えた。母は、
「どちらでも、さくらが決めた方をお母さんは応援するよ。」
と言ってくれた。その言葉は、決定的な一言を期待していた私をさらに悩ませた。

先生がくれた1週間という時間はあっという間に過ぎ、返事をする日がやってきた。

朝から、どんよりした曇り空。結局、伴奏を引き受けるか、断るか決まらないまま「そのときの雰囲気で決めるしかない。」という覚悟だけを決めて、家を出た。学校では、一日中、先生にいつ声をかけられるかとそわそわしていた。緊張で心はもう破裂寸前。自分から行くべきか、いやそんな勇気はない。結局何も伝えられないまま、学校を後にした。

次の日、廊下で先生に声をかけられた。何を聞かれるか言われなくてもすぐに分かった。
「ピアノのことなんだけど、どう?」
先生の言葉からは、どちらを選んでも大丈夫だよという気遣いが伝わってきた。そのとき、先生と目が合った。
「や、やります。」
私の口が勝手にそう答えていた。
「気張らなくて大丈夫だよ。完璧にやろうと思わなくていいから、気楽にやってね。」
先生は温かく言った。自分の席に戻り、私は机にうなだれた。やるって言ってしまった。決まってしまった。後悔の念が押し寄せてきた。しかし、引き受けた以上やらなくてはならない。伴奏が嫌だったわけではない。自信がなくて、できれば他の人にやってほしいと思っていた。もう決まったこと。がんばるしかない。私は自分に言い聞かせて顔を上げた。

数日後、合唱曲が決まった。曲は『あすという日が』。帰宅後、早速、練習に取りかかった。サビから16分音符が続き、難しい。夏休みに入り、ピアノに触れない日はなかった。あるとき、合唱曲の動画を見た。選曲のときは楽譜ばかり気になっていたため、歌詞に目を向けたのは初めてだった。

いま 生きていること 

いっしょうけんめい生きること

なんてなんてすばらしい

あすという日があるかぎり

しあわせを信じて
その歌声に、その歌詞に心が震えた。今にぴったりの素敵な歌詞だ。曲が私を励ましてくれた。不安が喜びに変わった瞬間だった。この曲を、5組のみんなとこれから作っていくのだ。伴奏を引き受けてよかった。ふと、伴奏者の先輩が言っていた言葉を思い出した。「伴奏は、歌う人たちが歌いやすいように弾く、歌のサポート役。」私にできることは、みんなが歌いやすいように弾くことなんだ。

これから先、どんなふうに弾けばよいか悩むことがあるだろう。そんな時は、クラスのみんなや先生と話し合いながら、最高の合唱ができるように、自分にできることを精一杯しよう。ようやく晴れた青空に、私は誓った。晴れやかな気持ちだった。私の挑戦は続く。

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秀賞

ガンディーの言葉を胸に

新潟県糸魚川市立糸魚川中学校

3年 川合 央

You must be the change you want to see in the world.

「世界を変えたいなら、まずあなた自身が変わりなさい。」

この言葉は、インド独立の父マハトマ・ガンディーが言った言葉です。

この言葉を知ってから、私の中で世界の色が変わったのを覚えています。

私は以前、カンボジアの小学校の様子を紹介するテレビ番組を観ました。

「お金がないから、お母さんを病院に連れていってあげられない…」
声を震わせながら訴える一人の少女。汚れた靴、ボロボロの服。でも、まっすぐにレポーターを見つめる目は純粋で礼儀正しい。彼女の母親は重い病気にかかっていて、その事実を学校の先生や友達にも相談できずに悩んでいると話していました。

この親子が住む地域は、カンボジアの貧困地域に当たる農村地域で、医療や保健制度が確立していないため、お金をもっていない人は治療を受けられません。彼女の父親は働きに行くといって家を出たまま帰ってこず、家では、少ないお金でやっと買った点滴で命をつないでいる母親と二人で生活しています。

何の病気なのかも分からない状態の母親と二人きりの生活を強いられる少女の姿を見て、私は胸が張り裂けそうになりました。もしも、自分の大切な人が同じような状態になってしまったら、私は辛い現実に負けてしまうと思います。貧困のなか、目には見えない大きな敵と闘う少女の姿を見て、私は少しでも人を助けられる、強くて頼もしい人になりたいと決意しました。

豊かな日本という国で生活している自分に、一体何ができるのだろうか。自問する中で、まず、実際に自分で世界の現実を知ることが大切だと考えました。ネットを検索すると何枚も衝撃的な写真が出てきました。その写真を見るたびに、恐ろしさで胸がいっぱいになりました。でも、恐ろしいからといって、今世界で起こっているこの事実から目を背けていては何も変わらない。ガンディーの言葉にあるように、自分が変わりたいと思う自分になっていかなければ。そう考えていたとき、ある1枚のポスターと出合いました。

「僕たちにできることは必ずある」
その力強い言葉にグッと心をつかまれました。青年海外協力隊募集のポスターです。キラキラ光る瞳の子どもたちと一緒に笑う日本人の若者。このときから、私は青年海外協力隊の仕事に興味をもち始めました。発展途上の国々の経済や社会の発展、復興に寄与する青年海外協力隊の方々は日本国内で約4万5千人。多くの日本人が発展途上国で、世界の現実と向き合い、困っている人のそばに寄り添い、笑顔を作り出す。そんな志をもっている人たちと一緒に活動したいと考えるようになりました。発展途上国では、教師が十分に足りていないという現実を聞き、教師として貢献できるようになりたい、子どもたちの成長を一緒に喜べる教師になりたいと。そして、教育で貧しい国の状況を少しでも変えられるように貢献したいと考えています。

カンボジアの、あの少女を助けるために、今の自分ができること。この目標を実現するために努力することが今の自分にできることではないか、そう思うようになりました。

今、目標に向かって、まず私自身がすべき努力は何でしょうか。

発展途上国の病気の子どもたちにワクチンを送るために、ペットボトルのキャップの回収や空き缶のプルタブの回収に協力することなど、日々積み重ねができる活動を続けていくのはもちろんですが、もっと他に自分にできることはないだろうかと考えました。

私は人を喜ばせることが好きです。だから、発展途上国で教師として子どもたちを喜ばせられるようになりたいのです。そのために、語学を学ぶことや学力をつけることも大切ですが、自分の力で何かを考え実行する機会を増やし、企画力や実行力を高めていきたいと考えています。今私は学年委員長という立場です。コロナ禍で楽しみにしていた部活動の大会も修学旅行も中止になってしまいました。ですから、まずは学年のみんなが笑顔になるような企画を考え、仲間と協力して実行し、喜ばせる、これが今私にできることです。

今、幸せに生きることができている私の知らない世界のどこかで、生きることに精一杯で苦しんでいる人がいます。私はこのような現実を少しでも変えられる人になりたいです。

You must be the change you want to see in the world.

「世界を変えたいなら、まずあなた自身が変わりなさい。」

自分が世界を変えたいと願うなら自分がまず行動を起こす。そうすることが世界を変える初めの一歩だと信じて。

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秀賞

夢を全力でかなえていきたい

新潟県新潟市立新津第二中学校

3年 吉田 拳斗

「将来は料理人になりたい。僕の作った料理を一口食べただけで、人々が幸せな気持ちになれるような料理人に。」
今、僕の心にはそんな思いが芽生えています。

去年までは職業について考えることなど全くなかった僕がこのように考えるようになったのは、母の言葉がきっかけでした。

「この人みたいに学校休みの間、料理してみたら?」
休校期間中のある日、ニュースを見ていた母が僕に言ったのです。

普段であれば
「柔道で忙しいのに何言ってるの?」
と答えるところですが、その頃は新型コロナウイルスの流行で学校は突然の休校、当然部活も停止となり、なるべく自宅にいるよう言われていた頃でした。何もできず、どこにも行けなかった僕に時間だけは豊富にありました。

そのニュースで映し出された料理はトマトの赤や卵の黄色、キュウリの緑がバランス良く映えていました。僕と同じ中学3年生が作っているので、僕にもできそうでした。

「とりあえず1回だけやってみようかな。」
と、僕は答えました。

材料費として千円だけもらい、その日の夕御飯だけ作ることにしました。料理自体、家では全くやったことがなくて不安でしたし、調理実習はもちろんやったことがありましたが、ニンジンを切ったり小麦粉を混ぜたりしたことがあるだけの僕でした。

不安な気持ちはありましたが、とにかく挑戦してみようと考え、料理にとりかかりました。

僕が初めて作ったのは「野菜炒め」です。味つけが少し難しそうでしたが、冷蔵庫にあった焼き肉のタレを使うことにしました。そうして、できあがった料理に家族みんなが「おいしいな。」と笑顔になりました。

家族の喜ぶ笑顔が僕の心を温かく包んでくれて、試行錯誤の疲れもふっとび、とても幸せな気分になりました。

この料理を作ったのはTVのニュースを見た母からの言葉がきっかけでしたが、忙しい家族のために時間のある僕が一度くらいは夕御飯を作ろうという気持ちもありました。家族のために「仕事」をするのも悪くないと考えたからです。

その「仕事」で自分がこんな幸せな気持ちになれるとは思ってもいませんでした。食べてくれる家族にも喜んでもらえ、自分も嬉しい気持ちになれる料理。それならば、学校が休校中は毎日作ろうと思いました。

「休校中は毎日作るよ。」
僕も笑顔で言いました。

次の日から新たな気持ちで僕の挑戦が始まりました。最初の頃は、カレーやパスタなどの箱の裏側にある作り方を参考にして作りました。後半になるとユーチューブを見ながら、ポテトサラダやハンバーグなど少し手のこんだ料理にも挑戦するようになりました。

僕は親に言われて始めた料理がいつの間にか大好きになっていました。

学校の休校が終わり、授業は再開されましたが、僕の部活動の最終目標であった市内大会は3密を避けるため中止。修学旅行も関西方面でのコロナ感染が増加傾向にあるため中止となりました。

中学3年生として楽しみにしていた行事が次々に中止となり、節目のないまま進んでいく学校生活はなんだか中途半端な感じがします。けれども普通に学校に来られて友達と話ができるのは嬉しいですし、学校が再開されたのはありがたかったです。

それに僕には、今、楽しみなことがあります。それは料理を作ることです。

「休校中は毎日作るよ。」
と家族に伝えたのですが、休校が終わった今も夕御飯作りを続けています。それは僕が作った料理で家族が笑顔になるからです。

新型コロナウイルスの流行により、想像もしていなかった学校生活を送るようになりましたが、僕はこのあり余る時間の中で今まで自分がすることになるとは思ってもいなかった料理という「仕事」に出合うことができました。今では回鍋肉や麻婆豆腐などの中華料理も作ることができます。去年の僕からは考えられないことです。僕は料理を通して、たとえ今までやったことのなかったことでも自分がやる気になりさえすれば、できるんだということを学びました。

僕はこれから
「料理人になって僕の料理を食べる人を幸せにしたい。」
という夢を全力でかなえていきたいと思っています。

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佳作

強く生きる

青森県むつ市立川内中学校

3年 板井 みく

「いっつもだめだ。全然だめだ。」

私の口癖。失敗したら、つい言ってしまう。私は、自分に自信がない。全く。自己嫌悪という名の穴から抜け出せないでいる。だが、周りの人の目には本当の私とは真逆に映っているだろう。いつだってそう。私は、本当の私をさらけ出すのが、かっこ悪くてできない。プライドが高いのかもしれない。「わいは、いつでも頼られる存在でなければいけない」と思うようになり、頼られるのは好きだが、頼るのは嫌いになった。

そんな私は、中1の春、自分自身の成長へ新たな一歩を踏み出すとき、ある一つのスポーツに出合った。それは、最後には自分のプレーに自信をもって戦ったものが勝利を掴み、自信をなくし途中で諦めたものは勝利を逃してしまうようなスポーツだった。

私の中学校生活は、ソフトテニスとともにスタートした。私は、ソフトテニスを始めてみて分かったことがあった。それは、センスがないということだった。まず、基本中の基本であるラケットの握り方が他の人と少し違った。自分は特に気にしなかったため、悪い癖がついてしまった。また、ボールとの距離のとり方がうまくできなかったり、正しいフォームで素振りをやってもボールを打つと崩れてしまったりしたため、ラケットにボールが当たらないという最悪な事態が発生した。だが、「センスがない」という、たった6文字でソフトテニスを諦める選択肢は私はなく、下手な分たくさん練習した。理由は、とても単純。

「他の人に負けたくない。」
ただそれだけだった。ペアのためとかチームのためとか、そのときの私は考えもしなかった。ただただ他の人より下手なのが嫌で、1番になりたかった。そんな負けず嫌いな私が培ったものは、多種なサーブと前衛の技術だった。その成果も認められ、私は前衛として先輩とペアを組み、1番手になることができた。とても嬉しかった。私は、先輩のために勝ちたいと思った。今まで、1番お世話になった先輩に良い思いをしてもらいたかった。それだけを胸に、毎日練習した。

中体連当日。先輩の最後の試合。私は、私ができる全力のプレーで戦った。結果は、ベスト8。県大会出場。涙が流れた。悔し涙。なぜなら、私のサーブミスで負けてしまったから。「なぜ? あんなに練習でサーブは決まっていたのに。」心の中で何度も自分に問いかけた。だが、もう自分でも分かっていた。答え、自分自身の気持ちだった。あと1点で負けてしまうとき、私はかなりビビッていた。弱気になってしまったせいで、体が固まり、得意のサーブもミスしてしまった。「県大会行けるんだよ!」と先輩は励ましてくれたが、私は私を許せなかった。私は、完全に自信をなくしてしまった。

先輩が引退し、私たちの時代がきた。不安しかなかった。大事なときにまた失敗したらどうしよう。自分のせいでペアに、チームに迷惑がかかったらどうしよう。他の人に負けたくないと強気で頑張っていた自分はどこにいってしまったんだろうと、毎日悩んだ。だめな自分が嫌いになった。このドロドロした感情を外に出さないようにと、毎日心の中のバケツに溜めた。一人で感情を抑えて我慢していたが、ついに溢れ、今まで溜めていたものが、涙とともに出てきてしまった。うわ、最悪だ。かっこ悪い。暗闇をさまよう私に光を当ててくれたのは、先生だった。

「もっと仲間を頼りなさい。全然かっこ悪いことなんかじゃないから。」
その瞬間、すっと気持ちが軽くなった。あ、頼っていいんだ。一人で頑張らなくていいんだ。私は私を変えられるかもしれない。勝利へつながる橋が見えた気がした。それから、私はペアでたくさん話をし、教え合い、励まし合った。本気で練習し、自信をつけた。

「明日最後だよ! 頑張るべ!」

いよいよ、私たちの最後の戦いの日。ペアで、チームで一丸となって最後まで戦い抜いた。結果は、個人戦ベスト8、団体戦3位だった。納得のいく結果ではなかったが、悔いは残らなかった。みんなが諦めずに強気で挑み、心一つになることができたからだ。みんなの笑顔は、全力で努力してきたからこそのものだった。それは、とても輝いていた。

私は、ソフトテニスを通して、気持ちの面で大きく成長することができた。時には自分を信じて自分の道を歩み、時には仲間を頼って助け合いながら歩む。それが、私が考える『生きる』だ。人は一人では生きられない。だからこそ私は、いつも隣にいてくれる仲間をいつまでも大切にしたい。私は、誰も知らない未来へ向かって、強く、強く生きる。

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佳作

改革に挑む

青森県青森市立浪打中学校

3年 小嶋 美香子

私は部活動を通して、人をまとめること、協力することの難しさを学んだ。中学1年生の時、絵の好きだった私は美術部に入部した。そしてがっかりした。「これ小学校のイラストクラブと何か違うの?」というのが第一印象。自分の思い描いていた理想の美術部と、現実とのギャップに、頭が混乱していた。だから中学3年生、美術部部長となった私は、この美術部で改革を起こそうと決めた。

私には目標があった。一つ目は美術部をより活発化させること。二つ目は学校の人に美術部の活動内容を知ってもらうこと。

その二つを同時に達成できるものとして私が考えたのが「美術部員全員による文化祭での共同作品の展示」だ。それも、ただ皆で色塗りを分担した程度のものではない。テーマから何を描くかまで、全て部員全員で話し合うのだ。

以前にも共同制作はあったが、「ここ塗ってくれる?」と作品を渡され、色鉛筆で少し塗った。文化祭当日、「ああ、あれ共同作品だったのか」と知るという程度だった。これでは特に思い出になるとか、先輩と接するということもなく、せっかくの機会が残念だと思った。

しかし、部員全員で話し合うということは、あらかじめ新入部員ともコミュニケーションを取っておく必要がある。だから私は、この新入部員が入ってくるときこそチャンスだと思っていた。

まず新入部員の顔と名前を全て覚え、たくさんコミュニケーションを取るようにした。そして以前の美術部の雰囲気にならないよう気をつけた。部活は始める前に今日の参加者の把握と、開始の挨拶をするということにした。そして年間の行事の見通しを持ってもらうため、先に文化祭の共同作品について提案した。その後の流れはスムーズだった。皆その提案に頷いてくれたし、部員とも仲良くやれていた。だけど、人をまとめる大変さというのは、ここからだったように思う。

私はとても悩んでいた。悩んでいたことはたくさんあったけど例を挙げていうなら、「作品の方向性」や「どう話し合うのか」だった。部員のほとんどは美術よりイラストが好きな人だ。だから名画の模写とか、いわゆるアートチックなことはとっつきにくいと思った。だからといってアニメのキャラクターを皆で描くテーマとするのも何ともいえない。顧問の先生にも相談し、部員とも話したが、うまく考えがまとまらない。

考えあぐねていた時、父にアドバイスをもらった。そしてテーマも含め皆で話し合うことに決めた。美術部員は約20名、3つのグループに分け、それぞれに進行役の3年生を置いた。グループでまとまった意見を最後に全体で発表し、それを顧問の先生と話し合った。グループでの話し合いの時、日頃からよく話していたこともあってか、1年生も活発に意見を出してくれたし、とても話し合いが進めやすかった。1年生や2年生には、「3年生のことよく知らないし、意見を出しづらい」という思いは持ってほしくなかった。だから積極的に話しかけたし、他にもいくつかの活動をしてきた。それが今になって実を結んだように思えてうれしかった。いろいろ苦労はあったが無事話し合いはまとまり、私の悩んでいたこともいくつかは消えた。そして、ものすごい達成感だった。

今回の出来事を通し、私はたくさん成長した。結果はどうであれ、「どうすれば皆がついてきてくれるのか」を必死に考え、実行したという経験が私には残るのだ。普段学校の先生方がこなしていることの大変さの一部を理解できたと思った。そして、私は1年生の時美術部に不満を持っていたが、まず最初に変わらないといけないのは自分だということを体験によってより深く理解した。この部長という、人をまとめ、部員と協力し合わなければならない立場に立ったことで、私は大きくかけがえのないことを学んだのだ。

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佳作

私と母の挑戦

青森県十和田市立甲東中学校

1年 深堀 世奈

私は小学2年生から、母の勧めで珠算を習っている。私の挑戦は、珠算だ。今は5段。より高い段位を目指して今も塾に通って練習に励んでいる。そして母の挑戦は看護師になること。今年で38歳になる母は、看護学校の2年生。今は、准看護師の資格試験に向けて勉強中だ。

珠算を習いたての頃、まだ幼かった私は、初めての習い事にワクワクし、教えてもらったことを実践すると、すらすら解けることが楽しかった。計算が楽しく、算数の授業も自信となった。買い物の時、レジに並ぶ前に計算するのはもちろんのこと、車のナンバーを勝手に計算してしまう変な癖も身についてしまった。

時が経ち、次第に桁が増え、割り算、小数点など増えるにつれ、「全然わからない」と思う時が多くなった。しかし、不思議なことに「今回は難しいぞ」と周りから言われても試験に合格すれば苦労が報われ、達成感となった。そして、もっと頑張りたいと思った。不合格となるときもあったが、「1回で合格するほうが次へのやる気が増すなあ」とか、また「塾が面倒に感じるな」などその時に生まれたマイナスの感情も前向きに受け止めることができた。

珠算を通し、自分に自信を持つことができた私は、いろいろなことに挑戦しようという気持ちがうまれた。小学校6年生の時には、市内の子ども議会に応募して本格的な議会を経験することもできた。なんと、十和田市長も出席する中で、自分の意見を述べる機会を持つことができた。

しかし、中学生になり、学校の部活動に加入せず、珠算に集中して頑張っていた私に、転機が訪れた。6月のこと、久々に試験で不合格となったのだ。6段の試験である。最近の試験は難しく、とてつもない緊張で挑んでいただけに、落ちた時のショックは大きかった。自分なりに努力したつもりなのにと、悔しい思いばかり大きくなり、解決策を見つけることができなかった。再び同じ試験に向かうことから逃げたく、次第にやめたいと思うようになり、私は、初めて挫折を味わった。

珠算の先生と時間をかけて話し合った。こういった機会は初めてだった。塾をそして珠算をやめたいという私に、先生はおっしゃった。
「今までが順調すぎたんだよ。ここで珠算から少し離れて暗算の段位を目指してみないか。」

珠算から逃げるようで、後ろめたさはあったが、少し安心したのも事実だった。結果、半年間珠算を休み、暗算に力を入れることになった。

暗算に力を入れるようになってから、暗算に近いフラッシュ暗算という試験を受けるようになった。私は、前のように試験に落ちたくないという気持ちがあった。しかし、母の「暗算もきっとうまくいくよ」という励ましもあって地道な努力を続けた。

日中は医療事務の仕事を続けて、夜、学校に通う母。試験があるときには図書館で勉強している母。そういう母の、「世奈ならできるよ。」という励ましで、そろばん塾での練習だけではなく、家でも練習して試験に挑んだ。結果は、合格だった。私はこの3カ月で、練習すれば、結果がでるということを知った。

珠算を通して、私は挑戦する限り、人は必ず壁に当たることを学んだ。いろいろな場面で目標を定めるが、全て達成でなくてかまわない。達成できない時には別の方法を考えたり、修正を加えたりすることで、少しずつ近づけばよいことを学んだ。

私は夢に向かって毎日頑張っている母の姿を見て、大人になったときに同じように挑戦する心を持てるだろうかと思う時がある。私もあきらめずに頑張ろうという力が湧いてくる。また忙しくしている母を応援し、家事の分担をして協力している父の姿も温かい。次の3月に行われる、准看護師の資格試験の合格が母の当面の目標だ。

そして私の挑戦は、母の試験と同じ時期に行われる珠算の検定。今度こそ合格できるように、週5回塾に通い、それでも足りない分は、家でも練習を続けたい。そして残り半年で大きな壁に立ち向かう心も成長させなければならない。努力を積み重ねて、合格するたびに自分の中での目標を高くしていく。常に挑戦する自分でありたい。

私と母の挑戦はしばらく続く。

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佳作

病気とたたかった自分

青森県弘前市立津軽中学校

1年 府川 珠梨

私は去年の5月から今年5月まで約1年間入院していました。入院する前、学校の階段を登る時に疲れやすい、走っても息切れしやすくなり、自分で体の調子がおかしいなと思いました。数日間熱が続き、ふらふらする時があったのでかかりつけの病院に行き、血液検査をし、結果を待っていると、先生から
「すぐに大学病院へ行ってください。」と言われました。大学病院では、病室へ案内され、また血液検査をすることになりました。検査で足りない成分があることがわかったので、輸血をすることになりました。私は今までやったことない輸血をすると聞いて、こわかったです。しかし、輸血の後は頭痛もなくなり、少し体が楽になりました。

その後さらに、骨髄検査もしました。検査の説明の時、背中に注射することや次々とはじめて聞く言葉がでてきて、早く家に帰りたいと思いました。検査後も腰が痛くて動けず、検査結果を待つために、1週間の入院生活を送ることになりました。突然の入院。最初はDVDをみて楽しんでいましたが、だんだんと結果を聞くのがこわくなりました。

1週間後、私の病気がわかりました。「急性骨髄性白血病。」病院の先生から薬を使って悪い細胞をやっつけること、約7カ月は入院することになると言われました。先生の話を聞いて、治療をがんばって早く友達に会いたいと思いました。4人部屋の病室には私より小さい子ばかりでした。みんながんばっているんだなと思いました。入院してすぐに12日間点滴し続けることになりました。痛さよりも気持ち悪い日が続き、早く終わってほしいとだけ思っていました。

ちょうどその頃、運動会がありました。小学校生活最後の運動会だったので、とても参加したかったです。母がみんなの様子をビデオでとってきてくれたのを見て、早く病気を治したいという気持ちが強まりました。点滴後、今度は熱が出て、発疹も出てきて、状態がよくなるまで2週間かかりました。よくなってから、何度か自宅に戻ることができました。しばらくして、また抗がん剤治療が始まりました。体調が悪くなることもなく順調に進みましたが、先生から「悪い細胞が消えてないから移植を考えている」と言われました。「移植」とは何かわからず考えていると、「珠梨さんの血をなくして他の人の血と交換するんだよ。」と教えてくれました。移植のために父、母、妹の血液検査をしました。検査の結果は、妹が私とフルマッチですべて合っているということでした。「めったに兄弟間のフルマッチの人はいない! 珠梨さんのことを考えると妹さんで移植をお願いしたい。」と先生が言われました。そのとき、母が涙を流していました。いつも私に涙を隠している母だったので、この時の泣いている姿を忘れることはできません。妹は私より年齢が4つ下です。注射も大嫌いです。きっと絶対に移植を嫌がるだろうなと思い、あまり期待をしないで待っていたところ、母から、妹が「珠梨が元気になってほしいからやる!」と言っていたと聞きました。その言葉を聞き、私は妹に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

移植の準備が順調に進む中、私の肝臓に膿ができてしまったので移植は延期となりました。肝臓の膿をとるのに2カ月かかり、そしていよいよ移植治療スタート。妹もドナーとしての検査が始まり、私の病室は大部屋から無菌室へ移動となりました。抗がん剤治療が始まり、再び吐き気、喉の痛み、だるさとのたたかいでした。それらを乗り越え、妹の骨髄を入れる日がとうとうきました。心電図と酸素の機械をつけながら12時間かけて妹の骨髄が私の体の中に入りました。妹の血液が私の骨髄に生着した日が、私の誕生日の次の日でうれしいプレゼントになりました。骨髄を分けてくれた妹にとても感謝しています。嫌いな注射を我慢してくれてありがとう!

今は退院し、少しずつ学校にも行ける時間が増えています。小学校1年生から習っていたダンスも、病気のためできなくなり、「もうできないのかな」と思っていましたが、今少しずつ練習に参加しています。練習している時間がとても楽しいです。今、私は病気を克服した自分に喜びを感じています。少しずつ体力をつけて、ダンスの発表会にでられるようこれからどんどん挑戦していきたいです。普通に生活できる喜びを忘れず、1日1日大事に過ごしていきたいと思います。

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佳作

跳躍の準備

青森県弘前市立第三中学校

3年 吹田 翔

いよいよ、最後の跳躍か。

額の汗をぬぐい、激しく脈打つ心臓に触れる。

暑い。8月に入ったとはいえ、こんなに暑くなることがあるのだろうか。体感温度は35度を超えるだろう。そのくらい暑かった。

今日は8月1日。他の人にとっては、ついに8月に入ったか、くらいでしかないかもしれない。だが、自分にとって今日は3年間の部活動の集大成、中体連の日である。

3年間陸上競技を続け、走り幅跳びに挑んできた自分は、最後の大会ももちろん走り幅跳びのレーンに立っていた。もう本番前の雰囲気には慣れていたし、緊張も特になかった。

つい、10分前までは。

歩幅を決める「走り合わせ」は1回で確認できた。それも、これまでの経験の中では、かなりよい感触だった。29m20cm。この位置に左足を置いて、後ろに右足で地面を強く蹴る。そこから19歩目の左足で跳躍する。それで完璧、だったはずなのに。

1巡目、ファウル。普通のファウルなら、もう少し助走を大きくすれば解決する。よくある話である。しかし、このファウルには大きな問題があった。

逆足。通常は、左足で跳躍するはずが、本番では初めて逆の右足で跳んでしまった。

なぜだ。始めの左足はしっかりと29m20cmの位置に合わせていたはずだ。しょうがない。ここは助走の足を全て逆にしよう。それでぴったり合うはずだ。

2巡目、3m87。

なんだよ、これ。しかも、また逆足じゃないか。どうするんだ。不安がこみ上げてきて、この場から逃げたくなった。体中から汗が噴き出す嫌な暑さになった。

レーンの外に座って、3巡目をおとなしく待つ。そのまま目を閉じて、自分の世界に入ろうとした、その時、
「おーい。俺、4m88だった。」

顔を上げると、成田裕が嬉しそうな顔で走り寄ってきた。隣のクラスの裕は、去年の秋に陸上部に入部すると真っ先に「幅」の仲間になった。

「いいよな、記録出せて。」
もちろん、5mに届いていないから、よい記録と呼ぶかは微妙だったが。

「俺は、とりあえずこんなもんでいいかな。」
裕はすました顔で言葉を続けた。
「俺、決勝残れるかな。」
「まあ、見たところ5m超えてる人は、2、3人しかいないかな。」

自分を安心させたかった。それから、3巡目までは自分と同じく絶不調の河津と話をすることにした。

そして、3巡目、また、逆足。

だが、勢いがよかったので、記録は4m91を出せた。何とか、決勝へ。その時点で、暫定ではあるが6位。なんと、3cm差の裕は決勝進出上限の8位に食い込めなかった。

ここから一人の戦いが始まった。

4巡目、逆足。5m2。まあまあだ。

5巡目、ファウル。ここで、やっと足が左に戻った。

6巡目。いよいよ最後の跳躍だ。心臓が高鳴る。足は合うだろうか。
ガッツボーズ。今まで一番の跳躍ができた。

「6m、10…。」
記録係がそう言いかけた次の瞬間、
「ファウル。」
赤い旗が上がっているのが目に入った。

最後の中体連は、5m2という平凡な記録で終わってしまった。新型コロナウイルス問題もあり、練習が十分にできなかったことは言い訳にならない。今日で終わりにしたら悔いが残る。

次こそ。

9月5日に開かれる大会に参加することにした。その大会で6mを跳ぶ。6mを超えて、快く引退する準備が始まった。

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佳作

特別な夏

青森県五所川原市立金木中学校

2年 藤元 彩子

「今年の夏休みの大会はすべて中止です。」その一言は突然コーチの口から告げられた。私は言葉が出ず、心に小さな穴があいた気がした。

今年の2月。初めての全国スキージャンプ大会に出場した。スキージャンプってすごく楽しいのになんで皆は挑戦しないのかな、そんなどうでもいいことばかり考えて緊張をほぐしていた。周りでは友達であり、ライバルである人たちがとても集中している。でも、一つだけ同じだったことがある。それは、新型コロナは全く別の世界の話だと思っていることだった。

大会が終わり、私は家に帰るために片付けをしていた。すると、友達が近づいてきた。

「今回は負けちゃったけど、夏の大会は負けない。」
と言われた。私は負けたくないという気持ちと同時に夏の大会がすごく楽しみで仕方がなかった。

スキージャンプはゴールデンウイークまでできない。だから、たくさん筋トレをしたりいろいろな人のジャンプを見たりするだけの日々が過ぎていった。

全国に緊急事態宣言が出され、私の学校も休校になった。正直、学校に行かなくていいと思うと嬉しかった。家でだらだら過ごす日々は最高だった。そのため、1カ月程の休校期間はあっという間に過ぎていった。1カ月を空けてトレーニングを始めた。当然のことだが、全くと言っていいほど体が動かなかった。息が切れるのも早い。この時ようやくだらだら過ごしたことを深く後悔した。

そして、再び休校。1回目の休校から学んだ私は、週5回トレーニングをした。10キロのランニングとストレッチだ。辛くてやめたくもなったが、体が動かなくなるよりはましだ。そう自分に言いきかせながらトレーニングを続けた。

そして、待ちに待ったスキージャンプの練習が始まった。久しぶりだったが割と調子が良く、たくさん飛んだ。練習に行くたびに飛距離が伸びるのが楽しくて仕方がなかった。この時の私はジャンプのことで頭がいっぱいで、コロナのことをあまり気にとめていなかった。

6月末。練習が終わり、ミーティングをしていた。コーチから話の最後に「今年の夏休みの大会はすべて中止です。」と言われた。理由はコロナの感染拡大を防ぐためだった。競技人口が少ないスキージャンプだと出場する大会はほぼ全国大会のようなものだ。私はとにかく悔しかった。確かにコロナの感染を防ぐためには一番良い判断だ。だけど、心の底から納得することはできなかった。考えてもキリがないことなのに気づいたら答えをさがしながら放心状態になっていた。自分が自分でなくなったようだった。今までは楽しかった練習にもなんだか身が入らない。そんな私を見て3年生の方が辛い、あなたにはまだ1年残っているでしょ、そんなことを周りに言われることもあった。

いつの間にか夏休みに入り、2泊3日の合宿になった。相変わらず練習に身が入らずに放心状態のままだった。すると、急に友達のことを思いだした。「夏の大会は負けない」と言ってきたあの子だ。どうしているかなと思いメッセージを送ってみる。思ったより会話が弾み、私はこの際と思ってジャンプの動画を送ってもらった。見た瞬間、私は固まった。フォームがすごく美しかった。2月とは全然違う。別人のようだった。私のジャンプの何倍も美しいジャンプだった。私の闘争心は再び一筋のスポットライトで照らされた。

私は自分の考えを変えてみることにした。なぜなら、ずっとネガティブ思考だったからだ。今年はいつもと違って特別なんだ。今度大会があったら皆が驚くようなジャンプをしよう。そう考えることにした。考えが定まった私は、状況を想像してみた。ただ考えただけなのになんだかわくわくしてきた。もやもやしていた雲が一気に晴れた気がした。いつの間にか嫌だった練習も楽しく思えてきた。今は早く飛びたいという気持ちで頭がいっぱいだ。

これからも、思いがけない試練に私は少し考えすぎることがあるかもしれない。しかし、考えても相手は見えない敵。考えて終わる夏よりもこんな中でもいかに楽しみ、自分のレベルを上げられるか。それを試す夏にするべきだと私は思う。人それぞれがこの状況に負けず、作り上げる夏。たくさんの違う夏が生まれる、こんな年も魅力があって良いと今の私は思える。

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佳作

どんな壁も

青森県十和田市立四和中学校

1年 二川目 心寿

私の学校は学区が広いため、スクールバスで通学している生徒が多い。私も本当であればスクールバスに乗って学校まで通うことになっている。しかし、小学生の頃は足をバスの段差まで上げることができず、乗り降りが難しいということで母に車で送迎してもらって通学していた。姉や弟がスクールバスで通う姿を見ていた私には、ずっと抱いている思いがあった。

「私もいつかはバスで通学したい。」

この思いをいつか実現させたいと思い、リハビリを頑張ってきた。そして、中学生になり、家族や先生方の協力のおかげでスクールバスでの通学ができるようになった。最初は慣れない乗車にドキドキしたが、自分の抱いていた思いを実現することができ、とてもうれしかった。

しかし、バスで通学するようになって向き合わなければいけない壁があることに気づいた。それは、バスから降りた後の靴の履き替えであった。小学校までは、送迎の後に、母が靴の裏をタオルで拭いてくれていたため、靴を履き替えることはしなくてもよかった。

足に装具を付けているため、私は靴の履き替えに、他の人よりも時間も手間も多くかかってしまうのだ。最初は、姉や弟に手伝ってもらったり、母が準備してくれた椅子に座って履き替えてみたり、自分一人で履き替えるためにどうしたらいいのか試行錯誤した。母も時々様子を見に来て、一緒に考えようとしてくれていたのだが、私は母が学校に来ることが嫌だった。本当は感謝しなければいけないことなのだが、帰宅したときに母が言うだろうことの予想がついていたので、母が学校に来る日は、気持ちが落ち着かなかった。

「今の状態だと、心寿は何もしてないじゃん。もっと自分でできることはしないと。周りにばかりやってもらって、分かるでしょ。やってもらって当たり前の心になっているよ。」

またか。つい心の中でつぶやいてしまう。そして言い返してしまう。

「だからさー、何回も言ってるけど、やってもらって当たり前なんて思ってないって。」

私がこう言うと、やはり母に言い返される。母の言っていることは間違っているわけではない。しかし、私はその言葉を素直に聞くことができず、もどかしい気持ちになる。

自分のことなのに、一つもいいアイデアを出すことができず、結局母のアイデアを受け入れることにした。母のアイデアを試してみると、自分一人で靴の履き替えをすることができることが分かった。

家族とたくさん話し合って、自分でできる方法を見つけたときは、自分で気づけなかった悔しさとそうすれば良かったのかという気持ちとが混ざり合い、複雑な気持ちになる。しかし、自分でできるのだという気持ちが、そんな複雑な気持ちを上回り、すぐに打ち消してくれた。

中学生になって、小学校までとは違う生活を送り、大変なことやつらいことがたくさんあるけれど、大変なことやつらいことを乗り越えると必ずやり遂げたときの達成感や、すがすがしさを感じることができるので、私は毎日一つ一つの困難にしっかり立ち向かい、自分のことは自分で考えるように、そしてできるようになりたいと思う。

私のために、真剣に向き合って、考えてくれる母の存在はとても大きい。母の厳しさは、私を思ってくれているからでもある。今は素直に受け入れることがなかなかできないが、いつかは素直に受け入れ、感謝の気持ちをしっかりと言葉や行動で示すことができるようになりたい。そして、支えてくれている家族にも同じように接していきたい。

学校生活で時間に追われることはたくさんあるが、その中でも自分に自信をもてるような何かを見つけて、自分自身が晴れ晴れとした気分で学校生活を送りたい。これからどんな壁も乗り越えられる「自分に厳しく、人に優しい」私になれるように頑張っていきたい。

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佳作

I keep changing !

青森県むつ市立田名部中学校 

3年 森 友結

「まぁ、やっぱりそうだよなぁ……。」
そう言いながらも、唇を思いっきり噛んでいた。緊張のあまり、面接の際は上手に話せた気はしなかった。「仕方がない。」という思いもある反面、同学年の子が何人も合格していて、置いて行かれた気がした。

私が、中学に入学してから目指していたもの。それは「ジュニア大使派遣事業」への参加である。これは、むつ市と姉妹都市の関係にある、アメリカのポートエンジェルス市に、中学生がホームステイをするというものだ。私は幼い頃から英語を習っていたこともあり、実際にアメリカに行き、ネイティブスピーカーの人たちと話すことを夢見ていた。そこで中学1年生の時、ジュニア大使への応募を決めた。しかし、自分の考えは甘かった。ろくな準備もしていなかったし、不合格は当然の結果である。「来年もあるから大丈夫だろう」と、余裕ぶっていたのかもしれない。しかし実際に「不合格」の現実を突きつけられると、本気で頑張らなかった自分に、とても後悔した。この「後悔の気持ち」が、逆に良かったのかもしれない。自分のやりたいこと、自分が今できることが明確になった。

2年生になり、昨年の無念を晴らすべく、ジュニア大使の選考を通過するため、作文や面接の練習に励んだ。提出した作文には、今の自分の思い、やりたいこと、目標とする将来の夢を、伝えたいままに正直に書いた。面接でも緊張しないように、慣れるまで先生方と何度も練習した。そのおかげで、本番も自信をもって、緊張せずに受け答えをすることができた。結果は、合格。自信をもって挑戦できた自分を誇りに思えたし、これからできる体験に、心がわくわくした。

そして、今年の1月。ついにポートエンジェルスでのホームステイが始まった。これまでに、何度も研修会を重ねた9人の仲間と共に、家族に見送られながらアメリカに旅立った。しかし、飛行機を降りたとたん、アメリカの空気に圧倒されてしまい、ホストファミリーとの生活に、不安を感じるようになってしまった。ホストファミリーのいる学校へ向かうバスの中でも、緊張のあまり、どうにかなりそうだった。

「Hi !」
今までの不安が吹っ飛んでしまいそうなほどの、大きなあいさつ。私のホストファミリーは、満面の笑顔で私を抱きしめ、迎え入れてくれた。さっきまでの不安はどこにいったのか、私も思わず、自然な笑顔がこぼれた。ホストファミリーは、あいさつと同時に笑顔で、
「私がもっていくね。」
と、私の重いキャリーケースを運んでくれた。私はこんなにもすぐに、助けられるとは思っていなかった。

その日の午後は、早速ホストファミリーとともに、ボウリングに出かけた。そのボウリングでも、文化の違いを感じた。日本では、ボウリングをして、失敗したとしても、拍手はしない。しかし、ホストファミリーたちは、うまくいかなくても、拍手をしたり、「次はできるよ。」といった声をかけたりしてくれた。私は上手にできなかったので、最初はなぜこんなにも明るく声をかけてくれるのかわからず、戸惑ってしまった。しかし、後になってから、ボウリングの上手・下手ではなく、「みんなとプレーできて、とても楽しい。」という気持ちを大切にしていることを私は理解した。どんな自分でも、どんな人間でも、笑顔で受け入れてくれるこの文化は、全ての人がまるで家族のように感じられた。

また、ホストファミリーとの最後の瞬間も一生忘れられない濃い思い出となっている。別れの時、ホストファミリーのお母さんやお姉ちゃんも一緒に、私も合わせ4人で抱きしめ合って泣いていた。お母さんは私の頬にキスをしてくれた。短い時間を共に過ごした一つひとつの瞬間を思い返すと、今でも涙が出そうなほど寂しかったのを覚えている。

私は、この「ジュニア大使派遣事業」において、目標に向かって忠実に取り組むことや、自分をありのままに表現することの大切さを学んだ。また、何よりも、新しい家族ができたことにより、さまざまな人を笑顔で受け入れてくれることのありがたさや、温かさを体で感じることができたと思う。

これから、高校受験やその先の就職活動など、今の生活とは比べものにならないほどの「壁」が、私の前に立ちはだかるのだと思う。しかし、どんなことがあっても、今回の留学で身につけた我慢強さや、笑顔でいることの大切さを信じて、踏ん張って歩んでいきたいと思う。もし、諦めそうになっても、支えてくれる家族や、本当の家族ではなくても私を受け入れてくれたホストファミリーのことを思い出し、笑顔で挑戦し続けたい。

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佳作

76895球分の自信

岩手県盛岡市立見前南中学校

3年 阿部 貫汰

76895。この数字は1年間で父がトスし、僕が打ってきたボールの数だ。これから書くのは、僕と父が共に歩んできた404日間の記録である。

僕はこの夏大きな挑戦をした。中学校から野球を始めた初心者の僕が、盛岡市選抜を目指すというものだ。結果的には、僕が合格通知を受けとることはなかったが、1年間続けた父との練習で野球の技術だけでなく考え方など幅広く成長することができた。

僕のこの挑戦に向けた練習が始まったのは去年の夏。最初は練習場所づくりからだった。庭に単管パイプを組み立てて、バッティングとスローイング用のネットをつくり、いつでも練習できるとても恵まれた環境を整えてもらった。そうして始まった毎日の練習は試行錯誤の繰り返しだった。打撃・守備・走塁どれも基本を身につけるところからで最初はティーバッティングだけだった練習だが、その時々の僕のレベルに必要な父考案のメニューが増えていった。平日は、下校後にしていた練習に、父は毎日できるだけ早く帰ってきて仕事で疲れていてもつきあってくれた。休日は庭にとどまることなく近くのグラウンドでも練習した。ロングティーやノックでは父だけでなく、家族全員がボール拾いなどで手伝ってくれた。こんなふうに家族の支えがあったからこそ僕は毎日練習を続けることができた。

また、継続して練習できたのは父の一つの言葉があったからでもある。それは、
「練習は技術を向上させるためだけじゃない。それ以上に、本番で打席に立ったとき、守備についたときの自信を積み重ねるためにする。」という言葉だ。この言葉によって僕の中の「練習」という行為の概念が覆えされたことで、練習試合で結果が出なくても、常に本番を目標に毎日の練習を続けてこられた。

しかし、ずっと明確な目標を持ったまま練習できていたわけではなかった。冬場は試合がなく、練習の成果が目に見えて分かる機会もない。だから、今の練習で本当に良いのかメニューを信じられなくなり、目標や自分を見失いどうしていいのか分からなくなってしまっていた時期もあった。また、新型コロナウイルスの影響で中総体の開催や盛岡市選抜の有無が分からないときも目標を見失ってしまいなかなか練習に身が入らなかった。そんな時に僕を再びやる気にさせてくれたのもまた父だった。
「目先の結果や目標にとらわれるな。これからも続く野球人生の中のもっと先の目標を目指せ。」
こうして父は僕のやる気に再び火をつけてくれたと同時に、先を見据えて物事に取り組むことの大切さに改めて気づかせてくれた。

ここまで家族の支えについて書いてきたが、僕の練習の活力になっていたものは他にもある。それは僕自身の「意地」であったり「悔しさ」であったりした。僕のチームの3年生は全員小学校から野球をやってきた経験者。1年生のときはいじめにあった。2年生になって同じように試合に出ることはできていたが、ポジション上理不尽なダメ出しをされることや、全然真面目に練習していない人より結果が出せないことが幾度もあった。だがそれを他人や経験の差のせいにすることだけは絶対にしたくなかった。だからこそ僕はその悔しさをバネに、他の誰よりも練習した。雨の日も、雪の日も、年末年始も、ゴールデンウイークも、休校中もどんな日でも意地で練習した。絶対に負けたくなかった。

そして迎えた盛岡市選抜の選考も兼ねた中学校最後の中総体。僕はエラーもしたし、アウトになってしまったプレーもあった。それでも僕は、今まで積み重ねてきた自信があったから思い切ってプレーすることができた。その結果ヒットも打ったし、ファインプレーもあった。しかしチームは2回戦敗退。こうして僕の挑戦は一つの区切りを迎えた。

たった1年という短い期間で、市選抜に応募できるまで育ててくれた父、そしてそれを支え続けてくれた家族。とても感謝している。いつかこの感謝を恩返しに変えられるようにしたい。そのための新たな挑戦はもうスタートしている。高校1年の5月、春の地区予選で、
「9回裏、盛岡第四高校の攻撃は、9番代打阿部くん」
このアナウンスが球場に響き渡るのを、バッターボックスの中で聞く。これが僕の新たな挑戦の最低目標だ。そして、それで恩返しになるかは分からないが、いずれ甲子園に家族全員を連れていきたいと思っている。また、将来は教師になってどんな生徒でも支えて、共に目標を達成したいと思う。

だから、僕の挑戦は終わらない。

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佳作

勝負

岩手県盛岡市立城西中学校

3年 阿部 ひかる

2020年、私の将来の夢に「デザイナー」という候補が上がってきた。なぜなりたいと思ったのだろう。今まで考えてもこなかった職業だ。

なぜ私がデザイナーという職業に興味をもったのか。理由として考えられるのは、私が進級して中学“3”年生になったことだろう。中学3年生というのは後輩たちを導くことができ、学校の代表として校外に赴くことができる唯一の学年だ。今年、私はありがたいことに新しい部活動Tシャツのデザインや、サマーコンサートのチラシの作成、文化祭のポスターなどを先生方や同じ部活動の仲間たちから任されてきた。どれもやりがいのあることだったが、同時にすごく悩むことになった。このデザインは人から好かれるのか、親や知らない人が見ても気に入ってくれるのか。すごくすごく悩んだ。

結果、新しいTシャツはみんな着てくれて、コンサートのチラシは親からも好評だった。努力が認められた気がした。それと同時に、「自分でどういうデザインにするか考えることは難しくもあるが、楽しいことでもある。」と思った。正直自分は調子に乗っているだけなのかもしれない。だが、これだけ楽しいと思えて熱くなれることは今までなかった。この気持ちが私の将来の夢を決める原動力になってくれたのだろう。Tシャツのデザインも、コンサートのチラシも、文化祭のポスターも、全部私が中学3年生になったからできたのだ。2年生のころからいろいろあって将来への希望が絶たれることもあったが、それでよかったのかもしれない。今のこの前向きな気持ちで2020年、それ以降も駆け抜けていこうと思う。

この夢を実現させるのは決して簡単な話ではない。それでも、私はこの未知の世界に挑みつづけたいと強く思った。

それからというもの、私は「物を買う」だけではなく「物を見る」ようにしている。これまでは、必要な分はもちろん買うが、買わない物に関しては「これ素敵だな〜」「私には合わないかも」と思ってスルーしていることがほとんどだった。今は、買わない物の方もよく見て「この柄かわいいな」とか「この服の形がかわいいな」などと自分なりに分析して、知識として吸収するようになった。その知識をさらに発展させるには何をすれば良いのか。それは想像力、創造力を養うことだと思っている。頭の中でどういうふうにつくりたいと考えるのは簡単だ。だれだってできる。だがそれを実際に紙に描いたり、立体にしてつくったりできるのか。そこまではだれもが容易にできることではない。今の私の課題は創造力を養うことだ。絵を描く人間なら誰しもぶち当たる壁なのではないだろうか。この壁を乗り越えるにはひたすら自分の技術を磨いて限界を突破していかなければならない。なので、今年は勉強も大事になってくるが、それと同時に自分の技術の向上のため、いろいろな物を見て、触れて、吸収して絵を描いたり物をつくったりしていきたい。

私はまだまだ未熟だ。まだ人のアイデアや既存の服、雑貨を見てから「これを取り入れたい」などと思っている。もちろん既存のものに感化されるのは良いことだが、そのとき感じた気持ちをそのまま自分の作品に反映させるのはあくまで趣味の範囲内であると私は考えている。私はまだそのレベルでとどまっていると思う。私には、良いと思ったものを「発展」させる能力がまだ足りていない。この「発展」が自然にできるようになったとき、初めて趣味の範囲から抜けだし、「仕事」と呼べるようになるのではないだろうか。そして人々をあっと驚かせるものをつくったとき、初めて「プロ」と呼べるようになるのではないか。

私は、未熟なままでいたくはない。この2020年という年は私にとって勝負の年だと思う。この自分との戦いをどのようにくぐりぬけるのか。そして将来どんな大人になるのか。今からとてもわくわくしている。

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佳作

感謝

岩手県立一関第一高等学校附属中学校

2年 瀧澤 千尋

長い春休みも終わり、久しぶりに友達に会うことができ、毎日が充実していた。しかし、予定されていた水泳大会はほとんどが中止され、半年前から目標としてきた東北中総体の決勝も、このままだと県予選すら行われない。そんな中に飛び込んできたのは、長い間教えてくれていたコーチが、今月いっぱいで辞め、山形に行くという悲しい知らせだった。

私はスポーツアカデミー一関に所属している。そのコーチが来たのは私が小学3年生の頃である。大会に出る選手は選手育成、準選手、選手コースの3つに分かれており、当時は1番下の選手育成だった。1年後に準選手に上がることができ、そのまま4年経っている。そして、コーチはここへ来てから5年間、ずっと私を教えてくれていた。急に辞めることを報告されたときは本当に信じられなかった。

そして、とうとう最後の練習の日になってしまった。提出した反省文が返され、裏返して最後のコメントを読んだ。そこには、「まだまだタイムは伸びていくと思うから」「コツコツが似合う千尋が、今まで頑張ってきた成果が出始めている」「練習を見られないのが残念」「遅咲きスイマーだからこそ良いこともたくさんある」など、今まで聞いたことがないような言葉が並べてあった。一つ一つが心にぐっと響き、涙があふれた。遅いとあれだけ「帰れ。」と言っていたのに、期待してくれていたこと、今まで教えてくれた感謝、もうほとんど会えなくなってしまう悲しみ、いろんな思いが交ざり合い、ただただ泣いた。他のみんなも同じで、プールに泣き声が響いた。それだけ良いコーチだったのだ。

それからしばらくはコーチがいないさびしさを感じた。が、いつまでもぐずぐずしていられない。もう少しで入れ替え戦があったからだ。

入れ替え戦とは私が練習している準選手コースと1つ上、1番上の選手コースの入れ替えを行うタイムトライアルだ。200m個人メドレー10本のタイムで競う。半年に1度行われ、今回は資格級11級という全国大会の標準タイムに近い上位20名が選手というルールだった。これまでは速さ順で、私はいつも22位や21位だったため、今度こそ選手に上がりたいという強い思いがあった。

そして、1カ月後。予定通りタイムが測定された。自分の10本の平均は2分38秒。前より5秒以上速く、自信があった。その結果、13位という結果で選手に上がることができた。やっとつかんだ選手枠、とてもうれしかった。

その日から選手コースの練習が始まった。しかし、練習時間は20分長く、泳ぐ距離も2,000m以上増え、疲労と眠気が私を襲った。上がれたまでは良いが、練習についていくのが精一杯で、本当にきつかった。前期の中間テストもあり、選手の大変さを身にしみて感じた。

ところが、政府がスポーツ施設の休業要請を出し、アカデミーが閉館してしまった。めげずに頑張ってきたのに練習ができなくなってしまったのだ。テスト勉強にはちょうど良かったが、ほぼ日常になっていた水泳ができないのは意外とストレスで、日に日に泳ぎたい気持ちが強くなった。

幸いにも2週間程でアカデミーは再開できた。また多忙な日々が始まったが、それが当たり前じゃないと気付いた今は、以前よりも強いと思う。それでも行きたくない日は、私の宝物であるあの反省文の裏を読み返す。次に会うのは何年後になるか分からないが、成長した姿を見せて、コーチの期待に応えられるようになりたいという思いが再び胸をいっぱいにする。それだけで練習に行って頑張らなきゃという前向きな気持ちになれるのだ。

ちょうど1カ月後には、半年ぶりの大会がある。今までの努力を試す、絶好のチャンスだ。大会をやると聞いたときは、本当にうれしかった。今ではもう選手にだいぶ慣れてきて、勉強時間もとれるようになった。泳げる喜びと感謝を忘れず、これからも頑張りたい。私の挑戦は、まだまだ続く。

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佳作

人のために

岩手県岩手町立川口中学校

3年 瀧本 珠希

私は動物が好きです。物心がついた頃から犬や猫、うさぎなど、私の家にはたくさんの動物がいました。今も猫を7匹飼っています。私たちの中学校では、2年生の夏に3日間、町内の職場体験学習に行きますが、私はもちろん、動物病院に行きました。

「すごい!」
初めは、トリミングを見ました。トリマーさんは、すばやく、そして丁寧に犬の毛を刈り、爪を切っていきます。しかし、トリマーさんの腕には、たくさんの傷がありました。私は思わず、
「どうして、この仕事を続けているのですか。」と聞いてしまいました。トリマーさんは、
「えーっとね『きれいになったね』って喜んでくれると、嬉しいのよ。」
と答えてくれました。

午後は、農家に出かけて、牛の手術を見ました。

「なあ、獣医って誰のためにいると思う?」車の中で、獣医の佐々木先生が運転しながら聞いてきました。

「動物のため、ですか?」
答える私に、先生は、
「確かに、『動物のため』でもあるよね。でも、僕はやっぱり、一番は『人のため』だと思っている。」
と言うのです。

「えっ、人のため?」
「そう。例えば、犬とか猫とかペットが病気になると、飼い主は不安になるよね。その不安を取り除くために、僕らは治療する。牛なんかの産業動物だと、病気を治さないと、飼い主の利益がなくなってしまう。動物を助けることは、人を助けることにつながるんだよ。治した後に感謝されると、すごく嬉しい。『獣医やっててよかったな』って思うんだ。」

私にとって、この言葉は衝撃でした。それまで私は、獣医やトリマーは動物専門の仕事だから、「動物のことだけに集中していればいい」と、思っていたからです。それに「人のため」なんて、考えたことがありませんでした。

中学校に帰ってきて、レポートを作りながら考えていました。

「トリマーさんや獣医さんだけじゃない。動物看護師さんも言っていた……。『人のため』って、とても大切なことじゃないかなあ。私も、人のために行動してみたい。」

初めはどうしたらいいのか、分かりませんでした。でも、今は、「中学生でも、人のためにできることは、たくさんある」と断言できます。

私は木曜日の昼休みに、図書室で本の貸し出しをしています。本が好きなので、当番をすることも、「一緒に本を探して」と頼まれることも、面倒ではありません。楽しい時間です。

「そうだ、これだ!」
私はある日、いつものように当番をしていて気がついたのです。今まで普通に取り組んでいたことが「人のためになっていた」ということに。その仕事に詳しくなくても、ただ忘れずに当番をするだけで、私は、十分「人のため」になっていると思います。

「特別なことをしなくても、人のためになるのだ」と分かってから、私は次々と自分がしたいことが見え、行動も自然にできるようになりました。例えば、「おはよう」などの挨拶をすること、風で落ちたプリントを拾うこと、開けっぱなしの窓を閉めることなどです。

不思議なもので、「自分のしたことが人のためになっている」と実感できると、ささいなことでも大切に思えるし、楽しんで行動できるようになります。

また、「ああ、あの時の自分は勝手だった、迷惑をかけたな」とか、周りの人の様子から「あれは親切に見えるけれどやり過ぎだな、人のためになっていないな」と気づくなど、客観的な見方もできるようになってきました。

人のために行動する。この考え方に出合って、私は以前よりすっきりと生活できるようになりました。「人のためにしなければならない」ではなく、軽い気持ちで、自分の好きなことや、できることから始めると良いのだと思います。

私は、「ヘアドネーション」にも挑戦しています。まだ伸ばしている途中ですが、私の髪が「人のため」になる時を楽しみにしています。

人のために! 皆さんも、少しだけ意識して、気軽にできる行動をしてみませんか。

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佳作

まげない意志

岩手県普代村立普代中学校

3年 日向 星來

「大工になる。」

私は幼い頃、こんな夢を持っていた。大工になりたかったのは、大工が家業だからだ。祖父のもとで私の母も働いていたため、小さい頃からその姿を純粋にかっこいいなと思っていた。小学校高学年になると「私の夢って何だろう」と考えるようになった。「やっぱり、家業を継ぐことかな」と思い、大工になるという夢を持った。正直、母の大工姿は格好よかったが、私自身はその仕事に興味はなかったし、自分には向いていないと思っていた。でも、家業を継ぐことで祖父や母が喜んでくれ、親孝行にもなるのでないかなと思った。さらに、家族という関係だけではなく、師弟関係になることも私にとっては大切なのではないかと考えるようになった。それからは大工に使う道具などの名前を覚えたり、作業する様子を見に行ったり、少しずつ大工に近づこうと私なりに頑張っていた。

しかし、中学校に入学してから間もなく、私の夢は変化していった。それは、「中野流鵜鳥七頭舞」との出会いがきっかけだ。中学校に入り、伝統芸能である七頭舞を習い始めた。最初は、ただ母もやっていたから私もやってみようという軽い気持ちで練習に参加した。しかし、実際にやってみると七頭舞は動きも複雑で、覚えることが山ほどあり嫌になることもあった。それでも、お客さんの前で初めて舞を披露した後の温かい拍手や声援を聞くと、私の心は今まで感じたことのない喜びや達成感で満たされていった。練習がつらく、逃げ出したくなることもたくさんあった。それでも、地道に努力を重ねてきて良かったと心の底から思うことができた。

それからは練習にも力が入り、休憩時間や家でも自主的に練習に励むようになった。そして練習を重ねていくうちに新たな感情も芽生えてきた。それは、苦しさ、つらさの先にある楽しさ。この想いを乗り越えてきた人だけが感じることのできる、自分だけの楽しいという感情。そのおかげなのか、舞も以前より綺麗になった、足が上がるようになったなどと指導者の方からも褒めていただく回数が増えてきた。その指導者の中には、私の母もいる。七頭舞の練習では、あくまでも先生と生徒。最初はなかなか、その関係に慣れなかったが分からないところがあると聞いてみたり、練習が終わった後は、家でアドバイスをもらったり親子でありながら、先生と生徒という絆も深まっていった。

毎日の練習にも熱が入り、イベントでも七頭舞を披露する場が増えていったが、中には練習通りにできなかったり、思い通りに舞えなかったりすることもよくあった。そんな日私は踊り終わった後、悔しくてよく泣いていた。他の人からすれば、なぜそこで泣くのか理解に苦しむかもしれない。しかし、私は七頭舞が大好きだからこそ、思い通りに踊れなかった時に悔しさが込み上げてくる。だから泣きながらもどこが悪かったのかを反省して「今度こそは自分で納得した舞を披露する」と決意を新たにする。それほど、私は七頭舞に本気になっていた。

こんなにも一つのことに打ち込めた経験はない。本気になる悔しさや楽しさを教えてくれた七頭舞が私は大好きだ。さらに、七頭舞は私を人間的にも成長させてくれた。七頭舞は年々参加する人が少なくなってきている。その地域の文化や、先祖の想いの結晶である伝統・郷土芸能を絶やすことがあってはならない。だからこそ、後継者を育てていくことも大切だと思った。七頭舞は普代中生が代々受け継いできた大切な文化だと思う。また、人間的成長もさせてくれる場であると思う。現に私も、人前で何かを発表したり、表現したりすることが苦手であったが、七頭舞のおかげで人前で表現することの楽しさや勇気を学ぶことができた。

このように私は中学生で七頭舞という素晴らしいものと出会い、挑戦し続けた。私の今の夢は、郷土芸能を伝承する一人になるということだ。正直、大工から夢を変えてしまうことに、迷いもあったが母も賛成してくれている。今年で中学校も最後。高校に行っても七頭舞を続けられる高校に進学しようと考えている。よりいっそう七頭舞について学び、伝統芸能を継承して、さらに未来の子どもたちへ繋げられる存在になりたいと思う。私の挑戦はまだまだこれからだ。

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佳作

私らしく生きるには

岩手県一関市立磐井中学校

1年 前田 香莉奈

私はよく「おとなしい」と言われる。

自分で自分のことは一番よくわかっている。私は確かに口数は少ないし、余計な話はあまりしない。つまらない人間かもしれない。しかしそれは今に始まったことではない。おとなしくて口数が少ない、それが私なのだ。別にそれが不自由だとは思わない、世の中にはいろいろな人がいる。うるさい人もおしゃべりな人もいる、それは「個性」だ。気にすることではない。

私はこの春、中学生になった。大きな学校、やりがいのある部活、そして何より自分と気の合う友達を見つけることが一番の楽しみだった。新しい友達をつくり、自由で有意義な時間を3年間で築きたいと自分の中での目標にしていた。

小6の冬は大嫌いな時期だった。クラスの中の半分が男女問わず荒れていた。先生が、親が、学校全体が悩むほどの荒れ方だった。授業中だというのに立ち歩き、おしゃべりをし、トイレまで行ってしまう。授業にならない、でも誰も何も言わない変な教室だった。もちろん真面目に授業を受けている生徒も何人かいる。私もその一人だった。いじめもあった。男女の集団が一人を囲み悪口を言い、からかい、嫌がらせをした。周りは見て見ぬふり。そのうち私や友達も対象にされ、嫌がらせを受けた。今考えると、あの時期はくだらない時期だったとさえ思う。ただの幼稚なクラスだったのだと情けなく思う。いじめはどんな理由があるにしろ絶対にしてはいけない。「自分がやられて嫌なことは絶対にやらない」これは私のモットーだった。だから嫌がらせを受けたあの時期はものすごいストレスだったが、仕返しとかは全く考えなかった。誰にも歯向かわず、時には先生に相談し、親には毎日話を聞いてもらった。それが自分の勇気につながった。

今、中学生になり数カ月経った私はとても充実している。「おとなしい私」は、自分らしい美術部に入り、大きな学校の大人数にも慣れ、気の合う友達も何人かできた。授業は難しいが毎日がキラキラしている。小6の時のような、学校に対する憂うつさはない。なぜならあのころはうつむいていただけだったけれど、今は周りを見ることができているからだ。私なりに、見方を変えようと考えた。例えばどんな場所にどんな人がいるかを観察し、どんな性格かを接してみて把握する。そのうちに、一緒にいて落ち着く人や近くにいたいと思える人が自然に私の側にいてくれた。つまり、それが気の合う友達ということだ。その存在がどれほど私の勇気や支えになっていることだろう。一人じゃないということがこんなにもうれしく幸せに感じられることだと改めてわかった。

小6の時に人間不信になりかけた「おとなしい私」が、今、安心して笑っていられる。その喜びが、この先何でも頑張っていけると背中を押してくれる気になる。

美術部に入ったことも、単にイラストを描くのが好きだからではない。将来パティシエになりたいからだ。パティシエになるには、スイーツを作るための想像力やデザインが重要だと思っている。

そのために3年間落ち着いて活動できる美術部で、デザインやイラストの描き方について学びたいと思った。また自分の想像力を高めていければと考えた。

私の中学生活はまだまだ長い。

この先嫌なことがあっても、つまずいて悩むことがあっても、大切な友達がいること、将来の夢に向かって前を向くことを忘れずに、そして私は一人じゃないということを心に留め、そのことに感謝しながら私は私らしく生きていこうと思う。 そしてあの大嫌いだった小6の教室にいた私とはさよならをして、新しい環境でも人に流されず個性を大事にして、未来へ羽ばたく努力をしながら成長していきたい。

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佳作

最後の夏を取り戻せ

岩手県宮古市立第一中学校

3年 女鹿 優月

新型コロナウイルス。私は今年になって何度この言葉を耳にしただろうか。どれだけの楽しみを奪われただろうか。「いつも通り」ができないのはこんなにも辛いのか。中学校生活最後の年を、私たちはめちゃくちゃにされてしまった。

私たち吹奏楽部は、他の部とは違い、小さな大会も練習試合もない。音楽は競うためにあるものではない。しかし、他校の演奏を聴き、高め合うことは素晴らしいことだと思う。唯一それができるのが「コンクール」だった。私たちは毎年、コンクールの、たった1回しかない演奏に全てをかけている。高め合い、聴き合い、自分たちの音楽を届けるために。

私たちの日常の中に少しずつ、「新型コロナウイルス」という言葉が馴染んできた頃。私たちも覚悟はしていた。他県では中止になったところがあるというのは噂ではあるが耳にはしていた。先生から、3年生だけ、集まるようにと言われた。皆の前に先生が出した紙には「中止」という言葉が書かれていた。そこからのことはもうよく覚えていない。涙が止まらなかった。友達と楽器庫にこもって抱き合いながら、慰め合った。偉い大人たちは口を揃えて「今までが無駄になるわけじゃない」「コンクールが全てじゃない」と言っていた。そんなの、私たちが一番分かっている。ただ私からしたら「無駄にならない」も「全てじゃない」もだから何だ、としか思えなかった。たとえそうであったとして、私たちのコンクールは戻ってこない。最後の大舞台が、なくなった。

その日から、私は「部活動」に何のやりがいも感じなくなってしまった。この練習は、何になる? 届けて相手の心を動かす、そこまでが音楽じゃないのか? 楽器庫にこもって友達と特に何もせずぼんやりと校庭を眺める日が続いた。憎むことができない相手にも、今の自分の姿にも嫌気がさした。

何日か経ったある日、顧問の先生が嬉しそうに「発表会」のことを伝えてくれた。本来、コンクールで発表する予定だった2曲を、校内で発表する場を設けてくれるらしい。コンクールのように立派なステージではなくて小さな体育館のステージだけれど、私たちの努力に、それ相応の評価をつけてくれる人はいないけれど、音楽を誰かに届けられる。たくさんの人に私たちの三年間の成長を見てもらえる。それが、ただただ嬉しかった。

その日から、私たちの「夏」が始まった。私の吹く楽器はトランペットなので、メロディーが多い。その上、メロディーの裏でひっそりとリズムを刻むときでさえ目立つ。先生には怒られたし、同級生にも苦笑された。一人一人が吹けていなければ合わせたときにひどい音になるのは当たり前だ。家で何度も曲を聴いた。パート練習のときは先生を呼んで、正しいメロディーを教えてもらった。自分と同じメロディーを持っているパートに声をかけ、セクション練習もした。このままだと昔のままだと思われてしまう。いつも応援してくれていた家族にも成長したところを見せたい。そう思って毎日、必死に練習した。

私は1年のときはステージにのっていない。袖のところから、かっこいい先輩の姿を見ていた。キラキラしていて、ホール中に音を響き渡らせていたあの先輩のようになりたい。あの姿を目指して基礎練を何回も何回もしてやっと私も届ける立場の人間になれた。

2カ月ではあったけれど毎日頑張って音楽をつくってきた。本番前日、みんなで練習の間にドーナツを食べた。とっても美味しく感じた。これがもしも本当のコンクール前日であったらこんな余裕はなかっただろう。少し肩の力を抜いて、いつも通りの演奏ができたらいいなと思った。

本番は自分の苦手なところもうまく吹けた。少しミスはあったけれど高い音も難なく出せた。先生も良かったよと言ってグータッチをしてくれた。家に帰って家族に感想を聞いたら母も祖母もマーチの最初の部分で泣いてしまったと言っていた。理由を聞いたら「あんたの成長を感じて」「本当だったらこの曲を大きいホールで吹いていたのかなと思って」と言っていた。けれど2人とも、本当に素敵だったと言ってくれた。私たちの頑張ってきた日々も認めてもらえたし、ちゃんと相手に音楽を届けられたんだと嬉しくなった。

2年前の自分は最後のコンクールがこんな形で終わるとは思ってもいない。ただ基礎練をくり返しているのだろう。今年の演奏がどのくらい完成していたか分からない。けど、人の心を動かす、相手にちゃんと届く音楽をつくりあげられたことは確かだ。引退まであと少し。その間、自分に何ができるだろう。きっとたくさんあるはずだ。それらを積み重ねて私は成長していく。一歩一歩、確実に。

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佳作

「我慢してね」

岩手県岩手町立沼宮内中学校

3年 山口 璃子

私は、この言葉を今まで何度言われてきただろう。小さな頃からずっと、ずっと…。

私には、「コルネリア・デ・ランゲ症候群」という約3万から5万人に一人という割合でしか生まれない病気をもった弟がいる。外見はいたって他の子と変わりはない。しかし、低体重出生という状況で生まれてきた状況や、低身長、それに、発達の遅れ、胃食道逆流の症状、軽度の難聴などの症状をかかえている。

弟には、どうやら自分の気持ちを解放させるスイッチがあるようだ。そのスイッチが入ると、それまでの様子が一変する。弟は、大声で歌を歌ったり、家族の話を聞いてくれなくなったりと、自分勝手なことばかりするのだ。だから私は、弟の気持ちのスイッチが入らぬよう、いつも気を遣う。しかし、どんなに気をつけていてもスイッチが入ってしまうときがある。本当に困ってしまう。間の悪いことに、そこに気の強い妹が入ってしまうと、さらに私の頭は混乱し、自分が自分ではなくなってしまい、落ち着こうと思っても頭が回らなくなる。そうして、私の態度が変わってしまったことを家族に怒られる。「あなたが一番上なんだよ。」「しっかりして。」そんなの、分かりきってる。だけど、なんで私だけなの? そう言い訳しても、「それくらい我慢しなさい。」という返答。出た、「我慢しなさい」という言葉。その言葉の意味は、ずっと前から理解している。でも、いくら長女だとはいえ、下の妹弟のことで我慢できなくなっているからこういう態度になってしまっているのに。なんで分かってくれないの!

こういう言い争いを母とするたびに、私は自分が嫌いになってしまう。祖母なら私の気持ちが分かってくれるに違いない、と思って相談しても、「お母さんも大変なんだから協力してあげなきゃね。我慢するんだよ。」と言われてしまう。もう私の味方なんていない、いつしかそう思うようになってしまった。私は、弟のことで小学生のころから母に反発していたと思う。大体は私が謝らなければならなかったが、心の中では「私は悪くないのに」と納得していなかった。だから、自分で自分を守る言い訳をいくつも探したりした。

「なぜ、私だけが我慢しなければならないのだろう。」毎日毎日こんなことを考えていた私だが、突然、弟への考え方が変った出来事があった。「職業調べ」の授業の時だ。

「やっぱり、保育士って大変だよね? 普通の子だけじゃないし。我慢することも多いしね。」という同級生の声が教室のざわめきの中から聞こえてきた。あれ? 「普通」って何だっけ?
「我慢」なら、いつも私がやってることじゃん。何が大変なの? 「普通の子ではないから大変」この言葉が、突然私の心に入り込み、いつまでも引っかかっていた。

家に帰ってすぐに、私は母に聞いた。
「弟のこと、どう思ってるの?」
少し驚いていたが、母はゆっくりとした口調でこう答えてくれた。
「そりゃ大変だし、辛いけれど、あの子の笑顔をみると頑張れるよ。みんなにはいろいろ我慢させている。そこは悪いと思っているよ。」と。母も辛かったんだ。私と一緒だ。私だけなんかじゃなかったんだ。私は大切なことに気づくことができた! ずっと「自分だけが我慢させられている」とひがんでいたことが、急に馬鹿らしく思えてきた。なぜ、もっと早くに母の気持ちを確かめなかったのだろうか。さらに母は、「辛くなったら何でも言って。相談に乗るから。」と言ってくれた。母の言葉にふれ、私は心から「うれしい」と思った。

弟はこれから先、手術とリハビリを何度も繰り返さなければならない。この病気と一生付き合っていかなければならないのだ。私は今まで、思い通りにならない弟が嫌だったが、一番辛いのは弟だということに気づいた。弟には弟の意志がある。それを伝えようとして、がんばって表現している。時にそれはわがままだったり、癇癪になったりするけれど、言葉でうまく伝えられない弟にとっては、立派なコミュニケーションの一つなのだ。私は自分のこれまでの態度を申し訳なく思った。ごめん。これからどうしたらよいか、考えて実行してみる。そうしたら、弟も変わってくれるかな。例えば、弟が癇癪を起こしたら、落ち着かせるように優しい口調で話す、話を聞いてほしい時は、自分の思いをしっかり伝え、弟をのり気にさせる、などなど。当然、まだ完璧ではないので、将来、自分が仕事に就くためにも、そして、弟の気持ちを理解するためにも、保育センターの方々や支援学校の先生方、プロの介護士さんなどから接し方や対応の仕方を教わっていきたい。もちろん、「普通、普通じゃない」にかかわらず、人としてコミュニケーションをとっていくためにも。

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佳作

私の願い

秋田県横手市立横手北中学校

1年 今氏 結心※今氏結心さんの「氏」は、右上部に点が入ります。

新型コロナウイルスの感染拡大により、老舗の洋食店や旅館が、閉店や廃業に追い込まれたというニュースを見て、心が傷みました。例年であれば、このお盆休みは大切な亡き人やご先祖様を供養するため、故郷へ帰省する人たちを迎えるはずでしたが、感染拡大の影響で、外出自しゅく、各種イベントの中止や縮小など、今までに経験したことがない状況が続いています。お盆休みの帰省は日本人にとって大切な行事です。故郷があるから帰省し、ご先祖様を供養できます。大切な人や、大切な場所があるからこそ帰省し、共に思い出を振り返ることができます。もし、故郷や、大切なものがなくなってしまったら、皆さんはどう思うのでしょうか。

今年、母校が取り壊されることを知りました。私の母も祖父も曾祖父も通った、141年の歴史がある小学校でした。平成28年3月に閉校式が行われましたが、そのとき私は小学校2年生でした。たった2年間の母校の記憶。地域の方々に感謝の気持ちを届けようと、地域に伝わる「雨玉龍王の伝説」にミュージカルで取り組み、全校生徒48人で力を合わせ成功させたことが懐かしい思い出です。

地域の3校が統合し、新築の新しい小学校に通うことになりましたが、閉校する小学校は残っていたので、新しい学校への期待の方が大きかったです。「いつか壊されてしまう日がくるのでは」と思いながら過ごしていましたが、いざ母校が取り壊されると知ったとき、思い出もなくなってしまうような寂しい気持ちでおしつぶされそうになりました。

私が暮らしている地域は、小学校だけではなく、中学校、農協、交番もここ数年のうちになくなってしまいました。地域の人たちと挨拶を交わした通学路も、今ではスクールバスの窓ごしに眺めるだけです。地域のシンボルのような存在がなくなっていくことはとても辛いことです。私の地域だけではなく、秋田県ではたくさんの場所がなくなっています。今後も大切な場所がなくなってしまったら、私のように辛い気持ちになる人がきっとたくさんいるのではないかと思います。

インターネットで「秋田の今後」について検索してみました。一番最初に目に飛び込んできた言葉は「秋田県は25年後には消えてなくなると言われている」でした。秋田県は、高齢化率全国1位、人口減少率5年連続1位。高齢化と過疎化が進行する厳しい現実の中で、大切な場所を守るために県は、「あきた未来総合戦略」を策定し、「人口減少の克服」と「秋田ならではの地方創生」の実現に取り組んでいることを知りました。そのプロジェクトの内容に、共感できる部分もありました。若者世代の希望する、子育て支援・出会い・結婚支援までの取り組みや、女性が仕事と子育てを両立できる環境づくりや移住者数増加への取り組みには、期待しています。

秋田には、四季折々の風情があり、豊かな水と土地に恵まれ、食べ物が美味しいです。空気も澄んでいて、安心・安全な環境で、地域の人の温かさが感じられます。夏・冬それぞれの季節で地域ごとに伝統行事があり、重要無形民俗文化財が17件もあって全国1位。そんな秋田が、私は大好きです。

秋田で取り組んでいるプロジェクトを成功させ、大切な秋田を守るには、一人一人が秋田をアピールすることが大事です。私も「25年後に消える」と言われている秋田県が消えないために、自分ができることをこれから考え、取り組んでいこうと思います。

この夏、私は初めて祖父と墓の掃除、墓参り、迎え火・送り火を行いました。横手市には送り盆まつりがあります。先祖の霊を供養する地域の行事は、地域の人々の心をつなぐ、先人からの現代に生きる私たちへの贈り物だと思います。

豊かな自然に囲まれて、昔ながらの歴史がある地域で保育士になることが私の夢です。子どもたちを笑顔にし、伝統文化を伝えていくために、まずは私たちの世代が積極的に地域に関わっていくことや、秋田のことをもっとよく知ることが大事だと考えています。

私にとって大切な場所は秋田県であり横手です。豊富な自然環境に恵まれ、何より人の温かさが感じられるこの故郷を誇りに思います。同世代には夢を追いかけ故郷を出て行く人もいるでしょう。その人たちが帰省できる場所を、地元で暮らしていく私たちが守りたい。大切な場所があれば、きっと生きていく上で力になるはずです。小学校がなくなっても思い出があれば頑張れる。故郷の思い出は生きていく上で心の支えになります。これからもずっと未来へ、この故郷を残していくこと。思い出を大切にして生きていくこと。私のできる小さなことから取り組んでいきます。

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佳作

立ち上がれ、私!

秋田県鹿角市立尾去沢中学校

2年 片山 美希

「完治するのは難しいだろう」

お医者さんから告げられたひと言は、私の心に深く突き刺さりました。

私は小学校1年生から小学校6年生まで、アルペンスキー部に所属していました。県大会に出場できる力はありませんでしたが、いくつかの小さな大会に出場していました。兄弟や友達と競い合い、たくさんの楽しい思い出ができたアルペンスキー。しかし、大きな試練が私を襲いました。それは小学校6年生の冬、妹の大会で荷物をさげる手伝いをしていたときのことです。不注意で転倒した私は、両足の骨を折る大怪我をしてしまいました。転倒したときはあまり痛みを感じませんでした。しかし、立とうとしても立つことができず、周りの人に助けてもらいました。その日のうちに私は入院をすることになりました。卒業式の1カ月前の出来事です。時間を戻すことができたらどれだけ良いだろうと何度も考えました。

その日から始まった入院生活は、想像以上につらかったことを覚えています。入院して2日ほど経ったとき、検査結果を見て愕然としました。骨にたくさんのヒビやズレがあったのです。自分の足とは思えませんでした。手術をするか、何カ月も腰近くまでギプスを付けて過ごすか、決断を迫られました。

手術をすることで治りは早くなり、怪我をする前に近い状態まで回復することができます。しかし、20cmくらいの傷が一生残ります。ヒビが入っているのが神経の近くだったため、神経を傷付けてしまう恐れもありました。もしかしたら立って歩くことができないかもしれないと言われました。

一方で、ギプスを付けて生活することを選ぶと、手術によって神経を傷付けるリスクはなく、傷が残ることもありません。しかし、卒業式に出ることはできません。中学校に入学した後もしばらく車椅子で生活することになります。普段の生活はもちろん、楽しみにしている行事などはみんなとともに活動する場面が限られてしまいます。とても長い間、不自由な生活をすることになるでしょう。悩ましい選択に夜がやけに長く感じたことを覚えています。

悩みに悩んだ末に、私は小学校を共に過ごした仲間と一緒に卒業式に出席するために手術をすることを決意しました。とても怖かったけれど、みんなと過ごす時間を大切にしたいと思いました。手術はあっという間に終わりました。幸いなことに後遺症が残ることもありませんでした。回復も順調で卒業式にも参加することができました。車椅子での参加でしたが、友達が押してくれました。歩くことができるようになるまで、たくさんの人が助けてくれました。心からありがたいと思いました。私は私を支えてくれた人たちに何倍もの恩返しをしようと決めました。入院中にもらった優しさの詰まった手紙を何度も読み返しては、私にできることは何かを考えました。みんなに尋ねても「無理しなくてもいいよ」と優しく声をかけてくれます。小学生の時には怒りっぽい私でしたが、たくさんの人が私を心配し、関わってくれたことがきっかけで、あまり腹を立てなくなったように思います。みんなから優しさをもって接してもらって本当に嬉しい気持ちになったので、私も思いやりの心をもって周囲の人に関わろうと考えています。

手術という大きな経験から、思いやりの心をもつこと、勇気をもって踏み出すことの大切さを改めて感じました。思いやりの心をもって接することは、毎日意識して生活しています。どんなことにもめげずに挑戦する勇気のおかげで、リハビリや2度目の手術も乗り越えることができ、予定よりもずっと早く歩くことができるようになりました。

この先、スキーをすることは怖くて、もうできそうにはありません。しかし、この経験は、私が大きく変わるきっかけとなりました。周りの人がどれだけ心配してくれているのか、優しさをもって関わってくれているのかを気付かせてくれました。きっとこの先の人生においても私の心の支えになるでしょう。

今、私は陸上部に所属しています。入部当初は走ることはできませんでしたが、今では怖がらずに走ることができます。良い記録を出すことができると嬉しいです。自己ベストの更新を目標にして毎日の練習に取り組んでいます。中学3年生になると、部活動も集大成の年となります。受験勉強にも力を入れていかなければなりません。きっと苦しいことやつらいことも待っているでしょう。でも、家族や友達など、私の周りには心強い仲間がいます。これほど頼もしいことがあるでしょうか。どんな困難だって、きっと乗り越えていけると信じています。

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佳作

私の目指す「ゴール」

秋田県湯沢市立稲川中学校

3年 東海林 玲南

「何で女子なのに野球をしているの。」
そう思う人もいるかもしれない。実際、私も野球を始めるまでは女子が野球をしている姿をとても珍しく思っていた。

私が野球に興味をもったのは、小学校1年生の時だった。兄がその時にスポ少に入団し、野球を始めたことが大きなきっかけとなったといえる。

私は兄の試合や大会を毎回見に行った。見学の回数を重ねるごとに、私は野球の魅力にはまった。すごいスピードのボールを投げたり、遠くまでボールを打ったり、風のように走る選手の姿がとても格好良かった。私は野球選手がまぶしく見えた。自分もプレーしてみたい――そんな気持ちが高まり、私は小学校3年生で本格的に野球を始めた。

しかし、野球は私を優しく迎えてはくれなかった。むしろ厳しい姿勢で私にいろいろな課題をつきつけてきた。

最初の壁は基礎練習だった。もちろん、基礎練習が大切なことは分かっている。しかし、早く試合に出場したい、と思っていても、基礎ができていないため、試合に出してもらえなかった。

レギュラーの座を獲得するため、私は男子に負けたくないと思った。「女子だから」という言葉にも負けたくなかった。だから私はひたすら練習に打ちこんだ。しかし、そうはいっても、何度もくじけそうになった。自分がレギュラーになれる保証はどこにもない。もしかすると、ずっと控えの選手で終わってしまうかもしれない。そんな不安が常にあった。では、その不安をどう克服したらよいのか――それはやはり練習で力をつけていくしかない、と私は思った。そして、それと同時に、華やかに見えた野球には、こんな影の部分もあることを私は知った。小学生だった私は、何かをやり遂げるには覚悟が必要であることを野球から学んだ。

地道な練習を積み重ねるうちに、私はついに試合に出場させてもらうことになった。私は素直に嬉しいと思った。あれほどあこがれていた野球の試合に出場できるのだ。高ぶる心を抑えながら、私はミットをもって外野手のポジションについた。ところが、この時、私の心に異変が起きたのだ。――野球が怖い――私はそう思った。

これは一体どういうことなのだろう。あれほど試合に出場することを目標にし、頑張ってきたのに、いざ、こうして出場している私は不安と緊張で胸が押しつぶされそうになっている。私は、ひたすら自分の所にボールが飛んでこないよう祈っていた。それというのも、私の所に飛んできたボールを、もし私がエラーすると、大変なことになってしまうからだ。あんなに出場したかった試合なのに、あんなに練習を積んできたのに――。私は自分の中の弱さを野球から見せつけられたように思えた。もっともっと練習しなければ――私はギュッと強くミットを握った。

野球は私に厳しさを教えてくれた。しかし、私はその厳しさに対して嫌いになることはなかった。辛いなあ、苦しいなあと思う事はたくさんあったが、野球に対する情熱の炎はますます燃えあがった。

そんな私に野球の神様は、ご褒美をくれる時があった。春の練習試合の時である。私は初めてランニングホームランを打ったのだ。とても嬉しかった。野球の神様から少し認められたように思った。ホームベースを踏み、ベンチに戻るとみんなが私を温かく迎えてくれた。私は自分に自信がもてた。

ところが――である。4カ月後の新人戦でアクシデントが起きた。私はランナーとぶつかり、突き指をしてしまった。私は痛みをこらえながらプレーを続行した。幸い1回戦を突破することができたので、試合後はすぐに病院に行き、2回戦に備えた。ケガのせいにしたくない――私はそう思いながら試合に臨んだ。野球は私に強い心の種をまいてくれていた。

「何で女子なのに野球をしているの。」
こう質問されたら、私は「野球が好きだから」と答えたい。そして「野球はたくさんのことを教えてくれるし、その喜びは計りしれないからだ」と熱く語りたい。これは、私の体験から自信をもって伝えられることだ。野球を通して私は大きく成長できたと思う。

野球の神様は気まぐれだ。私に2年連続全国大会に出場させてくれたり、コロナで大会を中止にしたりする。しかし、私は野球を通してこれからも、もっともっと自分を輝かせていきたい。努力は裏切らない、という言葉があるが、全くその通りだと自分の経験からそう思う。だからこれからも努力を積み重ねていきたい。「栄光」というゴールを目指し、私はこれからも力強く歩み続けていきたい。

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悩みから学んでいくこと

秋田県仙北市立角館中学校

3年 菅原 陶子※菅原陶子さんの「菅」は、草冠の間が離れた部首「十十」です。

私たちが生きていく中で、悩みが尽きることはないと思う。一つの悩みが解決したと思ったら、また新しい悩みが生まれる。その中には死ぬまで消えないものもあるだろう。今、私にまとわりついているのは、「私は友達とうまく関われているのかな。」という悩み。考えても考えてもわからないままで、よく自己嫌悪に襲われる。でも、少しでもいいから気持ちを楽にしたい。何も気にせずにみんなと接したい。だから、自分なりに考えてみた。この悩みに、私はどうやって向き合っていけばいいのだろう。

私は友達とうまく関われているの…?そんな疑問を感じ始めたのは多分、小学校4年生の頃だと思う。部活動で先輩たちに避けられているような気がした。後から考えてみれば、私の態度のせいだったと思う。その頃の私は、自分が正しいと思ったことが、一番正しいのだと思っていた。そして、それを相手にそのまま伝えることも、最高に正しいことだと信じて疑わなかった。相手がそれを聞いて傷ついたとしても、「お前が悪いんだろ。」と思うような子で、今思えば、頭が固いなあ、とつくづく思う。

部活動で先輩たちや周りの人がふざけていたら、よく注意をしていた。そのせいで部活動では浮いていたし、悪口を言われた。それは6年生になるまで続いていたし、よくあんな真面目に取り組んでいたなあと今では感心するほどだ。それから急に怖くなって、よくヘラヘラ笑っていた。避けられて一人になったとき、とても「恥ずかしい」と感じたのだ。自分は正しいことをしていると思っていたが、それがきっかけで自分が一人になるなんて、と。その時初めて、あの悩みがでてきたのだ。

私って周りにどう思われているのかな。うざいって思われているかな。いい子ぶってんじゃねぇとか思われていそう。頭の中でぐるぐるしているのはずっとそれだった。周りにいいように思われたい! 人間誰しも1度は思ったことがあるのではないか。

小学校でのこのような経験から、私は自分の本心を隠し、常に笑顔で人と接するようにしていた。でもそれだと言いたいことは言えないし、本当の私というものを知ってもらえない。そんな時に、母からこう言われた。「自分を隠すのはもったいないよ。せっかく素敵な人なんだから。」部活動でのことがあってから自分に自信がなくなっていたが、母のこの言葉にとても心が動かされた。自分の個性は殺さないで、認めて、大事にするべきだと。初めて気づかされた。

中学校になってからは環境が変わり、新しい友達もできた。交流していくにつれて、たくさん気づかされたことがある。

まず一つは、周りのみんなにも、それぞれ個性があるということ。自分だけではなく、みんなそれぞれ自分の考え方があり、過ごし方がある。だから、もちろん喧嘩だってするし、すれ違いだってあるのだ。個性が一人一人違っても仲良くできたりするのは、みんながそれを理解し、尊重し合えているから。大人になるにつれて、自分だけではなく、みんな成長しているのだ。と、あたり前だが気づかされた。

二つ目は、自分を好きになれ! ということ。友達はいても、自分が自分を嫌いだなんて、あまりにも苦しすぎる。“私”が可哀想だ。「正義感」が強いのはいいことだよ。自分、偉い! 自分のことを理解し、肯定してあげるのだ。自分の良いところは、ちゃんと良いと認めてあげれば、びっくりするほど心が軽くなるし、楽になる。

三つ目は、周りの意見を聞きいれることが大事ということ。いくら自分の良いところを肯定していても、悪いところだってあるのだ。友達と喧嘩したときなどそうだ。自分は悪くない、と自分のことだけ考えていると喧嘩は終わらない。相手の気持ちを考えて、自分の悪いところを認めると、さらに自分という人間がわかる。

これら三つに気づかされて、本当に良かったと思う。人間関係うまくいっているの? と聞かれたらもちろんNO! だけど。自分としっかり向き合って、“私”という人間を知ることができた。負けず嫌いで短気。でも、正義感が強くて困っている友達がいたら助けるし、誰とでも平等に接する。私には、悪いところもあるし、こんなにいいところもあるのだ。

私は今中学校3年生で、高校、社会人などこの先たくさんのステージが待っている。これからも、人間関係について悩みが尽きることはないだろう。だから、これからも友達と喧嘩し合い、笑い合いながら成長していくのだ。「私は友達とうまく関われているのかな。」これからも悩みながら、友達と楽しく過ごしていこうと思う。

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佳作

3、2、1、アクション!

秋田県東成瀬村立東成瀬中学校

2年 橋 杏翼

「俺は楽しく過ごしたい。」

そう強く思うようになったのは中学生になってからだ。その頃の僕は、学校でも、家でもどこかさびしく、むなしさを感じていた。

入学するまでは学校に行くだけで幸せ、楽しいと感じられると思っていた。そこにいるだけで友達と笑い合える、そんな、理想を抱いていた。最初はそんなもんだ。誰でもこんな理想を思い浮かべるだろう。けれど、現実は違った。そんな理想をもたなければ良かった。そんなふうに思うこともあった。それぐらい理想と現実の違いに衝撃を受けていた。毎日無気力、虚無感を感じていた。なぜだ。なぜだか分からない。どんなに考えてもその頃の僕には答えを見つけられなかった。「楽しく生きたい。」という自分の夢からは考えられないくらいの生活が続いた。
「なぜだろう。なぜ楽しくない。学校に行きたくない。なぜ俺は、生きているのだろう。」自分に投げかける疑問はどんどん莫大に、そして辛辣なものになっていった。

「あいつのせいだ。」「こいつのせいだ。」と人のせいにしていれば心が軽くなるような気がした。「これじゃいけない。」そんなこと分かっているけど、そうしないと生きてゆけない、そんな気がした。気がするだけで十分だった。

そんな生活の中、僕の唯一の楽しみであり、心の支えとなってくれたのは、あるシンガーソングライターの歌だ。彼の曲は何度聴いても僕の心にそっと寄り添ってくれた。楽しくない学校から帰った後、布団の上で目を閉じる。そして、いつもの曲を聴く。リラックスなのか、現実逃避なのかよく分からないけれど、それが僕のルーティンとなった。実に心地良かった。反面、ふと不安に襲われた。

「俺は彼がいないと生きてゆけないのか。」
と胸がざわつきはじめた。

そんな時、新型コロナウイルスが流行し始めた。感染予防のために日本中が1カ月間の自粛。正直ラッキーだと思った。楽しくもない学校に行かなくていいなんて。しかも1カ月も。こんなことがあっていいのか。その日僕は、胸を躍らせて帰った。その一方で、
「学校に行けない?」と心に引っかかりを感じているような自分もいた。

自粛が始まって2週間が経過した。「友達に会いたい。学校へ行きたい。」そんな思いが、日が経つごとに強くなっていく。

自粛が明けて、初の登校日。1カ月ぶりに友達に会う。
「楽しい。面白い。」
友達と一緒に何かすることが、何もかも楽しいのだ。僕はかけがえない瞬間を味わったのかもしれない。いるだけで楽しいとはこのことだ。ついに見つけてしまった。

自粛期間中、僕はいろいろ考えた。「どうすれば楽しめるのか。」しかし、考えれば考えるほど自分を苦しめる。当たり前だ。答えなんか出るはずがない。むしろ答えなんかない。布団の上で天井を見上げながらただ考えている。本当に何もしていない。楽しい、楽しくないを、何かをする前から決めていた。食わず嫌いみたいなものだ。自分で楽しいと思える可能性を狭めていた。挑戦する心を忘れていたようだ。新しいことに挑戦しなければ、可能性の幅は広がらない。自分から行動を起こさなければ現状は変わらない。何でも良かった。何か行動すれば良かったのだ。それなのに何もしない自分。「何やってんだ、俺。」

自粛が明けて自分の中に自分なりの答えが出た。

僕は一人で抱え込みすぎたようだ。友達に頼る。先生に頼る。家族に頼る。このことを忘れていたようだ。頼ることはダサイ。でもそんなプライドは捨てた。度が過ぎていた。頼りたいときに頼ればいい。そう考えたとき、すっと心が軽くなった。そして、実感した。
「素直な心が一番なんだな。」

今、思い返せば生きていることさえ楽しくないと思っていた中学校1年の頃。その時は面白くないものを面白いと言っていた。笑えないことでも愛想笑いで何とか自分を騙していた。嫌われないように頑張っていた。他人にも自分にも嘘をついていた。 小学生の頃、僕は嘘つきだった。怒られるのが怖いから嘘をついた。自分がしたことをしていないと言った。でも嘘はすぐにばれ、そのたびに失望された。そんなことになるくらいなら全部ありのままに話してやろうと思った。ありのままに話して怒られたとき、なんかすっきりとした気分になった。あの時と似ている。これが成長というものなのか。

これから僕は、「素直な心」「楽しむ心」「自分に嘘をつかない」この3つの価値観を大切に生きてゆこう。そう決めた僕はもう人生の路頭に迷わない。

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佳作

挑戦の先に

秋田県大仙市立大曲中学校

3年 橋 里菜

「挑戦しないと、何も始まらない。今の里菜を変えないと、何も始まらないぞ。」

コーチから言われたこの一言が、今でも私の中で挑戦するときの支えになっている。そして、この言葉がなかったら、今の私はない。

小学校6年生の最後の全国大会で、自分の力を発揮できずに終わり、落ち込んでいた私。そんな時、コーチが言ったのは慰めの言葉ではなく、この厳しい一言だった。中学校でもバドミントンを続けるつもりだった私は、自分を変えられるか、その上でバドミントンを楽しんでやれるかという不安で、目の前に大きな壁が見えた気がした。

壁にぶつかる経験はこれまでも何度もあった。幼い頃から、新しいことに挑戦したくない、失敗したくないという気持ちが強かった私には、「自分を変える」ことができるか悩んだ。どうしたら変われるのか、どうやったら……と考えていくうちにストレスがたまり、バドミントンが嫌いになりそうだった。でも、自分を変えたいという思いは消えなかった。もがく中で、私はさらに大きな壁にぶつかった。それは、中学校2年生に経験した出来事だ。私はキャプテンという責任ある立場を任された。それは、自分が考えていたより、想像を超えた辛さが待っていた。小学校の全国大会で味わった悔しさを跳ね返すために、自分のプレーに集中したい。けれども、周りのことも考えなければならない。「責任」という重い言葉を背負わなくてはいけない。頭では分かっていても、実際には難しいことだった。

私がキャプテンになって数カ月後のこと、チームの雰囲気が悪くなり、仲間割れに近い状況になった。それに気づいてはいたが、でも、どちらの味方にも付けず動けない自分がいた。キャプテンとして何をすればいいのか、どうすればチームの仲がよくなるのか……。大会も近く、焦りもあった。だから、自分がキャプテンでいいのか不安になり、家に帰ってから一人で泣く日々が続いた。自分のプレーに集中したい。でも、みんなの心を一つの目標に向かわせたい。どうしたらみんなが心から笑い合えるチームになるのか、考えれば考えるほど、練習に行きたくなくなった。みんなの顔を見るのが怖かった。しかし、そんな時にまた背中を押してくれたのが、コーチだった。「自信をもって行動しろ。キャプテンの言うことは間違っていない。必ずみんな付いてきてくれる。」この言葉で、悩むだけでなく、自分が正しいと思うことをまず行動に移そうという気持ちが生まれた。キャプテンという立場では、どちらかの味方に付くことはできないが、どちらの話も聞くことはできる。そう思った私は、まず一人一人の意見や悩みを聞き、私の思いも伝えた。チーム内でお互いにすれ違っていた気持ちを私なりにつなぐ努力をし、少しずつだがチームの雰囲気が元に戻ったような気がした。

そして、すべてが最後となった3年生。みんなが一つの目標に向かって日々の練習に必死に取り組んできた。しかし、コロナウイルスによって私たちは全国大会出場という目標に挑戦することなく終わった。でも、私はそれをプラスとして考えた。これまで努力してきたのは変わらない。むしろ、この状況に感謝している。試合ができることのありがたさを改めて実感し、精神面でも成長できたと思う。中学校3年間、いろいろあったけれども、このメンバーだからこそここまでこられた。私たちの「努力」は本当に輝くもので、これからの高校生活にもつながると信じている。だから、後悔は何ひとつない。

バドミントンを始めてから、うれしいこともあれば、悔しいこともたくさんあった。その中で大きな壁にぶつかる経験が何度もあった。そのたびにコーチの言葉に背中を押され、自分を変えるために挑戦を続けてきた。自分への「挑戦」、ライバルへの「挑戦」、自信がなく恐れていたことを乗り越えるための過去への「挑戦」、新しい世界への「挑戦」。この経験があったからこそ、今の自分は昔の自分と比べて、何事にも勇気をもてるし、自分自身を変えることができたと思う。私にとって「挑戦」とは、自分に自信をもつこと。できるか、できないかではなく、やってみること。一歩踏み出さないと何も変わらないということを実感できた。

これから、自分の夢に向かってまた新たなことに挑戦していく。その一歩として、まず受験だ。そして、今までの経験を生かしたいから、もちろん高校でもバドミントンを続けたいと思っている。私はなりたい自分に向かって、日々新しいことへ挑戦していきたい。「挑戦」は私にとっての宝物だ。

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佳作

「走り続ける理由は」

秋田県潟上市立天王南中学校

3年 中泉 大吾

私は、夢を見る。辺りは暗く、自分の周りのみが辛うじて見える状況だ。目を落とすと、暗がりへと続く、か細い一本道が映る。気付いた時には、もう走り始めている。行き先も、走る理由も考えぬままに。果たして、それは夢に限った話だけなのだろうか。

今年、中学3年生になる私は陸上競技部に所属している。小学生の時から続けており、得意種目でもある長距離種目を迷わず志願し、中学という新たなステージで仲間と共に研鑽を重ねてきた。我々の代は幸運にも人数が多く、尚かつ個々の能力も高く、県規模の大会でも名を刻むことのできる有望な選手を多く抱えていた。それを周囲以上に大きく自覚し、互いに励まし合いながら学校として県総体での総合優勝を見据えて練習に打ち込んできた。一人ひとりが、3年の県総体という舞台で己の集大成を発揮するために努力し、仲間の力を信じて疑わない絶対的な信頼をおき、悲願を成し遂げるため真の意味で団結していた。あの時までは、確かにそうだったと言える。悪魔の如き猛威をふるう、新型の感染症の到来を迎えた瞬間、我々の夢も気力もその全てが瓦解していった。

爆発的な蔓延力で世界を戦慄させる天災を前にはどうしようもない。ウイルスは例外なく日本をも災渦に巻き込み、規模を拡大し続けている。感染症の拡大が、人命に関わる非常に危険な事態であることは重々承知している。そして、私が住む地域には罹患者が出ておらず、まだ幸運と言えるかもしれない。しかし、どんな理由があろうと目標を絶たれることへの苦しみは絶望に等しい。この状況でまだそんなことを言っているのか、高望みではないか、不謹慎だと私は世間に糾弾されるかもしれない。だが、理不尽に夢を奪われた悔しさは、無念を感じる気持ちは、偽りようない本心だ。深い悲しみにうちひしがれ、絶望に悶々としていると、あの夢を見る。どこまでも延々と走り続けてしまう夢だ。周りの景色が闇にのまれ、僅かに残った一本道に縋(すが)るように走り続けている。いや、走り続けるしかないのだ。

幸か不幸か、長距離の大会はまだ残っている。もう、3年生は自分ひとりになってしまうのかとぼんやりと考えながら、今までしのぎを削ってきた仲間の顔を見渡した。やはり、こみ上げてくるものがあるが、そんなことはおくびにも出さずに、引退のあいさつに耳を傾けていた。涙ながらに自分の想いを吐露する人、淡々とありのままの気持ちを口にする者、様子も内容もそれぞれ違えど、全員の話の核心はそれぞれ共通のものだった。それは、「悔しさ」と「次世代へのエール」であった。その二つは、恐らく単純で何のひねりもないことだが、直球だからこそ私の心は芯から揺さぶられた。言葉以上のものが伝わった。なぜなら、私は月日を知っているからだ。彼ら彼女らの入部から引退までの2年半という歳月の重みを忘れることはできないからだ。去っていく仲間の言葉ひとつに、今までの日々を感じながら、こみ上げてくるものを押し殺し、せめて最後くらいはと明るい顔で見送った。

胸の最深部まで染み込んだ言葉は、もう一度私を奮い立たせてくれた。まさしく戦友と呼ぶべき、彼ら彼女らが遺していった感情が私を絶望の淵から引っ張り上げてくれたのだ。それと同時に、あの場で誰か一人でも3年生が残らなければいけなかったという宿命じみたものまで感じた。私たちの燻(くすぶ)っている種火を誰かの元へ預け、再び炎として燃え上がらせる必要があったのだろう。自分が残っていたことには意味など無いと思う。「偶然」という言葉が最もふさわしい。しかし、残ってしまったのならば最後の一人として「走る理由」が十分すぎるほどにある。自分が皆ほどの活躍ができるかどうかも、大会そのものが無事に開催されるのかすら全く見通せない。しかし、想いを預けられた者として「走る」ことしか私にはできない。他の手段を知らないから。そして、私自身も先へと進みたいから挑戦を続ける。それは、自分のためでもあり、誰かのためでもある。

近ごろは、あまり件(くだん)の夢を見ない。私が悩みを捨て、迷わなくなったためだろう。再び邂逅(かいこう)することがなかったとしても、不安や恐怖に支配されるたびに、私はあの茫洋とした暗闇を想起することになるだろう。だが、もう怖くない。もう私は、下など向かずに走れる。闇夜を照らす仲間がいる。あるべき自分の姿で走り続けていくために。

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佳作

後悔なく生きるため

秋田県三種町立八竜中学校

3年 中村 胡音

「失格だ――。」

3年生になり、最初で最後の夏季総体。私たち4人は、共通女子4×100mリレーに出場した。しかし、3走と4走のところでバトンを落としてしまったのだ。

私たち4人は、入部したてのときから、リレーメンバーとしてバトン練習に励んできた。ランニングしながら声を掛け合い、バトンを何度も受け渡した。ある程度の助走をつけ、バトンを渡すタイミングや走り出すタイミングを確認する練習も、何度も何度も繰り返し行った。
「出るタイミングをもう少し早くしてみて。」
「おお、うまい、うまい。」
互いにアドバイスし合って、バトン技術の向上に努めてきた。

私たちのバトンパスのしかたは、アンダーパスといって、陸上日本代表リレーチームと同じ難しいやり方である。一人一人の走力ももちろん大事だが、私たちはバトンパスで無駄な時間がかからないよう、パスの練習に力を注いできた。スッと次の走者に渡る私たちのバトンパスは自慢であった。

1年生のときは、やはり3年生にはかなわず、よい成績を収められなかったが、大会があるごとに記録が向上しているのは確かであった。2年生になっても、郡市大会ではいつも2位で、1位のライバル校を越すことができなかった。

そして、今年、新型コロナウイルスの影響で大会が次々となくなり、最初で最後の夏の総体。ずっと勝てなかったライバル校に勝ち、リレーで優勝するのが最大の目標であった。大会の日程が決定した日から、よりいっそう練習に力が入った。私たちは勝ちたいという一心で練習に取り組んだ。

大会当日、私たちの仲間はそれぞれの競技で順調に滑り出し、多くの種目で入賞を果たしていった。私自身も、もう一つの目標だった走り幅跳びで優勝し、波にのっていた。流れは確実に私たちに来ていた。低学年女子のリレーも優勝し、後輩たちもよい流れを作ってくれていた。

本番前、私たちは4人で円陣を組み、 「私たちならできる、優勝するぞ。」
と、気合いを入れた。みんなで手を握りしめ
「バトン、絶対届けるからね。」
と、深い絆で結ばれていることを再確認し、それぞれの招集場所へ移動した。
「お願いします。」
グラウンドに挨拶し、レーンに入る。出走し加速する練習を何度かした。前に視線を送ると、私がバトンを渡すはずの3走の選手がこっちを見ているようで、手を振ってみると、彼女も手を振り返す。
「よし、必ずバトンを届けるから。」
そう決意し、1走、4走の選手にも目を向けた。

オン・ユア・マーク。セット。バン!
一斉に走り始め、あっという間に1走から私にバトンが渡った。私は無我夢中で走り、3走に無事に届けることができた。受けも渡しも過去最高と言っていいほどうまくいった。私は3走の背中に「がんばれ。」と叫び、その姿が遠のいていくのを見つめた。3走はだんだんと他校の選手との差を締めていく。予定通りだ。
「いいぞ。行け!」

3走から4走にバトンが渡り、走り出したように見えた。私は先頭に目をやる。
「あ、違う。」2番目も、3番目も…違う。まさかと思い、バトンゾーンに目を向けると3走が後ろに転がったバトンを拾いあげ、4走に渡していた――。ライバル校がトップでゴールするのを、私は放心状態で見ていたのだ。

競技後、泣きながら「ごめんね。」と謝る仲間を見つめながら、私は悔しい気持ちはあったものの、正直なところ、後悔の気持ちはなかった。不思議なぐらい清々しい気持ちでいたのだ。

たぶん、全力を出し、やりきったからではなかったろうか。目標に向かって、仲間と心を一つにし、1年生の時から毎日毎日練習してきたのだ。競技の直前までパスの仕方を細かく確認した。私たちにできる全てのことをした。だから、私は後悔しなかった。

結果は思い通りではなかったが、懸命に練習したことは決して無駄ではなかった。目標に向けて努力し、継続し、諦めなければ、どんな結果も受け入れられるのだと知った。本番も大事だが、そこに至るまでの過程こそが重要であることを学んだ。

頑張るのはその瞬間、後悔は一生。今ここにあるものに全力を捧げることで、自分らしい後悔のない人生を手に入れたいと強く思うのだ。

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佳作

私の挑戦

宮城県仙台市立五橋中学校

2年 小野寺 紗菜

2011年3月11日、家にいると強い揺れを感じ母が妹を抱え、祖母が私を抱え外に逃げようとした。しばらくすると電気が止まり、数本のローソクで部屋を灯した。子どもながらに電気のありがたさを感じた体験だった。

この気持ちを忘れずにたくさんの人に伝えたいと、3年前から妹と共に電気についての新聞作りを始めた。

情報を集めるために初めに訪れた取材先は水力発電発祥の地、「三居沢発電所」だ。いざ取材になると「仕事の邪魔にならないかな? 教えてくれるかな?」と不安になり手の震えが止まらなかった。でも、伝えたいという気持ちが後押しとなり、思いきって「取材したいのですが、お時間ありますか?」と話しかけてみた。すると、佐藤さんが事務室から出てきてくれて、身ぶり手ぶりで優しく教えてくれた。気づくと震えは止まり、一言も書き漏らさないように必死にノートに書き続けていた。初めての取材は楽しく、取材が大好きになっていた。

その日から週末は多くの場所を訪れ、取材を続けた。街のビルでは太陽光発電を行い、鬼首では温泉の熱で地熱発電を行い、鳴子ダムでは水の流れを利用した水力発電を行っていた。取材の中で、自然エネルギーを利用した発電所は地形を利用した場所に建設されていたことに気がついた。当たり前のことだが、現場に行って初めて分かることがたくさんある。

その一つが宮城県には風力発電所が他県に比べて少ないことだ。宮城県に取材を行うと、風力発電所は一年中風が吹いていること、広い土地があること、モーター音がするために人が住んでいないことが建設条件ということを教えてくれた。県内でこの条件を満たしている場所は海の近くと山の上しかなかった。取材の中で「宮城県では洋上風力発電を進めている」と新たな情報を得ることができた。

私はこの発電所のことを詳しく知りたくて福島県の「洋上風力コンソーシアム」に飛び込み取材を行った。管理者の水原さんに伺うと「洋上風力発電は地上ではなく、海の上に風力発電所を浮かべる未来の発電所」ということを教えてくれた。これならば、騒音と設置場所という課題が二つも解決できる。さらに洋上は太平洋からの風が吹き込み、一年中発電ができるという利点があったのだ。課題として建築コストがかかるが、水原さんの説明は聞いているだけで楽しかった。

いつしか電気の取材資料は膨大になり、あとは新聞としてまとめるだけになった。まさか、ここからが新聞作りの苦労を味わうことになるとは思いもよらなかった。

いざ始めると書きたいことがありすぎて、内容をうまく選ぶことができない。取材した方の言葉を書くだけで紙面がいっぱいになり、妹と意見が合わずに何度も喧嘩をした。机に突っ伏して涙を流し、書くことを諦めようと思ったこともあった。しかし、たくさんの方の協力を無駄にすることはできない。

私は最も未来を感じた「洋上風力発電」を中心に紙面をまとめることにした。全てを書くことを諦めて、ポイントを絞ってどうやって読み手が飽きずに最後まで読んでくれるかを考えてレイアウトを行った。強調したい部分は色鉛筆やカラーペンを使い、半年も続けることで新聞は完成した。

紙面を読んでくれた方から「いろんなところへ取材に行っているんだね。エネルギーの説明は難しいのに、君の新聞は分かりやすい」と言われ、今までの苦労が報われたような気がして嬉しかった。

東日本大震災によって電気の重要性を知り、たくさんの人と出会うことで、私は大きく成長できたと思う。人と話すことが苦手で、いつも消極的だったが、電気の大切さを伝えたい想いが、何事にも挑戦しようと思えるようになった。投げ出さずに最後まで取り組めたのは、取材を笑顔で受けてくれた方々のおかげだ。

先日、取材先の方に完成した新聞を持っていくと「分かりやすい新聞だね。」と自分のことのように喜んでくれた。

今は分からないとすぐにインターネットで検索することができる。しかし、実際に自分の足で現場に行き、取材をすると新たな発見がたくさんあることに気がつく。液晶画面だけでは知りえない情報を得ることができ、何よりも人とのコミュニケーションや絆こそが、私が変わるきっかけになった。

現在、私はマイクロプラスチック問題について取材をしている。コロナの影響の中で外に出ることも難しい状況の中、自分でできることを一つ一つ挑戦していきたい。いつの日か私の新聞が未来を変えると信じて今日も私は取材を続けていく。

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佳作

一人じゃない

宮城県仙台市立東華中学校

3年 菅野 乙珠

「陸上部に入ろう。」
中学校に入学してそう決めたのは陸上競技が個人競技だったからです。

私は小さい頃からチアダンスをやっていました。チアダンスは団体競技。練習を休んだり、振り付けを間違えたりするとチーム全体に迷惑をかけてしまいます。しかし、個人競技は、「自分一人で頑張って、自分一人で結果を残す競技。」と考えていました。

入部してからの1年間は、自分の短距離走のタイムがどんどん縮まっていくのがうれしくて、ただひたすら練習に取り組んでいました。ハードル競技を選んだのも、練習するたびに跳ぶ技術が上達していくのを実感できたからです。その結果、秋の新人大会では入賞することができました。自分の努力の成果が実ったと実感し、「次はさらに記録を伸ばしたい。」という気持ちで練習に励みました。

そして迎えた2年生の中総体。予選では練習の成果を発揮することができ、決勝に進みました。「今までの練習の成果を、全部ぶつけよう。」そう心に決め、スタートに立ちました。

「セット、パンッ。」
スタートの合図で勢いよく走りだしました。1台目、2台目…ハードルを順調に跳んでいると思っていましたが、4台目を跳んだところでリズムを崩しました。そして、
「ガシャン。」
ハードルを倒す音とともに、私は転倒してしまいました。結果は、ハードルを跳び越えられなかったことで失格。決勝には残りましたが記録がないため、賞状をもらうことはできませんでした。

そのとき私は今まで積み重ねてきたものが崩れていくような気がしました。それまでは前だけを見て練習してきたのに、全てが無駄になったような気がして悔しくて、涙が止まりませんでした。その日はまだ他の選手の出場種目があり、応援しなければならないのに、失敗したショックから立ち直ることができませんでした。気が付けば夕方になり、ミーティングが終わって解散していました。

暗い気持ちを抱えたまま帰る準備をしていると、チームメートの一人が突然、
「これから表彰式を始めます。」
と言いました。振り返ると、同学年のチームメートが一列にならんでいました。

「女子100mハードル菅野乙珠。私たちの最優秀選手賞。」
チームメートたちは賞状をもらうことができなかった私に、短時間で手作りの賞状を作り、表彰式をしてくれたのです。私はうれしさが込み上げてくるのと同時に、大切なことに気が付きました。陸上は個人競技とはいっても、決して一人だけで戦っているのではないということを。今までは周りを見ず、ただ日々の練習に取り組んでいたので気付くことができませんでしたが、自分は多くの人に支えられていたのです。厳しく指導してくださる先生。試合の送迎など陰で支えてくれる家族。そして辛い練習も一緒に乗り越えてきたチームメート。そんな多くの人に支えられて、私は陸上競技ができていたのです。そして一人じゃないということに気付いたとき、悔しい気持ちが和らぎ、視界が広がり、力があふれてくるような気がしました。

その後に行われた県の新人大会では、好記録を出し、念願の賞状をもらうことができました。

みなさんも個人競技は一人で戦うものだと思っていませんか。私はこの経験を通して、今では個人競技は存在しないと思っています。どんな競技も一人で戦うことはできません。先生、家族、チームメート。たくさんの支えがあることで、初めて戦うことができるのです。応援してくれる人がいることがどれだけ自分の気持ちを奮い立たせてくれるか、私は身をもって知ることができました。人は誰かに支えてもらっているからこそ、苦しみや困難と向き合う力がわいてきます。そして、それを乗り越えた先にある喜びは何倍も強く感じられるのです。みなさんはどうですか。自分一人で戦っていると思う人はぜひ周りを見てください。きっと気付くはずです。多くの人があなたを支えてくれていることを。

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佳作

鉛筆に込める想い

宮城県栗原市立若柳中学校

2年 菊地 くるみ

「スーッ、シュッ、スッ……」。

目を凝らして、私は真剣に用紙に向かう。額にうっすらと汗がにじみ、意識しないと必要以上に力が指先に入ってしまう。

私が挑戦していること、それは書きぞめ。といっても、鉛筆で書く方の「硬筆」である。

私は、文字をキレイに書くことを普段から心掛けている。だから、毎年、冬に開催される書きぞめ展の学校代表に選ばれることを目指し、本気で頑張ってきた。これだけは誰にも負けられないという気持ちで、これまで取り組んできたのである。

私がここまで一生懸命になりはじめたのは、小学校5年生の時からだ。それ以前からも硬筆を自分なりにずっと頑張ってきた。

けれども、5年生の時、私は突拍子もない経験をしてしまった。たった1枚を仕上げるのに、何時間もかけて書き終えたのだった。それだけゆっくりゆっくり、丁寧に取り組んだ。まさに「渾身の作」と自慢し胸を張れるほど、時間をかけてしまっていたのだ。

とにかく、自分が納得するまで、ひたすら毎日毎日書き続けた。飽きずに粘り強く…。今思えば、よくあそこまでできたな、と思うくらいだ。

結果は、地区の審査会を通過し、県の審査会に進むことができた。そして、上から2番目の「特選」に入賞できた。

努力とか、練習の成果とか、そのような後付けの理由などを探る気持ちはなかった。私は県の展覧会で入賞できたことが、素直にただただ嬉しかった。

私はそれから、もう一つ上の「部会長賞」という賞があることを知り、次は「部会長賞を取りたい」という新たな目標ができた。

字を書くことが好き――私は自信を持ち、自分が輝けるものを見つけられたことが嬉しかった。

6年生のときの結果は「特選」。それでも、去年より作品全体の書き方がうまくなったと、作品の出来栄えに私自身満足できた。

先生は、文字の太さのことなど、細かい部分にアドバイスをくださった。そして、卒業しても「くるちゃんの硬筆、応援してるから! 次こそは『部会長賞』取れるよ!」と褒め、励ましてくださった。

私は、友達に比べ何をするにも断然時間がかかる。スローペースが仲間から歯痒く思われていないだろうか。時におどおどして、事を手際よく進められない。「不器用だな」。そんな私が、1年後の再挑戦を遠くに見据え、顔を上げ前に進もうとしている。私自身少し信じられなかった。

中学生になり、私は多くの友達に倣い運動部に入った。文化部も考えた。けれども、入学直後の新鮮な空気を吸う中で、私も新たなことに挑戦できるような気がしたからだ。

しかし、運動部は休日練習や夜練習もあり、体力的にも時間的にも本当に楽ではなかった。私は、自分は時間がかかる人だという自覚があったので、いろいろなことをなるべく早くから始めるように心掛けていた。

そして、書きぞめの季節がやって来た。

中学生の課題手本を見て、私は驚きとともに「やっぱり。予感的中。」という複雑な気持ちを味わった。手本の文字が、行書に変わっていたのだ。

小学生の時は、接するところ、はねるところなどがきちんとした楷書だった。ゆっくりと丁寧に鉛筆を運び背筋を伸ばす感じに整えて書く。文字にどこかきりりとした表情があると思った。それに対し、行書の文字は点画の線が柔らかく、次につながる筆脈が表れている。腕に自信のある書き方と違うことに、まず不安な気持ちに覆われた。

ところが難しいとばかり映っていた手本の文字は、その特徴ゆえ、逆に以前より滑らかにかつ半分の時間で書けるものだった。これまでと異なる律動、たおやかさを芯先に感じながら、私はありったけの力を紙面に傾けた。大変だったが、充実した気持ちは爽快だった。

それから、県審査が行われた。自分の分身を送り出した後は、どきどきして待つしかなかった。結果を知らせられ、私の名前の横には「部会長賞」とあるのが見えた。しばらくは呆然とし、私の心は喜びに溢れた。念願の賞への入賞を果たせて、感極まるとはこういうことなんだとふと思う自分がいた。

帰宅後、一番に母に話したら、涙をこぼしとても大喜びしてくれた。自分の努力もそうだが、今まで励ましてくれた家族や先生への感謝の念にじわじわと胸が締めつけられた。

目標というのは、人を成長させ、変えてくれるものだと改めて分かった。私にとってまた巡ってくるチャンスである。この壁を乗り越えて一段と上に成長していきたい。

鉛筆に、私なりに精一杯の想いを込めて。

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佳作

なりたい自分

宮城県加美町立宮崎中学校

3年 鈴木 唯花

「唯花もミュージカルやらない?」
姉からのこの誘いは、なりたい自分になるきっかけを私に与えてくれました。

私は幼いときから、人前に出て何かをするということが苦手でした。自分に自信がもてず、消極的な子だったと思います。しかし、ダンスや演技をすることは大好きで、「いつかみんなの前でやってみたい」という思いが昔からありました。それと同時に、「何でも積極的に取り組めるようになりたい」という思いを強くもっていました。

そんなとき、姉から町で行っているミュージカルの参加を誘われ、思い切って申し込むことにしました。初めて参加したときは、セリフもなく、ただ他のお姉さんたちの後ろをついていくばかりでした。練習中も周りの人たちとどう関わればよいか分からず、そんな自分がもどかしかったです。消極的な自分を変えたいと思っていたのに、なかなか変わることができない自分が嫌でした。

しかし、中学2年生で4回目の参加をしたとき、転機が訪れました。このときも最初の頃は、今までのように自分を出せずにいました。それに加え、自分よりも年下の子が増え、年上としてみんなを引っ張っていくことができるか不安が募りました。そうした私の不安をよそに、小さい子たちは私のそばに来て楽しげに話しかけてきました。その楽しげな様子は、私の不安をいつの間にか消し、「まずは私も楽しめばいいんだ」という気持ちにさせてくれました。すると、自分を表現することが楽しくなり、歌を歌ったり演技をしたりすることに少しずつ自信がもてるようになってきました。

そんなとき、出来上がった台本が参加者に渡されました。それを見て、私は思わず声を上げてしまいました。何と主役のところに、私の名前が書いてあったのです。すぐに「念願の主役だ」といううれしい気持ちと「私で大丈夫かな」という不安な気持ちが心の中に湧き上がりました。喜びと同時に不安な気持ちが大きかったように思います。そうした中、着々とセリフを覚えてアレンジを加えていく仲間たち……。年下の子たちとの関わりで少し自信が出てきたはずなのに、主役であるプレッシャーと「私にできるわけない」といういつもの後ろ向きな考えで、思うように練習ができない日が続きました。演技では一緒に歌っていた二人と自分の歌声を比べて、「自分はあの二人より歌が下手だ。一緒に歌ったら、二人と比べられてしまう」と思ってしまい、いつも以上にうまく歌えない自分がいました。また、主役として、歌や演技のときも周囲を見てみんなを引っ張っていかなければいけないのに、自信のなさから積極的に声をかけられませんでした。

そうしたとき、先生が次のような言葉をかけてくれました。
「唯花ならできる。しっかり周りを見て何でもいいからやってみなさい。唯花が変わらないと、他の人たちも動かない。主役なんだから積極的に動きなさい。」
厳しさの中に優しさのあるこの先生の言葉は、私に勇気を与え、不安で押しつぶされそうだった気持ちを前向きな気持ちに変えてくれました。すると、演技はもちろん、周りの人たちとの関わり方も大きく変わってきた気がします。人と比べるのではなく、自分の思いを観客の方に伝えるために、歌声や体全身で思いを込めて歌ったり演技をしたりすることができるようになりました。また、最初から無理だと決めつけず、主役としてこんなステージにしたいのだという思いを込めて、仲間たちにアドバイスをしたり励ましたりすることができるようになりました。

そして迎えた本番、先生から
「ここまできたのだから、最後は楽しくやりなさい。お客さんに気持ちを届けなさい。」
と言われました。私は迷うことなく、自分の思いを込めてステージで歌いました。自信をもって、今の自分にできる全てを出して……。

私は、このミュージカルの参加を通して、自信をもって積極的に取り組む重要性を強く感じました。姉から誘われたとき断っていたら、今の私はいなかったと思います。また、参加してから何度も逃げ出したくなったけれど、そのたびに先生や周りの人たちから、今の自分に自信をもって行えばよいと背中を押してもらうことができました。この経験で、私は大きく成長することができたと思います。あんなに自分に自信がなく、消極的だった私が、今年度、中学校生活最後の運動会で、応援団になって活躍できたのも、このミュージカルの経験があったからです。私はこれからも自分に自信をもって積極的に行動していきます。そして、さまざまなことに挑戦していきたいです。なりたい自分でいられるように……。

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佳作

萬(よろず)の画(え)を志して

宮城県仙台市立将監中学校

3年 橋 秀明

線。単調な線。曲線、直線、調子のついた線を、私は紙の上に描いていく。何分か後にはセリフの付いた漫画が紙の上に仕上がっている。私はあと、何回これを繰り返せば、人から本当に「面白い。」と言ってもらえるのか。

物心ついた頃からアニメといったサブカルチャーが好きだった。そして、作品に対する「かっこいい」という思いは、5年ほど前から「自分もこんな作品を描きたい。」という思いに変わっていった。

そう思ってからの私の行動は早かった。同じように漫画が好きな友人と一緒に、簡単な自作漫画を描き始めた。その時はキャラクターを考えるアイデアも発想もなかったので、有名なキャラクターを、自分の考えたシナリオの上で動かすだけだった。そしてだんだんと、友人から友人へ自分の作った漫画が伝わっていった。

「面白かったよ。」

「次はどうなるの。」という声が次々と挙がってきて、私たちは恍惚(こうこつ)を覚えた。感無量だった。それまでは絵を描くことがただ楽しくて描いていたが、人から評価を受けるのが楽しくて描いてもいいんだな、と幼い頃の私はその時、初めて気付いた。

人から面白いと言われると、もっと面白い作品を描いてみたくなる。作画レベルが自然に上達していき、話の尺が段々と延びていった。そんなことを4年程続けて、中学生になったある日、ふとある同級生の描いていた絵に目が釘付けになった。その絵は現実的だった。現実的でありながら、二次元ならではの魅力もあるその絵に、私は虜になった。こんな凄い絵を描く人がいるんだ、よし自分も描いてみよう、と思ったが、同時に私は焦燥の念を抱いた。「このまま周りの人たちは皆うまくなってゆく。でも、自分はいつまでも同じ状態のままじゃないか。」この思いに気付いた時、私の余裕は音を立てて崩れた。次第に、絵がうまい人は他にも現れ始め、私が認められることはだんだん減っていった。人から「つまらない」と一蹴されて見離されるのが何よりも恐ろしかった。人からの評価を気にしていた。

その頃から、私の絵を描くスタイルは、5年前と比べると打って変わったように変化した。ただやみくもに描くのではなく、描くキャラクターの輪郭の形から自然な髪の描き方、目と目の間、鼻と口の間の比率を試行錯誤したり、その場の様子を事細かに描写するために、背景などを気にしたりするようになった。また、より自然でリアルなタッチや質感を取り入れるため、デッサンやクロッキーにも精通するようになった。でも、絵のうまい人に追い付けたか、と問われたら、当時の私は首を縦には振らなかっただろう。私が思っているように、私の手は、脳は、簡単に成長してくれなかったのだ。

悩み、思い詰めていた中学2年のある時、自分の絵が確実にうまくなっていることに気付いた。もちろん、私が上手だと思った人たちの領域を超したわけではない。ただ、私の心に余裕が持てて焦りがなくなって、自分の画力のレベルを上げられただけだった。だが、それでも私は心に余裕を持てたことが、とてもうれしくてたまらなかった。私の頭の中で思考のスイッチが切り替わった。「人は人。自分は自分のレベルで進んでいけばよい。自分は成長のスピードが人より少し遅いだけなのであって、一歩、より一歩前進していけているじゃないか。」という考え方にシフトチェンジできるようになった。他人からの評価におどおどと震えていた自分を捨てて、我が道を征(ゆ)くようになってからは、目の前にあった靄(もや)が晴れたようで清々しい気持ちになれた。

今でももちろん、私より絵がうまい人はたくさんいる。自分よりアイデアがあり精力的な活動を行っている人もいる。でも、私はその人たちと切磋琢磨しながら、自分の道を切り拓いていこうと思う。現在の仲間や、これから出会っていく絵が好きな人や絵がうまい人と協力して、自分の夢を探求していくのだ。今日、日本のサブカルチャーは国内を飛び出して世界中の人々から愛されている。私は、そんな人たちが、揃いに揃って感動してくれるような「面白い」作品を創っていきたい。そのために、私は我が道を極めながらハイクオリティな作品を創れるように挑戦していきたい。

線。線が織り重なり、鮮やかになり、物語が生まれる。そうして、紙の上に一つの作品ができ上がる。次はどんな話にしようか、そう思いながら、私は今日もペンを走らせる。

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佳作

使命

宮城県古川黎明中学校

3年 三浦 志音

今年の春、私はある1冊のノートを手に入れた。表紙の角が折れている、赤くて白い水玉模様が入ったリングノートだ。開くまでは何が書かれているのか分からなかったが、全て読み終わった時、私の目から涙が零(こぼ)れた。

今年の長い長い春休みに、私は自分の部屋の片付けをした。勉強机から本棚まで、汗を流しながら取り組んだ。最後にクローゼットを片付けようと戸を引いた時、自然とクローゼットの1番下に置かれていた大きくて透明な衣装ケースに目がいった。気になって中身を見てみると、そこには私が保育園と幼稚園で作った作品やアルバム、連絡帳などが入っていた。そしてその中に赤いリングノートもあったのだ。見てみるとそれは私の母が、私を妊娠してから出産した数日後までのことを記していた日記だった。検診の日のたびに、私のエコー写真と共にコメントが書かれていた。予定日が近づくにつれて増える文章量。それを読んだ時、私の母が私の誕生を待ち望んでいてくれたことを知っただけでなく、私が今こうして生きていられるありがたみ、命の重さを感じた。私を産むのに、どれ程苦しんだのだろうか。どれ程の痛みに耐えたのだろうか。そのノートにはマイナスな言葉は書かれておらず、前向きな言葉で埋めつくされていた。しかし、その言葉の裏には痛みや苦しみ、辛さが隠れていたはずだ。命が誕生するということは、それだけ大変で決して当たり前のことではない。

現代社会では、その大切な命を傷つけ合う非常に残酷な問題が後を絶たない。いじめ。学校のみならず、職場やネットでも起こっているいじめ。それによって自らの命を絶つ選択をする人がいるのも現状である。現在の若者の最も多い死因はいじめによる自殺だ。これをこのまま継続させてしまっていいのだろうか。親から授かった命を、そんなことで捨ててしまってよいのだろうか。

いじめをなくせば、自殺をする人も減る。ある人が自殺をすることで悲しむ人が必ずいる。特に両親だ。大切に育ててきた息子、娘の死因がいじめによる自殺と知ったら、どう思うのだろうか。きっと悔やんでも悔やみきれない思いでいっぱいになるだろう。私はいじめを見て見ぬふりしたくない。いじめによって苦しみ、辛い思いを抱えている人を助けたい。

母は時々、こんなことを言う。
「どんな職業に就いても良いけど、自分が楽しめる仕事をしなさい。志音が選んだことなら応援するから。」

私は中学校3年生になってから将来を強く意識するようになった。そんな時、母から言われたその言葉で心が軽くなった。私の心の中で閉ざされていた扉が開いたのだ。今まで自分がどんな職業に就きたいのか、何に向いているのか全く分からなかった私。しかし、母の言葉で気づいたのだ。私には困っている人、辛い思いを抱えている人を助けたいという思いがあるということ。そして誰かから相談されることが好きなのだということ。それから以前から教育現場での仕事に興味を持っていたということに。その時、私の気持ちの歯車がピッタリ合った。

私の将来の夢は養護教諭になることだ。体調や怪我の応急処置をするだけでなく、心に深い傷を負っている生徒がいるならば、寄り添って力になりたい。もちろん、そう簡単になれるなどとは思っていない。両親が本当に受け入れてくれるかも分からない。しかし、今の私にはその道が輝いて見えているのだ。その道を真っすぐ突き進んでいきたい。

リングノートを読んで分かったのだが、私の名前の「音」という字には、人の声や音楽などのさまざまな音がある良い環境で、楽しい毎日を送ってほしいという両親の願いが込められていた。これは私が養護教諭を目指す上で忘れてはならないことだ。さまざまな事情があって一人で闇の中にいる人に、誰かと話す楽しさ、素晴らしさ、幸せさを伝えていきたい。

あのリングノートには、「一人の人間として、明るく元気に生きてほしい。」「いつもいつも笑っている子であってほしい。」という父と母の想いが記されていた。その他にも私宛てのメッセージがたくさん書かれていて、一つ一つに両親からの愛を感じ、涙が零れた。温かくて、大きな涙だった。

リングノートは、私の使命を教えてくれた。それは、自分らしく生きて周りの人を幸せにするということだ。私は志を高く持って夢や目標に向かって真っすぐ突き進んでいける人になる。そして、音を誰かと分かち合いながら充実した日々を送っていこうと思う。私は一人でも多くの人を支えられる養護教諭になる。そして、両親が誇りに思える娘になってみせる。

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佳作

僕の夏の挑戦

宮城県気仙沼市立松岩中学校

3年 宮井 伯武

僕はこの夏とある挑戦をしました。それはマイクロプラスチック回収装置の開発・製作です。きっかけは地元の新聞の一つの記事でした。

記事は大島小田の浜でマイクロプラスチックを校外学習で見つけたことを伝える内容でした。記事を見つけた僕は夢中になって読みました。僕にとっては衝撃的でした。大島小田の浜は国立公園に指定されており、さらに環境省選定の「快水浴場百選」で特選(全国2位)に選ばれておりとても綺麗な場所で幼い頃から行っていた場所でした。また、僕は小学5年生からライフセービングを始めたことにより夏は小田の浜で監視業務をするようになりました。このように縁の深い場所だけに、僕の衝撃は大きかったです。そのとき僕は思いました。「震災後、地元の方たちが汗水流して元の姿に戻したのに自分たちの身勝手な行動で大島の海を汚したくない。そしてより綺麗にしたい」と思いました。

そこで僕はマイクロプラスチック回収装置開発・製作を思いつきました。まず、現在ある装置を探しました。調べてみてわかったことは、どの装置もマイクロプラスチック回収に主眼を置いているのではなく、マイクロプラスチックになる前に回収するというスタンスでした。そのほかにも装置が大きく、小型なものは1つしか見つかりませんでした。しかし、その装置は1台約43万円と高額で、また日本での採用例が4件しかなく信用性に欠けるものでした。そこで僕はこの結果を踏まえて三つの目標を立てました。一つ目は、湾内や漁港で使用できること。二つ目は環境に優しい自然エネルギーを活用すること。三つ目は誰にでも身近なもので製作できること。僕は三つのことを踏まえた上で材料は百円ショップで手に入るもので製作し潮流や風を利用した仕組みにすることにしました。大まかな構造は二つの船体を組み合わせた双胴型を採用し、その間にネットを張りその下の海中にプランクトンネットを設置することで海中を漂っているマイクロプラスチックを回収することができます。船首側だけに重りを付けたロープで固定することで高確率で船首が風上に向きます。海上の多くの場合、風と同じ方向に表層の海水は動きます。このような構造であれば電気も必要なく、自然のクリーンエネルギーだけを活用します。

僕はこの仮説が当たっているか第三者に意見を求めました。学校の理科担当の教頭先生に相談をしたところアドバイスをいただきました。アドバイスをもとに設計図を作図し、再び教頭先生にアドバイスをいただくという作業が続きました。縮小模型を製作し実験し実物の製作について考えていると教頭先生からあるお話をいただきました。それは東京大学の「海の探求学習・オンライン支援プロジェクト」についてでした。「興味があったら申し込んでみないか」と言われました。僕は専門家の方に僕の仮説の意見を聞けるので喜んで申し込みました。そこで僕がご指導していただく方は東京大学大気海洋研究所の教授の方です。教授に僕の仮説をみてもらったところ「理論上はできる」と判断いただきました。「しかし、考えるべき点がある」と言われました。教授が指摘されたのはプランクトンネットの目詰まりや船体の強度の不安などでした。一応、僕の中で気付いていたのですがこれといった改善案はありませんでした。この点はこの挑戦でも、最大級の難点でもありました。これの改善案として定期的なネットの交換と内部の骨組みの強化をすることで改善しようとしました。

このようにして、今もなお改良を続けています。この挑戦に終わりはないと僕は思います。なぜなら、開発というものは成功してもまた、新しい課題が待っているからです。僕はこの挑戦は地元大島だけではなく日本全国の海を綺麗にすることができると思います。いや、日本だけではなく世界の海だって綺麗にすることができるかもしれません。僕は、「海」が綺麗になるまでこの挑戦を続けようと思います。

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佳作

私と絵

宮城県多賀城市立第二中学校

2年 森 あおば

「ごはんよ、絵は食べてからにして。」幼少の頃、そう言われても動かず絵を描き続けて親を困らせていたらしい。そんな日常だったからか、物心ついた頃には「絵描きさんになる」というのは自然なことで、それ以外の選択肢はなかった。その夢は小学校に上がってからも変わらず、家の近くに美術科のある高校があるという話を聞いたときには、当然のごとくそこに行くんだなと思った。私の中の絵の在り方はどんな年齢になっても変わることはなく、絵とは最高に楽しい遊びであり、夢を目指すのに崇高な理由も目的も必要なかったのだ。

そんな時、小学校の卒業文集で「将来の夢」について書くことになり、私は漠然とアーティストとして大成すれば規模の大きいパフォーマンスができると思っていたので、なんの疑問もなく「世界に通用するアーティスト」と書いた。しかし友人と作文を読み合った時、少し違和感を覚えた。みんな「人の役に立ちたい」だとか「社会に貢献したい」といった内容だったからだ。私にとって夢とは自分のための成功であり、そこに他人の存在はなかったのだ。もしかして夢の正しい在り方とは自己満足ではなく、大義名分や人の幸せを願うことが必要だったのだろうか? と、自分の幼稚さに気づかされたが、こんなやつがいたって良いじゃないかと開きなおり、改めることをやめた。けれど、そんな考えは先生のひと言で変化することとなる。

作文を書き終わり提出すると、先生は急に笑い出した。心あたりが全くなかった私は「なぜ笑っているんだろう」と不思議に思っていたが「これはあれか、オリンピックの開会式とかか。」と言われ面食らった。そこまで具体的な目標を立てていなかったからだ。「はあ…まあ…。」と気のない返事でごまかすと、先生は笑顔のまま「いや、おもしろい。あおばさんならいけるかもしれないね。君の名前をどこかで見られることを楽しみにしているよ。」と言ってくれた。じんわりと、今まで感じたことのない気持ちがめばえたのを感じた。その後、卒業がせまり卒業文集が配られた。それを母親に見せると先生と同じように「めちゃくちゃおもしろい。でかいこと書いたね。」と笑っていた。その時、自分はそんなに大きい夢を書いていたのかと自覚しはずかしくなったが、先生はその夢を「かなえられるかもしれないね。」と言ってくれたことにとてもうれしくなった。アーティストとして大成した私の名前をいつかどこかで先生が見かけて「あいつ本当にやりやがったな」と思ってくれたら、とても楽しいしおもしろいだろうなと思った。自分が夢をかなえた時に自分以外の誰かが喜ぶ姿をはじめて思いうかべた。 人のために夢をかなえようとする心の動きを理解できなかったし、理解しようともしなかった私は、先生の言葉で自分の心が動いたことにひどくおどろいた。みんなも私と同じように誰かの言葉や姿に心が動かされ、誰かのために夢をえがいていたのかなと、その時はじめて気づくことができた。

私はこれまで夢には正しいとされる定義があり、自分の夢はその定義からはずれていると思っていた。けれど、夢の在り方に定義などなく、正解も不正解もないのだろう。そう思えるようになった。人生というものを究極にシンプルにとらえるならば、私は私として生まれ死んでいくのだから、自分の満足感を求めて生きていくのだと思っていたけれど、そこに他者の心をゆさぶる喜びが加わることで、何十倍、何百倍も夢へ向かう道のりが楽しくなるのだなと思った。他者がいてこそのパフォーマンスであり、エンターテインメントだったのだと一番大切なことに気づくことができ、改めて先生の顔がうかんだ。

このできごとがあってから夢が明確になりそれをかなえるための具体的かつ現実的なプロセスを考えられるようになった。今では日本の芸術の最高峰の大学を目指し、日々努力している。

こんなことを言ったら、先生はまた笑うだろうか。

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佳作

地域の一員として

山形県中山町立中山中学校

3年 大津 菜々

もし、大規模な災害が起きて避難所に行った時、どんな言葉をかけてもらえば安心するか。元気に「こんにちは。」なのか、「大変でしたね。」と気遣う言葉なのか。

7月末の豪雨は、最上川の氾濫など山形県内にも多くの被害をもたらした。私の住む中山町も道路のあちこちが冠水し、床上、床下浸水で不安な思いをした人も少なくない。あの日、避難所となった中山中学校にも多くの避難者がやってきた。小さな子どもから車椅子に乗った高齢者まで、のべ500人以上の方が避難した。

中山中学校では、総合的な学習の時間に「地域とつながり、自分を見つめる〜安全で住みよい町づくり」をテーマに防災学習を行っている。その中の一つに生徒の手による避難所運営訓練がある。生徒が部活動ごとに分かれて、避難所を設営・運営するという学習だ。中山町には総合病院や消防署がない。高齢者の割合が多く、さらに町外で働く若い世代が多いため、日中、災害が起きた時の対応は難しい。そこで、いざという時には私たち中学生が町を守っていく必要があるのだ。

私たちが1年生の時スタートした学習で、先輩方は避難所運営に必要な仕事を洗い出し、施設管理、名簿作成、救護、要支援者対応など9つに分類した。初年度の訓練を終えて先輩から私たちにたくされた課題は、情報の整理・対応と、コミュニケーション力だ。

それらを受け、昨年度は私たち2年生が中心となり、第2回目の避難所運営訓練を実施することとなった。私は本部の一員として、事前に区長さんや町の防災担当の方、赤十字の方、先生方を交えた会議にも参加させていただき、町の方々の、中学生に対する期待を肌で感じることができた。訓練当日に向けて、さまざまな場面を想定し、班で何度も話し合った。班で話し合ったことを持ち寄り、内容を共有し、抜けていることはないか、他の班が協力できることはないかを確かめあった。シミュレーションと修正を繰り返す中で昨年度の先輩方と同じようなことはできるようになった。しかし、何度やってもうまくいかないことがあった。それはコミュニケーションだ。避難者役の1年生がやってきても適当な声がけができない。声が小さくて聞こえない。これでは避難者の不安や恐怖は増すばかりだ。理由を聞いてみると「どう声をかけていいかわからない。」という意見がほとんどだった。「声をかけるくらい簡単だ。」と思うかもしれない。しかし、避難所を運営する自分たちも不安な状況である。その状況の中、不安そうにしている人たちに声をかけるのは勇気や心の余裕がいる。私はチャンスだと思った。

そこで、避難者にどんな声がけをしたらいいか話し合った。挨拶運動のように「おはようございます。」、「こんにちは。」を繰り返すことはできる。しかし、それでいいのか。相手に応じた声がけが必要なはずだ。私は率先して声がけができるAさんにどうやったらそんなふうにできるのか聞いてみた。すると、つまずきそうになっているお年寄りに思わず「大丈夫ですか。」と声をかけた時「ありがとう。大丈夫。」という言葉を返してもらって、こちらの方が温かい気持ちになったのだそうだ。「その言葉を心に刻んで頑張っている」と。考えてみれば、避難者も運営側も不安なのは同じである。ここにいるみんなが被災者なのだから自分がかけてほしい言葉をかけること、同じ避難所にいるものとして励まし合う姿勢が大事なのだと感じた。

そして、地域の方、保護者150名に避難者として参加していただき、迎えた本番。練習よりもたくさんの声がけが聞こえてきた。知らない場所にきて戸惑っている子どもには笑顔で「こんにちは。」、怪我をしている人には「大丈夫ですか。救護を呼びますか」。不安そうなお年寄りには「心配いりませんよ」。ぎこちなさはあったが、相手の気持ちになって言葉をかけることが少しずつできるようになった。私自身、避難者の中に知り合いがいると安心して声をかけられると感じた。きっと相手も同じことだろう。いざという時、命を守るために一番大切なことは日頃からのコミュニケーション。登校途中に交わす地域の方との挨拶も安全・安心な町づくりの第一歩だったのだ。

7月の大雨の夜、避難所には物資を配ったり、お年寄りに声をかけたりする卒業生の姿があったという。昨年の訓練でいきいきと活動する先輩たちの姿が目に浮かんだ。きっと私にもできることがある。先輩たちのように地域の一員としてこの町とともに生きていきたい。

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佳作

私がコロナ禍で得たもの

山形県山形市立第十中学校

2年 柏倉 心

2020年は私の剣道にとって、特別な1年になるはずでした。小学校の頃から、切磋琢磨してきた先輩方と同じチームで県大会、東北大会、全国大会を目指せる最後の年だったからです。たくさんの素晴らしい仲間にも恵まれ、日に日にチームの力が上がっていることを実感できていました。しかし、コロナウイルス感染症拡大によって私の剣道を取り巻く状況は大きく変わってしまいました。全国一斉休校によって、剣道はもちろん、辛い時に背中を押してくれた先輩や仲間と学校で会うことすらできなくなってしまいました。目指していた中体連や道場の全国大会も中止になってしまいました。

ショックでした。3月だけ我慢すれば、元通りの生活に戻れると思っていたのに。東京や北海道ではたくさんの感染者が出たと連日報道されています。しかし、私たちの住む地域では感染者はほとんどいないのです。どうして練習できないのか、どうして大会が中止になるのか、頭ではわかっていても腹立たしかったです。

休校期間中、家の中で素振りや足さばきをしてみるものの、目標と希望をなくしてしまった私は身が入りません。「こんなことをしていても先輩方と目指す大会はなくなってしまった。大会がなくなってしまった今、素振りや足さばきなんてしていても意味がないのではないか」そんな気持ちが私の心を占めていました。

自粛期間が明け、ようやく学校が再開しました。フェイスガードや面マスクといった厳しい条件が加わったものの、剣道もできるようになりました。久しぶりの剣道場に向かいながら、私は不安になりました。先輩とどう接すればいいのかわからなかったのです。大会がなくなり、目標を失ったショックは、私たち2年生の何倍も大きいはずです。何のために練習するのかわからない。いやそれ以上に、剣道なんて見たくもない。次の機会がある私たちに会いたくない。そんなふうに思っているのではないかと心配だったのです。

ところが、稽古が始まると先輩方は人一倍大きな声を出し、稽古を盛り上げています。約3カ月ぶりの久しぶりの剣道が楽しくて仕方がないといった様子でキラキラとした目で稽古に打ちこんでいます。私は目標や希望がなくなったと言って、後ろ向きになっていた自分が恥ずかしくなりました。

大会中止のまま引退を迎えることになった3年生。しかし、先輩方は残された少ない時間を無駄にしないように、これまで以上の気迫で、稽古に打ち込んでいます。こんなに素晴らしい人たちと一緒に剣道をしていたんだ。はっとしました。そして、剣道に対する考えが少しずつ変わっていきました。

記録的な猛暑の中、防具をつけての練習はとても大変です。さらに今年は、フェイスガードとマスクをつけているので、視野は曇り呼吸も苦しいです。でも、私の心は、先輩や仲間たちと剣道ができる喜びでいっぱいになりました。目標となる大会で勝つために剣道をやるのではなく、仲間と剣道をすることそのものが楽しいから剣道をしているのだということに気づくことができました。

剣道を始めて7年が過ぎました。最初は剣道が楽しくて始めたはずなのに、勝たなければという気持ちが強くなり、剣道本来の喜びを忘れていました。

そのような中、スポーツ教室として、大会が開催されることとなりました。中体連の先生方が私たちのために計画してくださったのです。諦めていた先輩方との同じチームでの最後の大会。本当に「ありがたい」という気持ちがこみ上げてきました。

剣道ができることそのものが当たり前ではなく、さまざまな方たちによって支えてもらって剣道ができる環境があるのだということが分かりました。剣道を教えてくれる先生、一緒に剣道をする仲間、剣道をさせてくれる両親、道場を使わせてくれる学校。多くの支えがあって、私たちは剣道ができるのです。

コロナ禍は私たちにとって、大きな試練となりました。しかし、コロナ禍によって私はなぜ剣道を続けるのか、剣道を続けられる環境は誰が作ってくれているのか、気づく機会を得ることができました。私がコロナ禍で得たもの、それは周囲の方々への「感謝」、そしてさまざまな学びと気づきを与えてくれる剣道そのものへの「感謝」です。私はこれからも「感謝の心」をもって剣道を続けていきます。

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佳作

強い心を持って

山形県山形市立第三中学校

3年 佐藤 多恵

今年、日本は戦後75年を迎えました。そんな平和な日本に生きる私たちには、使命があると思います。それは、戦争を知ることです。そして後世へ伝えることです。悲しくて辛い事実から目を背けずに、向き合うこと。その先に揺るがぬ平和があると思います。

今年私は中学3年生になり、太平洋戦争について学びました。正直、学校で習う歴史は広く浅く、重要語句などの知識が主です。そのため、戦争は「遠い昔」の出来事としてしか捉えることができませんでした。ただ、最後に見た広島についてのビデオが強く心に刺さっています。私よりも幼い少女たちが、お国のために働き、最後には原爆の投下によって亡くなるという内容でした。学生の身分でも働かなければならなかった、という事実だけでもショックだったのに、最後は原爆のせいで死んでしまう。楽しみもぜいたくも制限され、大変な毎日だったと思うとかわいそうです。そして、自分がその立場だったら、と考えたら恐ろしくなりました。この瞬間、戦争がぐっと近くなりました。ただの歴史の1ページだった戦争は、たった75年前に起こったことだと、そのとき理解しました。

そして同時に、一つの思い出が浮かびました。小学校の頃に行った広島への家族旅行です。弟が8月6日生まれだったこともあり、8月の暑い暑い真夏日に平和記念公園を訪れました。原爆ドームを見ました。ひしゃげた三輪車を見ました。ぺちゃんこになった弁当箱を見ました。私は悲しくなって目を背けた覚えがあります。もしくは怖くなったのかもしれません。どちらにしても幼い私は戦争に向き合うことはできませんでした。

最後に私たち家族は記念写真を撮ることになりました。原爆ドームの前でした。そこで私と弟はピースサインをしました。すると母に「不謹慎でしょ。」と言われ、結局ピースサインはせずに、写真を撮りました。今思うと、そのとおりだったと思います。75年前にあの場所で苦しみながら死んでいった人たちを思うと、当然のことです。でも、あのとき自然にしたピースサインには、もう一つの意味があったと、今の私は思います。ピースサインは私たち家族の平和の象徴だということです。戦争で犠牲になった人々の上に、戦後の平和は成り立っています。あの頃の私が家族に囲まれ、幸せに笑ってピースサインができたのも、戦争と向き合い、戦争から学び、戦争から立ち上がってきた人々がいたからです。そして今、何のしがらみもなく学校生活が送れていることも、すべてこの平和のおかげです。私たちはその事実を忘れてはいけないと思います。

また、今を生きる私たちも戦争の火種をかかえています。それは、世界各国で今も続いている紛争です。私にとって身近な出来事ではありませんが、今、この瞬間も苦しんでいる人がいるということを知るべきだと思います。私は最近になって、このことに目を向け始めました。それまでは、ニュースで見たり聞いたりしても、流してしまっていましたが、社会の教科書はもちろん、国語や道徳の教科書でも紛争の問題について紹介されており、学べる機会が増えてきたからです。

75年前まで続いていた争いの歴史と、今の世界の争いの状況をふまえ、私に何ができるのか。こんなちっぽけな中学生に何ができるのか。答えはまだ見つかりません。でも、きっと、紛争が起きている地域でも、平和を願い続けている人がたくさんいるはずです。だから私は、その声を拾い上げて、拡大して世界中に広めれば、平和に一歩近づけると思います。そして、ここで活躍するのが、若者の武器であるSNSです。弱くて小さな声も、SNSを通じ強く大きな声に変えることができます。このグローバル社会でSNSを駆使し、平和への道を作れるのではないでしょうか。

このように、戦争を学び知ることは、私の平和への思いを強くしてくれました。さらに、この強い思いは今を変えようとする原動力になります。戦後75年を迎えた今、世界中の人々が戦争と向き合い、強い心で平和を願うことが必要です。今の私は、戦争から目を背けてしまった私とは違います。強い心を原動力に、平和な世界を目指していきたいです。

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知ったか振りさようなら

山形県金山町立金山中学校

3年 原田 奈歩

本を開けば、知らない言葉が出てくる。ニュースを見れば、新しい情報が目に飛び込んでくる。人と話せば、知らない物の名前を聞く。世の中は知らないことでいっぱいだ。

私は知識を得ることが好きだ。「知らないこと」が「知っていること」に変わると、嬉しくてたまらなくなる。だが、それが楽しいことだと気付いたのは、少し前のことだ。

幼い頃から私は見栄っ張りで、ずっと知ったか振りをして過ごしてきた。それで周囲の人を苛立たせることもしょっちゅうだった。

兄と話していた日のことだった。兄は私と特に距離が近いため、その分私の知ったか振りに苛立つことが多かったと思う。その日、何十回目、ひょっとしたら何百回目の知ったか振りをした私に、兄が言った。

「そうやって見栄を張るの、もうやめたら。知らないって言うのは恥ずかしいことだと思ってるのかもしれないけど、今までのお前の行動のほうが恥ずかしいよ。」

ただでさえ生意気で見栄っ張りで、その上図星をさされた私は素直にその言葉を受け止めず、ふてくされた。その後しばらくは忘れていたが、数日後、また同じように知っている振りをしようとした瞬間に思い出して、思わず黙り込んでしまった。

その時は「知らない」とは言えなかったが、思い出すたびに黙り込んで、ふと気付いたことがあった。「知らない」と言うのは恥ずかしいことで、言えばきっとばかにされる。そう思っていたが、「知らない」と言えたことなど一度も無かった。「きっと」ばかにされるなんて、確かめてもいないのに。

そう思ってからは、知らないことは正直に知らないと言おうと決めたが、すぐにはばかにされるかもしれないという思いが捨てられなかった。そんなありさまだったから、決心した後の最初のチャンス、また兄と話していた時は逃げ出したくなった。それでも、恥ずかしい行動をする恥ずかしい人間のままは嫌だと思った。

「知らないから、教えてほしい。」
随分と勇気が必要だったその一言は、口にするとすっきりした。それに、兄は私をばかにしなかった。ばかにせず、丁寧に教えてくれた。

「なんだ」と思った。「なんだ、勝手に思い込んで決めつけてただけか、本当に恥ずかしいな」と。

それからはためらわずに「知らない」と言えるようになった。誰も私をばかにしなかった。だんだんと知識を得ることが楽しいと思うようになり、自分から知らないことを探して調べるようにもなった。「知らないこと」から「知っていること」に変わると、自分が少しだけ成長したように感じられて、嬉しくなる。

また、人に教えることが面白いということも知った。分かりやすく伝えようとして伝えた言葉は、自分にとっても分かりやすい。だから理解が深まる。反対にどうしても伝えられないときは、それが苦手だと分かる。人に教えることで自分の得意なことと苦手なことの分析ができるのは興味深い。

以前に比べれば私は相当ましな行動をするようになったと思う。だが、まだまだ欠点は多い。ばかにされるかもしれないという思いも完全には消えていない。他人の目を気にしすぎる癖も直らなかった。それは一生直らないのかもしれないが、だからといって前の自分に戻る気にはならない。知らないままでいるのはもったいないと思い知った。

ずっと恥ずかしいことだと思い込んで怖がってきたことは、実際には何ということのない簡単な行動だった。そもそも世の中には知らないことがいっぱいなのだから、知らないことがあって当たり前だ。こんなことも考えられなかった自分に、今更ながら恥ずかしさと呆れが湧いてくる。

今の目標は、持っている知識を活用できるようになることだ。日々の勉強の中でも、どうしても思考が止まってしまい、応用的な問題でつまずくことが頻繁にある。うまく使えてこその知識なのに、それができないのでは宝の持ち腐れだ。

今まで気付けたことや考えられるようになったことのほとんどは、自分が変わらなければ分からなかったことだ。その変わるきっかけを作ってくれる人がいたことは、本当に幸運だ。これからも、思いもよらないことで価値観が根本からひっくり返されることがあるだろう。それでも、変わることを恐れずに進んでいきたい。自分を誇れる人間になってみせる。

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佳作

私から広げる支援の輪

山形県南陽市立沖郷中学校

3年 平田 寧々

去年の秋、私は友達と2人で小児がん支援のための「レモネードスタンド活動」に挑戦しました。

アメリカでは、子どもが自宅の庭先などでレモネードを販売する「レモネードスタンド」が夏の風物詩になっているそうです。この活動は、計画し、レモネードを作り、販売するまで全て子ども自身で行います。子どもにとって楽しく社会経験のできる文化として根付いています。これを利用して、アメリカのある小児がん患者が小児がん支援のために多額の寄付金を集めたことが、レモネードスタンド活動の始まりです。日本でも、レモネードスタンド活動は、集めたお金を小児がん支援のために寄付するという社会貢献活動として広がっています。

私は、小学校3年生の時に小児がんを患い1年間の抗がん剤治療を受けました。病院の中で生活していると、周りには私と同じように病気と闘っている子どもたちがたくさんいました。小さい子が自分よりも長い間入院し、辛い治療に耐え、日々弱音を吐かず病気と向き合っていることを知りました。退院後も学校になじめるか、再発することはないか不安ななかでの生活でした。入院していると同じような境遇の子どもたちもたくさんいますが、退院すれば周りの子はみんな当たり前のように元気に生活しています。私は髪の毛が抜けてしまったり、ムーンフェイスになって顔が変わってしまったりしたことをより強く感じました。小児がんは治療したから安心できるわけではなく、その後の生活も不安がたくさんあるのだと気づかされました。

自分が小児がんを経験してから小児がんに対するイメージは変わり、小児がんについてもっとたくさんの人に知ってほしい、もっと小児がん支援の輪を広げたいと思うようになりました。

小児がん支援のために自分にできることは何かないのか考え、母に相談してみました。母は、「レモネードスタンド」という活動があることを教えてくれました。

レモネードスタンドを開催すると決めてからすぐに計画を立て始めました。調べていると、レモネードスタンド普及協会というレモネードスタンド活動を支援している団体を見つけました。その団体のサイトから開催までの流れを学び、まずは開催する日にちを決めることにしました。いつ開催すれはたくさんの人に集まってもらえるのか考え、私が住む地域の「沖郷秋まつり」で開催することを決めました。

開催する日が決まったら、次は「沖郷秋まつり」の主催者の方に出店の許可をいただきます。許可をとる間に、開催するにあたって必要なものは何か、何を準備すべきかを紙に書き出し、買うもの、借りたいものを決めていきます。当日来たお客さんに見てもらうポスターは、わかりやすく小児がん治療の現状やレモネードスタンド活動について知ってもらうため、どのようにまとめたら見やすいか悩みながら手書きで一つ一つ丁寧に作りました。学校内や公民館などにも、宣伝用ポスターを飾らせていただきました。

開催日当日、ホットレモネードとレモンスカッシュの2種類を作り、1杯150円で販売しました。
「レモネードはいかがですか!」
「小児がん支援にご協力お願いします。」
と大きな声で呼びかけると、子どもから大人までたくさんの人が集まってきました。レモネードを買うことはもちろん、募金をしてくださる方もいました。購入される方はポスターを見て、
「頑張ってね。」
「素敵な活動ですね。」
と声をかけてくださり、心が温かくなりました。他にも、小児がん支援のためならといって何杯も購入してくださる方もいました。半日という短い活動時間でしたが、110杯も売れ、募金と合わせて、18,215円を寄付することができました。

この活動は、自分で企画・運営することでたくさんの人と関わった貴重な経験となりました。自分で申し込んだり、交渉したりと、これからに繋がる体験をすることができました。日本では、まだまだ小児がんやレモネードスタンドの認知度は低いのが現状です。今後は一緒に活動してくれる仲間を募集するところから始めて、第1回目の開催よりも多くの寄付金を集められるようにしていくことが目標です。たくさんの人にレモネードスタンド活動のことや、小児がんについて知ってもらえるよう挑戦を続けていきます。レモネードスタンド活動が特別なことではなく、誰もが知っている活動になることを願って、私から活動の輪を広げていきます。

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佳作

色づく世界の未来から

山形県白鷹町立白鷹中学校

3年 舩山 天寧

「自分がどうありたいか」私はこれから先、この言葉を胸に、前へ進んでいきたいと思います。

私には、自分の「殻」に閉じこもってしまうという悩みがあります。普段友達や先生、時々家族にでさえも自分を守るための、「仮面」を無意識に付けて接してしまいます。相手から嫌われないようにするための、本当の自分を押し殺した「仮面」です。その上私は、「仮面」のことや学校のこと、その他のことに悩みがあっても誰にも相談することができません。

いつも、抱えこんだり、我慢をしたりしていたら泣きたい時に涙が出なくなっていました。誰にも相談できずに、我慢して、無理矢理笑顔の「仮面」を付けて「殻」に閉じこもっていました。自分が傷つきたくないからです。「仮面」を付けた私ではなく、ありのままの本当の私を見せれば、きっとみんなは離れていってしまうと思ったからです。本当の私は、要領が悪く、不器用で、怒りっぽく、優しくも思いやりもありません。だから、「仮面」を付け我慢し続けなければならないのです。でも「仮面」ばかり付けていては、本当の友達はできない、なんてことはわかっています。それでも欲しいと思ってしまうのです。

だから私は変わりたいです。「殻」を破った偽りのない本当の私でたくさんの人と話してみたいです。たとえ、自分を守るための、「殻」を破って本当の私を見せて傷つくことがあっても目を逸らさないで、逃げないでいたいです。確かに、誰かに自分を否定されたり、笑われたりするのはとても辛いし、悲しいです。でも、誰かの言葉で自分を押し殺したくはないです。自分を無理矢理「殻」に閉じこめていたら、世界が白黒のような感じがしていました。ですが、ありのままの私で、目を逸らさなければ世界は色づいて、とても綺麗に見える気がします。

「もうこんな私は嫌だ」「思いっきり笑いたい」そんな思いや考え方一つで、見える世界などたくさんのことを変えることができると思います。私はこれから、「本当の私」になれるように変わりたいです。

私には、夢があります。「特別支援学校教諭」になることです。一人一人に向き合ってくれる先生に憧れたのと、障がいのある子どもたちが将来に希望を持てるように手伝いたいと思ったからです。私が憧れたある先生は、とても優しくて、強く、一人一人に真剣に向き合ってくれて、「自分はみんながだめなことをしていると思ったら怒る。それを嫌だと思う人もいるかもしれない。自分を嫌う人もいるかもしれない。それでもかまわない。」と言っていました。私もこの先生のようになりたいと思いました。嫌われても、怒ることでその子どもたちが少しでも道を間違えないのなら。私は障がいがある子どもたちにも、自分の将来に希望を持ち、今しかできないことに一生懸命取り組み、眩しいくらいの笑顔を見せてほしい、と思いました。確かに今私が思っていることは単なる理想論です。それでも私は、その理想を現実にできるよう、頑張りたいです。

これから先の将来、どんなことが起きるかわかりません。たくさん辛いことや悲しいことが起きると思います。それでも傷つくことから逃げず、向き合いたいです。逃げることは、自分に嘘をつくことだと思うからです。私は自分に自信がありませんでしたし、嫌いでした。ですがこれからは、もっと自分を好きになって、自分の将来に向かって、色づく世界を生きていきたいです。

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佳作

自己改造の日は来るのか

山形県飯豊町立飯豊中学校

3年 山口 奈瑚

「オーセラ選手とコウジ選手、すごい成長したね」

この2人は東北を拠点とするプロレス団体所属、デビュー3年目の若手選手だ。大瀬良泰貴選手は肘の手術で約1年間、川村興史選手は肩の手術で約半年間、試合ができずにいた。そして復帰後久しぶりに2人の試合を観た。

「何かが違う」

確かに、コスチュームが変わった。髪型も変わった。かっこよくなった。体つきも大きくなっていた。でもこの「何か」は見た目だけではないことを会場にいたファンも感じていた。

私はこの2人を特別な思いで応援している。それは私と同じ時期に新しいスタートを切ったからだ。

私は2017年中学校入学、大瀬良選手と川村選手も2017年プロレスラーデビューした。

中学校は算数から数学というものに進化し、ギブアップ状態でいた。さらに部活動の人間関係トラブルに巻き込まれたこともあった。

オーセラ選手とコウジ選手のデビュー当時は、先輩レスラーと試合をすれば、あっけなく負けてしまったり、完膚(かんぷ)なきまでにやられてしまったりする時もあった。

しかし、この2人のシングル対決は、リング上から団体の明るい未来を抱かせるフレッシュなパワーを放ち、同時にライバル心剥き出しの熱い試合をみせてくれていた。そして怪我による長い欠場からの2人の復帰戦。その後は、先輩レスラーからの初勝利や大先輩の大技を受け切った後の時間切れ引き分けに持ちこむぐらいになっていた。若さとがむしゃらな気持ちで先輩に向かっていたあの頃とは、全く違う試合内容。負けても、「次は勝つ」という顔つきで先輩を睨みリングを後にしていた。

「人はたった3年でこんなに変わってしまうんだ」

部活、勉強、行事、人間関係。自分を改造するチャンスはいくらでもあったはずだ。入学当時から、初っ端の正の数、負の数の計算からつまずいた。なぜマイナスとマイナスでプラスになるのか、納得いかなかった。人間関係は担任の先生から人見知りを心配されているようだ。運動会役員や、学級委員に担任の先生から推薦されても、自分にできるか不安で結局やらずに終わった。

デビュー3年で大きく成長した大瀬良選手と川村選手。中学校3年間、私をみて、周りの人たちは「何かが違う」と感じてくれるだろうか。その時、私はこの言葉を思い出した。

「前頭前野が爆発するのは思春期だけ。爆発させるには、小さい頃から前頭前野をじっくり、ゆっくり育むと爆発するの。爆発するには、生活リズムをきちんと整えて、乱れたらできるだけ短時間で戻すことを考える。そしてバランスの良い食事も大事」

この言葉は、母が私の小さい頃からいつも言っていた言葉だ。前頭前野が爆発するという意味は、前頭前野が担当する脳の働きが実際に現れて活用できるようになることだ。ただし小さい頃からじっくり育み続けないと、晴れて思春期に爆発しないのだ。

私はこの言葉を思春期の今、もうひとつの解釈でこう読みとる。今の時期はたくさんの人との出会いや別れ、部活動、勉強、人間関係に関わるさまざまな場面を経験する。感受性も高く、世の中の動きや現象、言葉が心に突き刺さってくる。このような多くの事を、大人の助言も少し飲み込んで積み上げ、来るべき日に発揮するのではないだろうか。

大瀬良選手と川村選手の来るべき日が怪我からの復帰戦であった。

今まで成長というと、「あることをきっかけに成長する」だと思っていた。しかし、自分の改造方法には限りがなく、人それぞれではないだろうか。コツコツ積み上げ改造する人もきっといるはずだ。たとえ今、成長を感じられないのならば、何か自分でアクションを起こすか、今よりもっと改造のきっかけのタイミングを逃さないようにする意識が必要であると気づいた。

だから今、中学校最後の年、私は運動会の応援団員に立候補した。理由は、私をみた人に「何か違う」「成長したね」と思ってもらいたいからだ。今まで逃し続けてきた変わるタイミングを今年は掴んだのだ。そして、今までの積み重ねを発揮し、自分を改造したい。これからは2度とタイミング、チャンスを逃さない。

時は来た。改造するきっかけの日。

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佳作

百歳の想いを受け継ぐ

山形県寒河江市立陵南中学校

3年 山口 奈々

小学4年生の夏。「今年は戦後70年」という言葉をテレビで繰り返し耳にした。この時私たちのクラスでは、国語の教科書の「一つの花」という戦時中の物語を通して主人公の心情について話し合ったが、その時代の貧しさや厳しさについて正直なところ私自身ほんの少ししか理解することができなかった。戦時中とはかけ離れた不自由のない時代に生まれ育った私には、この物語の主人公の育った環境に共感することが難しい気がした。

私はその時夏休みの自由課題のテーマを探していた。「この夏が戦後70年なんだ」そう思うと、戦時中に生きていた人々の生活や体験について急に興味が湧いてきた。その時代を生き抜いた人の話を聞いてみたいと思った。私の知っている人の中で一番長く生きている人といえば私の曾祖母だ。大正10年生まれの曾祖母は、私の母の母の母だ。私は会うたびに癒されている。いつも朗らかな笑顔で語りかけてくれて、人を想う心に溢れ、子ども・孫・曾孫のことを最優先に考えてくれる。多趣味で、何事にも一心一意。耳が遠いけれど、想いを伝えようと懸命に努力してくる私の自慢の曾祖母だ。しかし、私は曾祖母がどんな人生を歩んできたのか聞いたことがない。だから、私は「もっとひいばあちゃんのことを知りたい。その笑顔の裏にはどんな苦労があったのだろう」と思い、夏休みに会っていろいろと話を聞いてみようと決めた。

曾祖母は耳が遠いので、昔の暮らしに関する質問を紙に書いてみた。いつもなら軽快に答えてくれるのだが、急に声が出なくなり不自由を感じているので紙と鉛筆が欲しいと伝えてきた。6枚の紙に、一度も顔を上げずに黙々と書き始めたことに驚いた。小学4年生の私には聞き慣れない言葉が多く、現在からは想像もつかない内容に圧倒された。

私と同じ10代から農業を手伝い、外の仕事が終われば味噌や漬物を作った。戦争で木綿が買えず、冬に女性は蚕の糸で作った絹で着物を作った。春夏秋冬仕事があり休みなく働いた。おつかいは3.5km離れたところまで歩いた。冷蔵庫も水道もなかったので、野菜は煮たり漬けたり、魚は干して食べた。電気は7時に消えてランプを使った。戦争は小さい頃はなかったが、昭和16年から太平洋戦争が始まった。横浜の姉の子が疎開してきた。夫が「今度は俺が戦争に行く番だ」と言っていた時に戦争が終わった。

腰も曲がり、耳も声も不自由だが、私の質問に筆談で答えてくれて胸が熱くなった。いつも穏やかな曾祖母からは想像もつかない話ばかりだった。昔の人は遊ぶ物を身近なもので作り、食べ物を保存する方法などの工夫をしていたことに驚いた。10代の頃から働くことは今の自分たちには想像もできないし、そんな我慢強さも工夫を凝らす豊かな知恵もない。私なら不便な生活の中で体力気力も限界に達するかもしれない。情報技術が進化し便利な現代とは違い、人との繋がりも欠かせないと思う。とても真似できないような人生を送ってきた曾祖母の話や戦争のことを忘れてはならないと自分に誓った。

話の最後に「子どもの頃に嬉しかったことや楽しかったことは何か」と尋ねてみた。その答えにハッとさせられた。

「楽しいことなど思い出せない。辛かったことはいっぱい思い出せる。長生きしていろんなことがあったけど今が一番幸せ。子どもがしっかりしていて今私の世話をしてくれる。孫や曾孫がたくさんいて長生きしてよかった。一期一会。あなたたちに出会えてよかった。」

出ない声を振り絞って、私たちへの想いを言葉にしてくれたことに感動した。子どもの頃に楽しいことがなく、何度も涙が溢れるような苦しい経験をしてきたのに、戦争中のような苦労はしていない私たちにこんなに想いを伝えてくれるなんて、恥ずかしさや尊敬の気持ちなどいろんな感情が入り交じり、胸がいっぱいになった。貧しさや苦労という経験が働き者で人を想う曾祖母の人柄を生み出したように感じた。今は情報化の時代で、会わなくてもメールでメッセージを伝えられるが、曾祖母のように人に感謝を直接伝えられる人間でありたいと思った。

あれから4年。曾祖母は今年数えで100歳を迎えた。誕生日を孫・曾孫が揃ってお祝いできた。お祝いの準備を進める間、私はベッドの脇でしわしわの手を握り曾祖母の話を聞いていた。いつも私たちに大切なことを伝えてくれる。私たちも曾祖母と出会えた喜びや感謝の言葉を手紙に書き、直接伝えることができた。
「ひいばあちゃんの曾孫でよかったよ。」

満点の笑顔を見ることができて幸せだった。今を生きている喜びを心に留め、100歳の曾祖母がこれまで伝えてくれた「感謝の想いを言葉にする大切さ」を受け継いでいきたい。

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佳作

孔子の教えと私の成長

福島県福島市立平野中学校

3年 小抜 裕大

子曰く、「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。」と。

これは中国古代の思想家である孔子の教え、「論語」というものである。皆さんはこれを聞いて何を感じるだろうか。

私は「ある出来事」によりこの言葉に対する思いが変わっていった。

去年の秋から冬、私は部活動でやっている卓球に夢中であった。秋の新人戦では、市内での団体戦で優勝、個人戦のダブルスでは準優勝、県北地区では、団体戦で3位となり県大会へ進むことができた。冬の大会でも団体で準優勝となり、好成績を残すことができた。

しかし、私は結果を出すにつれて、卓球に対する「好き、楽しい」という思いよりも、「何よりも結果だ、結果を出せなければ意味がないんだ!!」という結果を求める思いが強くなっていった。そのため、段々と卓球が楽しいと感じることは少なくなっていった。

そんなある日、部活動で練習をしていると、卓球部のA君からこんなことを聞かれた。
「ねぇ、卓球って楽しい?」
私は一瞬、返事に戸惑った。あたふたとしていると、A君は言った。
「俺は楽しいよ。いくら弱くても、卓球は楽しい。」
A君はとても楽しそうな顔をしていた。

その日の夜、私は父に今日の出来事を話した。すると父は、
「そのうち、A君に負けるかもね。」
と言った。私は冗談じゃないと思った。ただ楽しくやっているA君に負けるだなんて考えられない、と思った。私は練習した。父が言ったことは間違っていると信じたかったのである。

そんなある日、部内でリーグ戦を行った。そして、毎回勝っているA君との試合が始まった。序盤はほぼ互角だったが1セットを取られてしまった。次いで2セット目も取られて、ストレート負けしてしまった。父が言っていたことは本当だったのだろうか。私はA君に負けたことによってさらに卓球が嫌いになっていった。さらに、練習へのやる気も消えていき、実力も落ちていき、部内では10数人中9番位になっていた。もう、卓球なんてやりたくない。私はもうどん底にいる状況だった。これが一つ目の挫折である。しかし、現実は甘くない。さらに追い打ちをかける出来事が起こった。

今年の6月、嫌いな卓球を練習していると
「ゴキ…」
小さな音だったが今でも覚えている。左足に何か違和感を覚えた。その日から2日後位だろうか。左足に激痛が走り歩けなかった。病院に行って診察を受けると筋肉の炎症ではないかと告げられた。そこから約1カ月間、卓球をすることができなかった…。嫌いな卓球から離れることができて、心のどこかでホッとしていたのかもしれない。

しかし、部活を休んで3日後位から私の心は矛盾を感じていた。嫌いな卓球から離れることができて嬉しいはずなのに、卓球がしたいと感じている自分がいる…。この瞬間、自分の本当の気持ちに気付いた。私は、卓球が好きなんだ!! その日から私は、家の中でできる素振りを始めた。卓球から離れたことで楽しいという気持ちを取り戻すことができたのだ。

部活復帰後、来月に練習試合があると告げられた。私は練習試合に向けて、辛い時もあったが、楽しむことを忘れずに練習をすることができた。

練習試合の日、私は最後の団体戦で接戦を制すことができた。とても楽しかった。卓球をやってこのように感じたのはとても久しぶりだった。また、違う日に行った試合では、A君にも勝つことができ、部内のエースにも勝つことができた。

このように私は、ライバルに差をつけられ、足に怪我を負うという二つの挫折から自分の本当の気持ちに気付くことができた。

物事へ結果を求めすぎれば、求めすぎるほど、結果が得られない時にそのものを段々と嫌いになっていってしまい、やがて諦めてしまうかもしれない。しかし、それを楽しむことができるのならば、結果が出ない時でも辛抱強く結果が出るまで待つことができ、いつの日か努力が実り、結果を出すことができるのではないか、そのため物事を楽しむ人には勝てないのではないかと私は思う。

子曰く、「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。」と。

この論語から孔子が教えたかったのは、このようなことではなかったのだろうか。

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佳作

魔法のケーキ

福島県南会津町立南会津中学校

1年 近藤 心優

世界のみんなを笑顔にできる「魔法のお菓子」を作る。それが私の夢だ。

私が将来の職業としてパティシエを考え始めたのは、小学3年のころだった。そのころ妹はまだ3歳でだんだん言葉を覚え始めていた。その中で私が忘れられない妹の言葉が、「かい、かい」だ。妹はみんなと違う特性をもっていた。それは「食物アレルギー」だ。食物アレルギーとはある特定の食べ物を食べると、息苦しさや発疹などの身体症状が現れること。重度の場合にはアナフィラキシーを起こし、死につながる場合さえある。妹はさまざまな食べ物のうち、牛乳と卵でアレルギーが現れた。

知らずにアレルゲン食材を食べてしまった妹は口のまわりに発疹がでた。「かい、かい」と舌足らずな口調で口の周りをかこうとするので、傷つかないように私と母は妹を止めなければならなかった。

食物アレルギーは成長とともに治ることもある。実は私も妹と同じ食物アレルギーがあったが、成長とともに牛乳や卵を食べられるようになった。しかし今でも魚とそばは食べられない。だから妹のつらさもよく分かった。

そんな妹の誕生日の夜、私は驚いた。食後に母がケーキを運んできたのだ。ケーキには牛乳や卵がふんだんに使われている。食べたくても食べられない妹のため、いつしかわが家ではケーキを買わないようになっていた。目を丸くする私に母は「これはね、卵や牛乳を使っていないケーキなんだよ」と教えてくれた。それらを使わずにどうやってケーキができるのだろうと疑問に思いながらフォークを入れると、確かに普通のケーキのようにふんわりしている。食べてみると以前食べたケーキとは多少味は違ったが、教えられなければ分からないくらいおいしいケーキだった。妹はというと、口いっぱいにケーキをほおばり「おいち」と満面の笑みを浮かべている。

食べ終わってふと考えた。きっと世界には妹や私と同じように、食べたくても食べられないものがあって苦しんでいる人がたくさんいる。そんな人たちのためにできることはないだろうか。同じ苦しみを知っている私だからこそできることはないだろうか。そう考えたことで私の夢が決まり、魔法のお菓子作りへの挑戦が始まった。

そこで、アレルギーについて調べてみた。すると思っていたより多くのアレルギーがあることが分かった。アトピー、花粉症、ぜんそく。そして、食物アレルギー。そんなアレルギーとは体の免疫が異常反応を起こし、くしゃみや発疹、かゆみを伴う症状のことだそうだ。花粉症は知っていたが、ぜんそくもアレルギーの一種であることを初めて知った。

さらに、多くの飲食店でアレルギー対応を行っていることも分かった。そういえばファミレスのメニューには使われているアレルゲン食材が載っていて、自分で判断できるようになっていたことを思い出した。母のケーキのように、低アレルゲンメニューといって主なアレルゲン食材を使っていない物もある。近所の食堂でもラーメンとそばをゆでる鍋を別にするなど、アレルギーがあるお客さんのために工夫しているそうだ。

ではどうしたらパティシエになれるのだろう。母に聞いたり、インターネットで調べてみたりすると製菓衛生師という国家資格があり、それを多くのパティシエが取得していることが分かった。そして資格だけではなく、お菓子作りの調理技術や盛り付けのセンスなども必要になってくるそうだ。

そう考えると私が今、中学校で学んでいることは将来の夢につながっている。家庭科では調理実習はもちろん、栄養や衛生面の知識もパティシエには必要だ。盛り付けでは美術で造形的感性を磨くことも重要になってくるだろう。アレルギーなどは保健や理科で学ぶことができる。そのうえ自分の店を開店しようとすれば、経理も必要だろうし、広告などで文章力も試されるかもしれない。テスト前になぜ中学生はこんなにも勉強しなければならないのだろうと不満に思っていた私は、初めて勉強することの意義について考えることができた。すると不思議なことに世の中の見え方も変わってきた。私や妹のために毎日の料理を工夫して作ってくれる母への感謝。コロナ禍の中での各飲食店の工夫。バリアフリーなどにも関心をもつようになった。

みんなが笑顔になるお菓子を作る。その私の夢は簡単には実現しないかもしれない。しかし今、自分にできることに一つひとつ取り組んでいくことで必ず夢に近づいていけると思っている。家族や友達、これから出会うたくさんの人々、そのみんなの笑顔を想像して、私は今日も魔法のお菓子作りのために挑戦し続けている。

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佳作

声で伝われ

福島県いわき市立植田東中学校

3年 齋藤 葵

スマートフォンやパソコン、タブレットといった機器の普及に加え、メールやSNSなどのアプリを使ったコミュニケーションの取り方が一般的となってきた近年、私が大切にしたいことは「声で伝える」ということだ。

もちろん、私自身メールを使って家族や友人とやり取りを行う。相手に聞きたいことや伝えたいことをすぐに送れることは便利である。仕事をするようになればなおさら必要不可欠となるだろう。私が伝えたいことは、「メールを使うな。」ということではなく、「感謝や激励の気持ちは、自分の言葉で直接伝えよう。」ということだ。それは、私自身の体験で実感したからだ。

ソフトテニス部に所属していた私は、この3年間で県内外のさまざまな大会に出場してきた。するとやはり、自分たちよりも格上といわれるペアに当たることがある。以前他県で、2位という成績を残していたペアと対戦できる機会があった。コートの外から、他校の選手が「やっぱり県2位は強いよね。技術が全然違うもん。絶対勝てないよ。」と口々に言う声も聞こえる。実際相手のボールの速さや威力は自分たちとは比べ物にならないほどのもので、思わず足がすくんだ。しかもそれは、団体戦での出来事だった。ここで負けることは私たち2人だけの問題ではなく、チーム全体の負けにつながるのだ。そんな状況から、知らず知らずのうちに自分でも大きなプレッシャーも背負ってしまっていた。

そうして始まった試合、1ゲーム目は4対0であっさりと完敗してしまった。自分たちの実力以上の力を出さなければ確実に負けると思い込んでいたので、変に力が入って力んでしまっていたのだ。普段なら返せているはずのボールは全てアウトやネットをくり返し、相手に打ちこまれた強いボールの前では足が動かず一歩も追うことができなかった。そうなるとペアとの声かけも減り、コンビネーションもかみ合わなくなる。劣勢な状況で笑顔を失ったら、待っているのは敗北だけだ。頭ではそれを理解していても、相手ペアの圧倒的なプレーを前にして互いに黙りこんでしまった。そして2人ともうつむいたまま、コートチェンジのため移動を始めたときだった。顧問の先生が、一言だけ言った。「大丈夫。落ち着けば勝てる。」普段と何も変わらない、口調や声音。ただその声と言葉に、急に心が軽くなった。「そっか、いつも通りで良いんだ。」と思うと呼吸が楽になって視界がぱっとクリアになった。

緊張のしすぎで何も聞こえていなかった私の世界は周りの音を取り戻す。隣のコートでボールがはずむ音、わき上がる歓声や拍手。そして何より「がんばれ。」「ファイトだよ、応援してるよ。」そんな仲間の声援がしっかりと聞こえた。その声は、私たちの闘志を奮い立たせた。確かに私たちの力は、相手を上回るものではない。だが、私たちは今、2人だけで戦っているのではない。チームの想いを受け、みんなで戦っているのだ。その後はミスも少なくなり、ファイナルセットまでもつれこむ大接戦となった。そしてなんと、県2位のペアに勝利することができた。あのときの感動は今でもはっきりと胸にやきついている。私の心は先生のたった一声で変わった。生きた声は、発した人の言葉を相手の心に響かせ温め、奮いたたせるのだ。

そこで私は今、言葉を生きた声として相手に届ける挑戦をしている。「声優」という職業にチャレンジしてみたいのだ。一般的に声優というとアニメや外国語映画などの吹きかえのイメージが強いかもしれないが、「声で伝える」という視点で見ると本当に奥が深い。声で全てを表現するというところが声優のすごいところだ。

例えば、ドラマCDというものがある。音声のみのドラマを収録したもので、声劇のみでシーン説明やキャラクターのやり取りが展開される。つまり、感情ののった生きた声で物語がつくられるのだ。優しく温かな声は私たち聞き手の心にじんわり広がる。反対に、つめたい声は一瞬にして心を凍らせる力をもっている。いつか、このように人の心にすっと入っていけるようないきいきとした言葉を声で伝えられるようになりたいのだ。

ではなぜ、声で伝えることがそんなに重要なのか。例えば、怒りや不満、悲しみなどの負の感情も、言葉で表現することで自分の気持ちを整理できるだろう。ただそれを声に出して直接相手にぶつけるかどうかは、一歩立ち止まって考えてからでもよいのだ。しかし、感謝や激励の言葉は声で相手に伝えるべきだ。なぜならそれを発する人のぬくもりや、ごまかしようのない真実が声に表れてしまうからだ。時代は会えない人と繋がる方法も届けてくれた。遠く離れている君へ、近くで応援してくれるあなたへ、今この気持ち声で伝われ。

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医療の現状と自分が出来ること

福島県郡山市立富田中学校

2年 齊藤 拓斗

祖母が倒れて3年。青森県下北半島に位置するむつ市に祖母は住んでいる。祖母は、誰にでも優しく、働き者で、笑顔のステキな僕の自慢の祖母だ。3年前の夏、姉と庭でヒマワリに水を与えていると、母がひどく慌てた様子で僕たちに近づいて来た。「おばあちゃんが倒れてね、ドクターヘリで…。」僕は「ウソだ。」この言葉を声に出すのが精一杯だった。姉はホースを強く握りしめ、涙がこぼれ落ちないように我慢していた。僕は胸が張り裂ける思いで母に病状を聞いたことを憶えている。

祖母は、むつ市内の総合病院で脳内出血と診断されるも、重症で緊急を要すると判断され、青森市内の県立病院にドクターヘリで搬送された。下北半島から、青森市内まで約20分の搬送ではあるが、気象状況によってはヘリコプターを飛ばせないことも多く、ヘリが飛ばせない場合は、救急車で国道を約3時間かけ青森市内まで搬送されるそうだ。後から知ったことは、祖母が倒れた時に祖父が近くにいたことや、ドクターヘリが飛んだことが奇跡的に祖母の命を繋いだらしい。

祖母の顔を見に行けたのは2日後だった。母と姉と3人で新幹線で新青森駅に着くと外は雨だった。病院に一足先に着いていた父と合流すると、父は少し元気がなく、いつもより口数が少なかった。父の様子から、僕なりに覚悟を決め祖母のいる病室へ向かった。祖母はSCU(脳卒中集中治療室)で治療されていた。頭から管が出ていて、目を閉じていた。僕は、祖母の可哀想な姿を見ていられなかった。だが現実を受け入れるしかなかった。父は、僕の肩をそっとたたきながらこう言った。「むつ市のような地方では、ドクターヘリが飛んで助かる命があるんだ。運がよかった。」僕は、父の言った一言に嫌な気持ちになった。ドクターヘリが飛ばないと、救えない命もあるということなのか。人の命は住む地域やその時の運で分けられてしまうのか。この病室から見るスッキリとしない空みたいだ。僕は静かに怒った。

祖母が倒れたことにより、地域医療の課題や問題点を調べたり、中学生向け医工連携人材育成事業などにも参加した。母から、医師を目指しているのかと聞かれ、きっとそうなのかもしれないと思った。

僕が挑戦したいことは、誰でも平等に受けれる医療を目指すことだ。地域医療は、地域住民が安心して暮らせるように、医療体制が備わっている状態であり、地域によって差が生じてはならない。しかし、実際は医師不足や各地方自治体の協力体制の違いも課題となっていると知った。国内では、東京都の医師の数が最も多く、47位は岩手県であり祖母の住む青森県は45位だそうだ。また、実際に参加した中学生向け医工連携人材育成事業では、医療の現場で働く医師や医療スタッフ指導のもと、最先端の医療器具を実際に触らせてもらった。日本の医療技術に驚き、とても感心した。しかし、日本の医療技術は発展しているのにもかかわらず肝心の医師が不足していることも現実だと知った。この事業に参加し、実際に医療器具に触れ感じたことは、医師の技術力の向上も必要ではあるが、医療従事者の増員は特に必要なことだと思う。医療従事者の数が潤った状態になれば、助けられる命の数が増えるからだ。そして、僕たちのような若い世代が医療現場の実情を多く知ることは将来の医療のため、より必要だと思う。

今年、世界でコロナウイルスが猛威を奮っており、日本を含む世界中の医療現場が逼迫している。医療難民も増えていて大きな問題となっている。コロナウイルスは収束の見えない危険な感染症であり、また近い将来違ったウイルスが発生する可能性も危惧されている。常に医療従事者の数を確保することは客観的に見てもわかることだ。

“将来の夢は医師です”こんな格好のいいスピーチは僕には言えるかどうかわからないが、ただ今はがむしゃらに医師になって、地域に寄りそった医療を支えられる人間になりたいと思う。急な病に侵された人が治療困難のために病院をたらい回しにされたりすることのない社会になれたらと思う。

祖母は倒れてから3年が経ち、今はむつ市から離れた老人ホームに入所している。障がい者となってしまったが、あのステキな笑顔は今も変わらない。僕は、こんなステキな笑顔を守る仕事に就きたい。
「みててね、おばあちゃん。」

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佳作

夢を形に

福島県三春町立三春中学校

3年 佐久間 愛

「優しさを忘れないでいたい。」

そう願うようになったのはいつだろう。小学校の中学年の頃だろうか。少しずつ自分で考えて行動するようになったからだ。そして、大きくなったら看護師になりたいという思いが、自分の中で次第に大きくなっていった。

看護師。それは私の憧れだ。私は、小学校に入学する前、喘息のため入院していたことがある。一人病室にいるのは寂しい。病気よりも辛いほどだった。しかしその時、一人の看護師さんに支えられた。一人でも寂しくなかった。男の看護師さんだったが、心の壁が取り払われ、何でも話せる自分がいた。それが心地よかった。毎日、病室に顔を見せてくれるのが待ち遠しかった。もうどんな話をしたのかも忘れてしまったが、あの感覚だけが確かに胸の奥に残っている。私もこういう人になりたい。そう強く思うようになった。

しかし、理想と現実はほど遠い。自分では「優しさ」だと思っていたことが、相手にはそう伝わらないこともあった。自分の表現のつたなさや一方的な考え方が原因だったこともある。あるいは、自分がよく思われたいという、恥ずべき動機もあった。勇気がないために、自分の意に沿わないことに同調したこともある。

その私が中学生になり、部活動の部長となった。チームという全体を考えることを迫られた。しかし、新人戦では目標の3冠達成はできなかった。その時、「最後はうれし涙を流して終わりたい。この仲間と必ず3冠を取る。」私は心に誓った。それが、チームの願いなら、達成できるよう力を尽くすことが、自分の役割であり、チームへの最大の貢献だと考えた。

しかし、コロナウイルスが流行し、学校が休校。部活動もできなくなった。そしてある日の夜、私はネットで中体連の中止が決定したという記事を見た。私は頭の中が真っ白になった。何度も何度も検索し直した。信じられない。信じたくない。画面が見えなくなるくらい泣いていた。どうして自分たちだけこんな目に遭うのだろう。予想外の現実に潰されそうな自分。私の中に去来するさまざまな思い。目標を達成するどころか、戦うことすらできない。いったいこれまでの練習に意味があったのか。今までの努力は無駄だったのか。世界規模で襲う猛威になす術もない。やり場のない自分の気持ちが、自分の中で大きく渦巻いていた。

休校が明けて部活動が始まった。私は、中体連中止の事実を知った時から、部活への意欲を失っていた。どうせ頑張って練習しても、それを発揮する場がないのなら、やっても仕方がない。後ろばかり向いていた。部長の自分が諦めていた。

しかし、みんなは違っていた。お互いにアドバイスをしたり、自主練をしたりしていた。休校前と変わらない光景だった。みんなも悔しく悲しいはずなのに、いつも通りの仲間がいた。

この時、私は改めて仲間の大切さを感じた。自分が前に進めたのも、部活に真剣に取り組めたのも、いつも背中を押し、支え、励ましてくれる仲間がいたからだ。私は、「優しさを忘れずにいたい」と願っていた。しかし「優しさ」とは何だろう。自分が誰かのために何かをすることだと思ってはいなかったか。部長でありながら、最初にチームを投げ出してはいなかったか。私は、この時ふと「優しさは、人を生かす力」だと思った。みんなのさりげない言動の一つ一つに温かさを感じた。お互いがお互いを大切に思い、共にいることによってお互いを生かすことができる仲間。こうした関係を一つでも多く作っていけたらいいと思った。

そう、私の願う優しい看護師の原点はここにあると思った。患者が安心して心を開いてくれる。そして、病気を治そうとする気持ちを強くできる。

そんな看護師になるためには、私はもっと顔を上げて、周りをよく見、言葉をかけ、行動してみることが必要だ。部長でありながら自分の気持ちに負けていた自分。これではいけない。もっとたくさん経験を積まなければならない。自分の足で歩き、たくさんの人と出会うことだ。そして、成功だけでなく失敗も味わい、みんなと笑い、涙も流す。それが大切なのだと思う。そして、自分で考えるのとおなじように周囲からたくさん学ぶことが必要だ。未熟な自分を鍛え直そうと思った。実際に辛く苦しい時に、それを乗り越えられるかわからない。けれど、仲間がいれば、支え合う人がいれば、やっていける。私は、そんな人との関わり方ができるようになれば、きっと、私の願う優しい看護師になれると信じて頑張りたい。

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佳作

ロケットトスで心は一つ

福島県福島市立松陵中学校

1年 田村 優歩

「いち、にっ、さあん。」
先輩と目があった。

「レフトー。」

私は、アンテナをめざしてトスをあげた。先輩のアタックがきまり、みんなでかけよった。目が合っただけで気持ちが通じ合ったのを感じた瞬間だ。チームプレーってこんなにおもしろいんだ。

私は今まで、テニス・水泳・陸上などの個人競技をやってきました。でも、中学生になった今は、やったことのなかった団体スポーツに初めて出合い、バレーボールを始めました。小学校のときから、バレーボールをやっていて上手な人もいれば、私とおなじく初めてバレーボールを始めた人もいます。背が高い人もいれば、背が低い人もいます。声が大きい人もいれば、声が小さい人もいます。いろいろな性格の人がいる中で、みんなで楽しんでバレーボールをやっていかなければなりません。ここが団体スポーツの難しいところだと思います。

そこで、私はバレーボール部に入部したときに、目標を立てました。先輩たちが声をかけ合ってプレーをしている姿がかっこよかったので「チームのみんなで仲よく、声を出してプレーをする」という目標です。私が3年生になったときに、先輩方のようなプレーができるようになるために、毎日一生懸命に練習をがんばっています。

ある日、いつものように練習していると、先生から私にとっておどろきの一言がかけられました。

「セッターをやって。」
始めたばかりの私が、バレーボールのことを一番分かっていないとできないポジションなんてできるのかな、と不安な気持ちでいっぱいでした。打ちやすいボールをあげないと、みんなに迷惑をかけてしまう。誰かかわりにボールをあげてほしい。どうしよう。こんな気持ちだった私に、先輩が
「ボールをあげてくれれば、どんなボールでも私が打つから、緊張しないで安心してあげてね。」
と優しく声をかけてくれました。この時の先輩の表現はおだやかで、まるでお母さんのように安心できる存在でした。先輩だけでなく、友達もはげましてくれたり、教えてくれたりしたので、初めのころと比べると不安も少しずつ減ってきました。仲間の存在の大きさに気づかされた瞬間でした。

これまで、自分が経験してきたテニスや水泳、陸上といった個人種目のスポーツにおいては、いつも自分自身との闘いだったように思います。例えば、テニスの試合で思うようなボールが打てなくて相手にポイントをとられたときに、「気にしない、次、次」と自分で自分をはげましました。小学生の時、陸上大会や水泳大会に出場した時も、「苦しい時こそあきらめないでがんばろう」などと、自分自身に言い聞かせて苦しい場面をのりこえてきました。個人種目で学んだことがたくさんあったからこそ、今、私は団体種目であるバレーボールで挑戦してみたいことが、どんどん浮かんでくるのだと思います。

入部して練習を始めてから、1カ月がたった頃のことです。初めての練習試合がありました。この時初めてピンチサーブを任されて、先輩方と同じコートに入りプレーしました。私はとても緊張していたのでほとんど覚えていませんが、一つだけ印象に残ったことがありました。それは声の大きさです。コートの外から応援している時と、実際に一緒にプレーするのでは、声の大きさが全くちがいました。普段から、「バレーボールは声を出さないと勝てない。仲間が嬉しくなるような声をかけることで、今まで以上にバレーボールを楽しめる。」という話を先生や先輩がしてくれます。最初は恥ずかしくて声が出せなかったけど、今は少しずつ声が出るようになってきて、バレーボールの本当の楽しさに一歩近づけた気がします。セッターのポジションだからこそ声を出さないと、けがやトラブルにつながってしまうので、練習の時も試合の時も声を出してがんばっていきたいです。

私にとってバレーボールという部活動は、「私の挑戦」です。先輩方へのあこがれから、私もいつかああなりたいという目標が見つかりました。打ち上げられたロケットのように、まっすぐに空へ飛び立つようなきれいなボールをあげる。強いアタックも打てるようになる。そんなプレーヤーになれるよう、日々努力したいです。仲間と心を通い合わせながら練習も試合も頑張っていきたいです。バレーボールというスポーツを通して、自分自身がどんなふうに成長していけるか、私の挑戦が始まりました。

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佳作

ニセモノ優等生

福島県郡山市立安積中学校

3年 松井 寧々

『優等生』

私は、この言葉が好きだ。そして嫌いだ。あるときは、万能な盾になった。またあるときは、力強い矛にだってなった。

この単語を言われ始めたのは小学校高学年ころだ。低学年のときから、私はまわりより少し勉強が得意であった。それに、体を動かすことが好きだったので、運動面でも良くできる部類に属していた。

だから、クラスメイトや担任の先生に褒められることはしょっちゅうだった。
「わあ、すごい! よくそんなに解けるね!」
「また100点、よくできました!」
どの言葉も、私にとって心地の良いものであった。ひたすら勉強に励んで、結果を出し、褒められる。当時は素直に嬉しかった。

ある日、いつもの称賛の声の中に、例の単語が混じるようになった。
「勉強も運動もできるって完璧だよ。まさに、『優等生』って感じ!」
初めて言われた。私が『優等生』だなんて。とても幸せで、純粋に喜んだ。

ただ、どこか心の中でひっかかるものがあった。私がこれまで好成績を収めてきたのは事実だ。でもそれは、何もしないで手に入れたわけではない。裏でこれでもかというほど勉強した。解いた問題数は誰にも負けない自信があった。何年も継続してついた力だ。

しかし、このことを皆は知っているのだろうか。当然、一日中私の側にいる人なんていないのだから、あり得ないに決まっている。なのに、私を『優等生』というたった一つの単語でまとめてしまっていいのか。私は少し不快感を覚えた。「裏の努力も知らないで、そんなこと簡単に言わないでよ」とまで思ってしまうこともあった。

いつしか私は、皆にとって『優等生』という存在でいられるように努めた。誰かに言われたわけではないが、どこか使命感を感じずにはいられなかった。

だが、私はいつのまにか、自分にとても甘い人間になっていた。『優等生』という存在を言い訳にして。今までみたいに必死に勉強しなくたってうまくいくだろう、だって私は『優等生』なのだから。そんな腐った考えに陥っていた。向かい合うものは、問題からゲーム機へと変わった。その癖は、中学校に入学しても抜けることはなかった。

ところが、突然、胸に強い痛みを覚えた。それは、新入生の部活動見学のときである。

小学生のころ、遊び程度ではあったが、バドミントンクラブに属していたので、バドミントン部に入学前から興味があった。いざ見学に行くと、先輩方は、スマッシュの音が響きわたる迫力満点の試合…ではなく、あまり格好良いとは思えない、地味なメニューをされていた。外周をずっと走ったり、ラインテープの間を往復し続けたり。なんだかイメージと違うなと思って、初日は終わった。

でも、私は2日目も足を運んだ。どうしても、先輩方がシャトルを打つ姿を見たかったからだ。昨日と同じメニューが終えられ、
「こんにちは! 今から基礎打ちをするから、新入生の皆はよーく見ていてね!」
と1人の先輩が、満面の笑みで伝えた。

「キソウチ…? 何だろう…。」
まわりでそんな会話がされていたが、私はそれどころではなかった。なぜか、先程の先輩からオーラを感じずにはいられなかった。

パァン! 想像の100倍よりも大きなサーブの音が響きわたった。すごい。たくさんのラリーが続けられる中、それしか口にできなかった。空いた口が塞がらなかった。

ふと、あの先輩が目に入った。汗だくで、ポニーテールを激しく揺らしていた。よく見ると、他の部員よりも格段に上手だった。

すると、彼女は綺麗なオーバーの構えをした。何を打つのだろうか。すぐさまシャトルは彼女のもとへ吸い寄せられ、パァァァァァン!! と、ものすごい勢いでコートに突き刺さった。それと同時に、眩しく強烈な閃光が私の胸を射抜いた。痛い。まるで彼女のスマッシュを受けたみたいだった。

瞬時に、昔の私が記憶から蘇った。誰にも負けたくなくて、勉強に励んだ日々。地味なメニューを全力で取り組んでいた彼女と重なった。そして、『優等生』ぶっていた自分が恥ずかしくなった。本当の『優等生』は彼女のような人だと気づかされた。

それを機に、私は先輩を目指すようになった。まわりに何を言われても、自分を過信せずに、さらに上を目指して毎日こつこつ努力を続ける人だ。あれから2年が経ち、受験生になった今も、日々勉強に励んでいる。

そして、この全力を継続して、人を魅了できるようなものを編み出したい。あの日胸に刺さった、先輩のスマッシュのように。

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佳作

地味でも良いじゃん

福島県福島市立福島第二中学校

3年 遊佐 茉未子

ある日の学活の時間、夢についての授業を行った。私には得意なことが一つもない。だから、自分はどのような職業に向いているのかが分からなかった。でも、周りのみんなは目をキラキラ輝かせながら、自分の夢について楽しそうに話していた。私はそのとき、うらやましい気持ちと、焦る気持ちでいっぱいになった。

その日から私は、自分に問いかけ続けた。自分が好きな物やこと、何になりたいのか。いろいろな職業について、インターネットで調べたりもした。そして、やっとあることに気が付いた。それは、数学が得意なことと、パソコンに興味があることだ。その二つのことから、真っ先に思いついた職業が、事務の仕事だった。やっと自分に向いているかもしれない職業を見つけることができたと、やけに安心した。それから私は夢中になり、時間を忘れて事務の仕事について調べ続けた。

その次の日、私は友人に事務の仕事がしたいと言った。すると、
「地味だね。」
「もっと大きい夢を持ちなよ。」
と、笑われてしまった。私は、とてもショックだった。自分に自信が持てなかったこともあり、
「そうだよね。もっと大きい夢を探すよ。」
そう言って済ませてしまった。

それからずっと、地味だという言葉が心に引っかかっていた。夢は、地味ではいけないのか、大きな夢を持たなければならないのか。私はそうとは思わなかった。夢がどんなに小さくて、地味なことでも、自分がこうしたい、こうなりたいと思ったことが達成できたのなら、それで良いではないかと。だから私は、前向きに考えよう、自分の意思を貫こうと決心した。事務の仕事をするためには、何をしなければならないのかを考えると、これらのことが思いついた。一つ目は、タイピング練習だ。すばやく、正確な書類をつくるために、タイピングを速くできるようにならなければならない。二つ目は、エクセルの練習だ。書類をつくるとき、エクセルを使うだろう。ならば、エクセルが使えなければ話にならない。三つ目は、資格の取得だ。資格をとっていて損はないと思う。就職や転職をするのが難しい事務の仕事だが、資格があれば就職がしやすくなるだろうし、自分の可能性を広げることも可能だと思う。四つ目は、ボキャブラリーを増やすことや敬語に慣れることだ。目上の方とお話するとき、正しい敬語を使ってコミュニケーションを取ることは、誰でも重要なことだ。さらに、電話やメールでのやりとりにも、物事を分かりやすく伝えるためのボキャブラリーが必要だ。私が思いついたのは、主にこれらの四つのことだった。これをふまえて、まずは今からでもできる、タイピングやエクセルの練習。そして日頃の家族、友人、先生との会話で、敬語を使うときに意識したり、物事を分かりやすく伝えるためには、どのように話せば良いかを考えて話すようにしていこうと考えた。さらに、多くの資格取得に挑戦することができる、情報会計科のある高校を目指すことも決めた。その高校は少し偏差値が高く、たくさん勉強しなければならないので不安な気持ちがある。今までは、挑戦を恐れ、やろうと思ったことを最後までやりぬくことができなかった自分。私はそんな自分が嫌いだった。今でもそうだ。だから、こんな自分を変えたい。夢への挑戦は、自分との闘いでもある。たくさん勉強して、受験に、資格に、そして就職に挑戦していく。その先もずっといろいろな挑戦が待っているはずだ。そして、挑戦の先にはきっと強くなった自分がいる。そう信じて、あのときの授業で私の夢を笑った友人、そして自信のなかった自分にこう言ってやりたい。
「夢がどんなに小さくて、地味なことでも、自分がこうしたい、こうなりたいと思ったことが達成できたのなら、それで良いではないか。」と。

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佳作

走ることは幸せ

新潟県妙高市立新井中学校

3年 相浦 小姫

私は耳を疑った。「1カ月間の休校」――。新型コロナウイルスが流行したため、学校は休みになるという。それだけでなく、私の大好きな部活動も、目の前からあっけなく姿を消したのだ。私はぼう然とした。

私は陸上部に所属している。目標は「県大会で入賞すること」だ。昨年は、県大会に出場することはできたが、緊張感と周りの選手のオーラが、私の心を萎縮させた。その結果、私の体の動きは小さくなり、思ったように走ることができなかった。その悔しさを心に刻み、それから毎日練習に励んできた。

今年の冬は暖かく、雪が少なかった。3月にはもう外で走れる環境が整っていたから、毎日走りたかった。しかし、新型コロナウイルスに感染したくはない。少しは走ってみたものの、思い切り走ることはできなかった。

テレビでは、感染者増加のニュースが次々と報道されていた。見ていると怖くなっていく。ついに親からも「外に出ないで、家の中で遊んでいてね。」と言われてしまった。

そんなある日、衝撃的なニュースが流れた。
「今年の全国大会は中止」「それに伴い、県大会も中止」というものだ。私のショックはあまりにも大きかった。「頭が真っ白になる」とはまさにこのことだ。何も聞こえない、言葉も出ない…ただ時間だけが過ぎた。

少しずつ気持ちを整理しようともした。しかし、無理だった。これまで目の前にあった目標がなくなってしまったのだ。去年の後悔を晴らすことができない。私の中には悔いだけがずっと残るのかと思うと、つら過ぎた。涙も出なかった。自分では気付いていなかったのだが、この頃の私は、妹たちに八つ当たりしていたそうだ。自分の気持ちをどうしたらいいのかわからなかったに違いない。

私は走る気すら起こらなくなっていた。もう走らなくていいかもしれない。もうやめようかな…。そんなことを思った。何もしたくなくなり、全てにおいて楽を求めた。ずっと寝ていたかった。家で勉強とゲームだけしていようと思った。学校は休校で、友達にも会えない。私のストレスはたまりまくった。

しかし、そんな日々を過ごしながらも、やはり私の心はこう訴えてきた。「走りたい」と。先輩の記録を超えたい。自己ベストを出したい。あのとき、もっといいタイムが出せたはずだ。速く走れるようになりたい。前向きな言葉がたくさん、自分の中に湧いてきた。自分で自分の言葉に励まされた。頑張って前を向こう。しょうがない、ないものはない。そう自分に言い聞かせた。だんだんとポジティブ思考になった。

3月下旬、「コロナウイルスの流行が収まってきたから、短い時間かもしれないけれど、外で走っていいよ。」と親から言われた。私の心は躍った。やっと走れるという嬉しさ。体を思い切り動かせる喜び。久しぶりにシューズを履いた。重たくなった体を動かすのは、思った以上に体力を使った。少し走っただけで息切れしてしまうし、足も速く回すことができず、すぐにその場に立ち止まってしまう。でも、思い出した。大地を蹴り一歩一歩前に進む感じや、風を切りながら走る感じ。心臓の鼓動や、自分の足音が大きく聞こえる。そして、体からにじんでくる汗を涼しい風が冷やしてくれるときの心地よさ。楽しかった。私は心から思った。私は、走るのが好きだ。走るって気持ちいい!

4月になり、学校が始まった。クラスメイトや部活動の仲間に会えて安心した。ただ驚いたことに、春休みに走っていたにもかかわらず、登校後に階段で疲れた。4階までがとても遠く長く感じられた。体力が落ちていると痛感した。

そして、少しずつではあるが、いよいよ部活動も再開した。仲間と走ることができる嬉しさを改めて感じた。6月には、ようやく部活動が本格的になった。以前と同じ活動時間に戻り、練習の質も上がってきた。ペース走やスピード練習が増えてきて、苦しいときもあった。でも、仲間がいたから負けたくない気持ちや、勝負する気持ちが起きたし、頑張ることができた。疲れるけれど、今は毎日が充実している。さらに、8月の最初には、記録会があるという嬉しい知らせも入ってきた。そこでいい記録を出すという目標ができた。そのために日々の練習をさらに頑張っていきたい。

私は今回の出来事から、たくさん学ぶことができた。それは、まだ来年があるとか、次の機会があるとか、不確実な未来を見るのではなく、今の自分と真っすぐに向き合うこと。そして、一日一日を大切にして、悔いの残らないような毎日を過ごすことだ。これからも私は走ることを楽しむ。思い切り走って、走る喜びや幸せを感じたい。

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佳作

一人前になるために

新潟県佐渡市立南佐渡中学校

2年 佐藤 愛悠

父は、仕事をしながら柿という果物を育てる農家でもある。私はその柿がとても好きだ。

柿の時期になるとよく母や祖母が私の幼い頃のエピソードを話してくれる。その内容がいつも決まって、
「昔、柿をもいだかごを、ようひっくり返して父ちゃんに怒られとったもんだな」
という。

このエピソードを話してくれるたびに、「大変な思いで作った柿を台無しにしてしまったな」と申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

そんな思いから私はいつしか、「柿のことについて深く知り、早く一人前の農家になりたい!」と思うようになってしまった。

まず、柿のことについてどうやったら深く知ることができるだろうと考えたときに、一番最初に思いついたのが「体験してみる」ということだ。体験すれば柿を作る上での、家族の思いも知ることができるし、学ぶこともできる。大事な技術的な面も知ることができる。しかし、体験するにしても様々な種類の内容がある。

私は摘果という作業を体験することにした。摘果というのは、それぞれの枝に1〜2個の実が残るよう、他のものを手やはさみで取り除く作業である。この作業をすることで、実の数を制限し、一つの実をより大きく、よりおいしくすることができる。

ところが、私は摘果をしていると、だんだん作業に慣れてきて、飽きてしまった。近くで一緒にやっていた母と祖母を見ると、特に飽きる様子もなく、もくもくと摘果をしていた。その姿を見て、「最後の収穫のために細かい作業を積み重ねて努力をしているんだな」と実感した。

そして、父は柿の知識はもちろんだが、特に柿への愛情が誰よりも凄い。父は四季に関係なく、いつも早朝に起きて、山へ行っては柿の作業を夕方までしている。この作業を疲労が蓄積しながらも仕事が休みの日は、毎日している。普段の仕事をしながら、柿を育てるということを両立できるのは、柿へ愛情を本気で注ぎ、本気で日本一を目指して日々努力をしているからだと思った。

私は柿の作業を体験して、次に柿の歴史を知ろうと思った。早速インターネットで調べた。すると、おけさ柿は、「おけさ柿の父」と呼ばれる杉田清氏が始めたことが分かった。元々は梨を栽培していたが、田植えの時期と重なってしまうため、柿の産地化を提案したようだ。その提案から、羽茂地区に柿という果物が根付いたというのだ。

母にこの話をすると、杉田清氏の生家があるよと言われた。そこで一緒に見に行った。ちゃんと今でも家が建っていて、柿の木が一本植えてあった。これは杉田氏が植えたものだという。何か不思議な気持ちになった。

私は、柿の摘果の体験や歴史を調べることで、今までの自分よりも柿について詳しくなれた。でもこれはまだまだ一部にすぎない。これからは一番身近で、日本一を目指して頑張っている父にいろいろ聞いてみたい。そして早く知識を増やして、一人前の農家になって、父や家族に恩返しをしたいと思っている。

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あきらめない気持ち

新潟県十日町市立下条中学校

1年 長谷川 真子

2018年8月。私は、アジア競技会をテレビで観ながら、声がかれるくらいに応援をしていました。女子50メートル自由形で金メダルを獲得した選手は、スピードは速く、フォームもきれいでした。スタイルもよく、笑顔もすてきだなと思いました。その選手は、この大会で日本人最多の6冠を達成した、競泳の池江璃花子さんです。きっと世界の誰もが注目し、東京オリンピックに向けて応援しようと思っていたことでしょう。

しかし、2019年2月。池江選手は、急性リンパ性白血病という、血液の細胞ががん化する病気になってしまいました。その日のテレビは、このニュースでいっぱいでした。私はどういう病気なのか分かりませんでしたが、「がん」と聞いて重い病気だろうなと思いました。抗がん剤などによる化学療法は、吐き気や髪の毛が抜けるなどの苦しい副作用を伴います。それをしても治ることが難しいなら、骨髄移植を行うそうです。

全国各地の人たちもこのニュースに衝撃を受け、骨髄移植のドナーを申し出る人が多くなったそうです。骨髄とは、骨の中心部にある、血液細胞を作り出す軟らかい組織のことです。移植するためには、骨髄が作り出す白血球の型が適合しなければなりません。

池江選手は、化学療法の副作用と闘いながらも、髪が抜けたとき、悲しかっただろうし、悔しかったと思います。なんで私がと。心が負けそうになってもあきらめなかったのは、池江選手の中に病気に決して負けないという目標があったからだと思います。このことは、この病気の患者さんにとって大きな力と希望を与えてくれたと思います。

病気を公表してから約10カ月で池江選手は退院しました。今は、レースに参戦するほどの回復を見せています。病気になって失ったものよりも、闘病生活の間に学んだことの方が多かったそうです。泳ぐことの楽しさ、周囲の人への感謝の気持ちを改めて感じたそうです。それを聞いた私は、小学校5年生の夏のことを思い出しました。

5年生の夏、私は左足のすねを骨折してしまいました。幼稚園のころにも同じところを骨折しましたが、完治していなかったようです。骨折した後は、膝下から足首までギプスで固定され、車いすか松葉杖なしでは歩くこともできませんでした。足がかゆくてもかくこともできず、痛いと思っても痛み止めを飲んで我慢することしかできない生活が続きました。

手術や入院しないだけよかったと思いますが、数週間は家のベッドでテレビを見るか本を読むかの退屈な日々でした。学校へ行き始めたころは、車いすを押してもらい、歩けるようになったら、松葉杖をついて生活をしていました。車いすを押してもらいながら廊下を通ることが恥ずかしくたまりませんでした。みんながマラソン大会に向けて走っているときも、ただ見ることしかできず辛かったです。今思うと、普通に生活できることが素晴らしいことなんだと思います。私があの日骨折していなかったら、当たり前の毎日の尊さにも、仲間の優しさにも、ピンチを一緒に乗り越えてきた家族のありがたさにも気がつかなかったと思います。私の足は、今もまだ完治していません。でも、私は治ると信じています。時々、痛みを感じることもあります。それでも、「私は勝つんだ」と自分に言い聞かせて頑張ることが今はできます。

中学生になった私は、吹奏楽部に入り、初めてサックスという楽器を担当することになりました。最初は、音そのものがうまく出せず、出た音も外れることも多く、私にとっては新しい挑戦でした。私は少しでも上達できるように先輩や仲間にこつを聞きました。音がうまく出ない原因、リードが欠けてしまうのは、私の緊張や不安が伝わっているということが分かりました。私はその日を境に、サックスを楽しく吹くことを意識するようになりました。自分一人ではなく、仲間と一緒に協力して挑戦することも立派な挑戦だと思います。

池江選手との出会いを通して、自分があきらめない限り、思い続ける限り希望は消えないということを改めて感じました。再発という恐ろしさがあっても、再びスタートラインが引かれ、再出発という新たなステージがあります。大事なことは、自分を信じてあきらめないことです。

私は、池江選手や自分自身と闘っている人が、将来、笑顔で過ごせることを願っています。そして、この私も笑顔で過ごせると信じています。

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自分にとっての幸せ

新潟県上越市立浦川原中学校

3年 藤村 彩羽

皆さんは、自分にとって一番幸せな時間はありますか。もしも、その時間が突然奪われてしまったらどうしますか。

私が一番幸せな時間は、走り高跳びをしている時です。青空の下、広い競技場で練習している時は、何もかも忘れられる、疲れがとれる大事な時間です。でも、今年の2月、新型コロナウイルスが東京方面で流行し始めました。私は、
「どうせすぐ収まるでしょ。こっちは田舎だから大丈夫。」
そんなふうに軽く思っていました。

でも、だんだん感染者が増えていき、ついに「緊急事態宣言」が発表され、全国の学校が休校になってしまいました。そして、全国大会や県大会、通信陸上大会や地区大会など、目標としていた大会や記録会が全て中止になってしまいました。

毎年、当たり前のようにあった大会がなくなり、去年出られなかった大会に、今年こそ出てやると思っていたのに、私は何に向かって頑張っていけばいいのか、何のために部活動をしているのか、頭が真っ白になりました。悔しさと、怒りに押しつぶされそうになりました。その悔しさや怒りをどこにぶつけたらいいのかも分からず、毎日泣いてばかりの生活を送っていました。もっともっと練習して、去年、県大会や通信陸上大会に行っていれば、1年前に戻りたい、タイムスリップできたらいいなとさえ思いました。何度も何度も過去を振り返っては後悔ばかりの毎日でした。

でも、一緒に練習してきた仲間や、今まで教えてくださった先生方を思い出し、泣いてばかりでは何も変わらない、このままではダメだと前向きに考えるようになりました。

練習したい、跳びたい。

本当は家にいなければならないのに、時々、家の周りを走って気分を紛らわせようとしました。家の周りだけではなく、学校のグラウンドに行って隠れて練習したこともありました。

「やっぱり楽しい。やっぱり走り高跳びをしている時が幸せだ。」
高校に行ってからいろんな大会に出られればいいので、今できることを一生懸命やろうと、気持ちを切り替えることができました。

しばらくたって学校が再開し、部活動もできるようになりました。すると、私の耳にびっくりする情報が飛び込んできました。

「大会があるかもしれない。」
そのことを聞いた私は、うれしくてうれしくて、ますますやる気が出ました。しばらく運動しなかった分、体力も落ちて自分が思うような跳躍ができないかもしれないという不安もあったけれど、それ以上に喜びと「自分ならできる。やってやる。」という期待感に包まれました。その大会で自己ベストを出し、県大会に出場するという新しい目標もできました。目標があって、それに向けて努力することはとても楽しくて、幸せなことだと改めて実感しました。

この新型コロナウイルスの影響で目標を失っていた私たちに、新たな目標、挑戦する場を与えてくれるきっかけとなった大会を企画してくださった方々に感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。感謝の気持ちを忘れずに、大会に臨みたいと思います。大会を企画してくださった方々だけではなく、練習環境を整えてくださった先生方にも感謝し、大会で力が発揮できるように日々の練習に取り組んでいきたいと思います。

私は、思い通りにならなくて、くじけそうになることもあるけれども、それを乗り越えた先には、いいことが待っているということを体験できました。

私みたいに、後悔して落ち込んで悲しい時間を過ごすという経験をする人もいると思います。私が前向きになれたのは、新しい目標や代替案を見つけ出せたからです。現実を変えることはできなくても、現実を受け止め、気持ちを切り替えることを大切にして、自分にとっての幸せな時間を見失わないでほしいです。辛い思いを乗り越えた先には、強い心をもった、周りの人への感謝を忘れない優しい人への成長が待っています。そんな人に私はなりたいと思います。

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佳作

自分を好きになるために

新潟県立村上中等教育学校

3年 本間 心陽

私は兄のことが嫌いです。そんな自分のことも嫌いです。兄はプラダーウイリー症候群という生まれつきのハンディキャップがあります。幼い頃の兄は体が弱く成長がゆっくりで、3歳年下の私と双子のように写る写真がアルバムに残っています。小さい頃の兄は一緒にレゴブロックで遊んだり、おままごとに付き合ってくれたり、とても優しかったです。私は兄の療育や通院に付き添っていました。兄は成長とともにこだわりが強くなり、周囲の手を必要とすることもあります。几帳面な性格で、家では毎日、お風呂掃除をしてくれたり、休みの日には祖父母の畑仕事を手伝ったりしています。兄は褒められると嬉しそうな表情で顔を背けます。悪いことをした時は目を合わせず手をもちゃもちゃと動かして何も話さなくなります。そんな時は小さな子どもを見ているような気持ちになります。プラダーウイリー症候群は、過食の摂食障害もあり、家でも食事制限されています。食べたいものを自由に食べられない兄はとてもかわいそうに思います。

そんな兄と私の関係が変わってしまったのは、小学生の頃からでした。私はこれまでの間、何羽もの文鳥とハムスターを飼ってきました。なぜたくさん飼ってきたかというと、多くのペットを兄が殺めてしまったからです。兄は動物がとても好きで世話をしたがりましたが、いくらやり方を教えても加減が分からず自己流になってしまうのです。ある日私が帰宅すると、文鳥の水浴び道具にはいつもの2倍水が張られていて、中には仰向けで水に浮いている桜文鳥がいました。すぐに兄がやったことだと知り、私は兄に怒りの感情をぶちまけました。母に「世話をしてあげたいという気持ちでしたことだから」と説得され、渋々許そうと思いました。その悲しみがやっと薄らいだ夏、2羽目の文鳥を兄が窓から逃がしてしまったのです。外を自由に飛びたいだろうと思ったそうです。文鳥は自然界ではとても弱い鳥です。私は当時、登下校のたびに空を見上げて探しました。が、帰ってくることはありませんでした。悲しみに沈む私をみかねて両親が文鳥の雛を買ってくれたので、ありったけの愛情を注いで一生懸命育てました。成鳥になりやっと慣れてきたある日、3羽目は巣の中に仰向けで眠るように死んでいました。4、5、6羽目は兄の不注意で窓から逃げていってしまいました。ハムスターは遊んでいる時に落としてしまったそうです。

私が人生で一番兄に言った言葉は、「勝手に触るな」だと思います。ペットが死ぬたびに泣き叫んで兄に強い怒りをぶつけることしかできませんでした。そのうち、兄が文鳥のかごを見ていることさえ許せない、少しでも触らないでほしいと思うようになり、それがいつからか兄自体を恨んでいて大嫌いな気持ちに変わってしまったのです。思い返せば、私は兄に数え切れないほど酷い言葉を浴びせてしまい、兄の大切なものを壊したこともあります。悪いことをした兄を私が傷つけることが正しくないことは心の中では分かっていて、許さなければならないことも分かっているのに、今でも強く当たってしまう自分がいます。

私が兄にしていることは、差別なのかもしれません。私は小学生の頃、兄が同級生に靴を水につけられたり、ものを取られたりしたのを見た時、「許せない、私が助けなきゃ」という一心で上級生の男子から兄のものを取り返していました。なのに、今の私はあの頃兄をいじめていた男の子たちと同類なのでは、と感じてしまいます。

私が兄を怒鳴った時、兄は謝ることもできずずっと黙っていました。動物が大好きな兄。自分の過ちを言葉で表すことは苦手でも、悲しくないわけではないはずです。私に酷い言葉をぶつけられても動物を愛でることをやめないのは、私と同じ心を持っているという証なのだと思います。そんな兄を深く理解して、兄妹として支えていく人になれたらと思います。自分を好きになるためにも…。

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佳作

みんなオハナ

新潟県立村上中等教育学校

3年 増子 きよら

「みんなオハナ」私はこの言葉が大好きです。世界中の人たちと手をつないで笑い合っている、目を閉じるとそんなイメージを持つことができます。みなさんは「オハナ」という言葉を知っていますか。あの有名なアニメーションで聞いたことがあるという方もいるのではないでしょうか。ハワイ語で「家族」という意味です。家族と言っても血縁関係のない人も含めた広い意味での家族だ、という考え方も大切にされてきたそうです。「世界中の人々はオハナである」私はそんなふうに考えたらどんなに素敵なことだろうと思うのです。

私はアメリカ人の女の子と文通をしています。出会いはお互いが青少年ペンフレンドクラブの会員だということ。今まで勉強してきた英語がどのくらい通用するのか試してみたい、海外の友達を作ってみたいという簡単な思いつきからの出来事でした。何度も何度も辞書を引き、まだ名前しか分からない彼女を思い手紙を書きました。書いたばかりの手紙を近くにあったトートバッグにそそくさとつめ、ルンルン気分で郵便局へ歩き始めました。

「喜んでくれますように」
思いを込めて手紙をポストに投函しました。こうして、私の手紙のアメリカへの長い旅が始まったのです。

1カ月、2カ月…やっと手紙が届きました。郵便屋さんの音を聞きつけポストから手紙を受け取った私は、すぐさま世界地図の前に駆け寄りました。彼女が住むアメリカミフリンバーグを見つけました。私は日本から出たことがありません。そんなまだ踏み入れたことのない世界で私のことを思ってくれている人がいるということ。その事実が嬉しくて、私は何度もその手紙を抱きしめました。

手紙の封を開けると、2枚の便箋と1枚のポストカードが入っていたのです。「これは何だ?」とポストカードから先に見てみることにしました。「We are Amish.」
「アーミッシュ? 何のことだろう」
私はスマートフォンで「アーミッシュ」のことを調べてみることにしました。アーミッシュとは、ドイツ系移民の宗教集団のことだったのです。彼女の手紙には車を使わないこと、着るものにもルールが決まっていると記してありました。正直、私は「宗教」という言葉を聞いて怖くなってしまいました。「宗教=怖い」私の中にこんなイメージがあることに気が付いたのです。宗教の選択は自由ですが、自分が信仰している宗教を人に話す勇気は自分にはないでしょう。それを彼女は堂々としかも一通目の手紙で私に教えてくれたのです。もし、彼女と出会っていなかったら私は「アーミッシュ」のことも宗教のことも深く考えることはなかったでしょう。今では、「宗教=怖い」というイメージは消え、自分の知らない文化を知ること、尊重し合うことの大切さを知りました。お互いを思いやることができればそれはもう「オハナ」と呼んでいいのです。

2020年、日本では東京オリンピック・パラリンピックが開催される予定でした。世界は今、新型コロナウイルスと闘いを続けています。日々、私たちは不安を覚えています。感染者や医療従事者に対する心ない言葉が行き交っています。誰もこんなことになると思っていなかった。心が落ち着かずつい人に当たってしまう。心に余裕がない時こそ絶対に忘れてはいけないこと。それは、人を思いやるということです。辛いことがあった時、一人で下を向かないで隣を見てみよう。きっとあなたと同じように悩んでいる人がいるはずです。みんなで思いやり、手をつないでみよう。世界中の人々はオハナなのです。

未来は必ず訪れます。暗闇から抜け出せないともがかないで、小さな光を探してみよう。未来を輝やかせるために今を精一杯輝かせる。一人でたくさん頑張らなくてもいい。みんなで小さな頑張りを重ねていこう。一人じゃない。みんなオハナなのだから。

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佳作

継続と支えの大切さ

新潟県柏崎市立第五中学校

3年 宮崎 莉央

3月の初めから新型コロナウイルス感染症の影響で学校が休校となった。休校によって楽しみにしていた修学旅行が中止になり、卒業式には、在校生が参加することができず、三年生との最後のお別れをすることもできなかった。今まで待ち望んでいた行事がなくなり、休校期間を辛く感じていたが、私はこの機会にしかできないことをしようと思った。

休校期間中に私が取り組んだのは部活動の練習だ。私は小学校1年生の頃から野球をしている。野球を始めたきっかけは、兄弟がプレーをしている姿を見て、自分もやってみたいと思ったことだった。早い段階から始めたこともあり、野球は割と得意で、自分の中で一番自慢できることでもあった。しかしプロ野球を見てやりたいと思ったわけでも、自分から野球というスポーツを見つけたわけでもない私は、そこまで野球に熱中しておらず、自主的に継続して練習をすることはなかった。こんなふうに自分と野球との関わりを振り返りながら、私は、中学校最後の試合に向けて野球の練習に全力で取り組もうと思った。

休校期間中に一番支えになったのは兄の存在だ。兄は高校生で普段は一緒に野球の練習をすることはなかった。しかし、学校が再開するまでの1カ月間は、兄と一緒に筋力トレーニングやダッシュトレーニングなどを行うことにより、きつい練習も継続することができた。特に僕がありがたいと思ったのは、バッティング指導をしてくれたことだ。高校で野球をしている兄から、レベルの高い個人指導を受けることで、この1カ月間でバッティングが大幅に上達したように感じた。実際、休校期間を終えて久しぶりの部活動が再開すると、バッティング練習での打球の飛距離が伸びていることが目に見えて分かった。自分でも練習の成果を実感できたのだが、チームメイトや顧問の先生からも、
「休校期間中にずいぶん上達したね。」
と言ってもらえた。このことが自分の大きな自信となり、中学校生活最後の大会に向けて、さらに練習に励んだ。

ある日の全校朝会、校長先生から地区大会の中止を告げられた。正直、地区大会の中止はある程度予想していたが、やはり残念だった。せっかく再開した部活動も再び休止となり、野球に対するモチベーションを保つのが難しくなった。その後再び休校となってしまい、相変わらず野球に対するモチベーションは上がらなかった。これまでの自分ならその気持ちのまま休校期間を過ごしていたと思う。でも、今回は違った。前回の休校期間の兄との練習で自分が成長した実感があったし、きっと代替大会があるはずだ、という前向きな気持ちをもって練習を続ける自分がいた。

休校期間が明け、「青春・熱血!プロジェクト」と題した代替試合が行われることが決まった。練習が再開すると、さらに技術の上達を実感できた。何よりも2度の休校期間を含めて、練習を継続してこられたことが今までにない自信になっていた。

いよいよ最後の大会。公式戦ではなかったが、半年ぶりの試合は今までにないくらい緊張した。しかし、今まで練習してきたことを信じて、思い切りプレーをしよう! と思うと自然と自信がわいてきた。そして、僕の打順が回ってきた。

「パーンッ!」

「よっしゃっ!」

何と人生初の場外ホームラン。でき過ぎた話だが本当の話だ。

努力をし続けることは難しいが、大切なことなのだ、と実感した。今まで野球の練習にあまり力を入れたことがなかった自分でも、3カ月間本気になって練習を続けることで、成果を出すことができた。これは、どんなことにも、誰にでも当てはまることだと思う。私も、もし休校期間がなかったら、そもそもこんなに本気になって練習をしていなかったと思う。さらに、共に頑張る兄がいなかったら、きついトレーニングをわざわざ自分に課したり、真面目に取り組んだりすることは難しかっただろう。兄には本当に感謝している。

今、私は中学校の部活動を引退し、受験生という立場だが、その受験を乗り越え、高校生になったらまた野球を続けたいと思っている。だから、高校生になるまでのこの半年間は、あの休校期間の時のように、野球の練習やトレーニングを続けようと思う。そして、高校入学後の野球人生に備えたい。

私が高校に入学すれば、兄は大学進学で家を出るだろう。そうすると、一緒に練習する相手も、さぼったときに叱ってくれる人もいなくなってしまう。でも、休校期間中に学んだ「継続することの大切さ」と「できる自分への自信」をもって努力していこうと思う。

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佳作

「やってみよう」

新潟県上越市立安塚中学校

3年 横山 紬

人間関係がうまくいかず、不登校になってしまった私。「不登校は恥ずかしい、かっこ悪いことなんだ。」そう言いながら、毎日毎日泣いていました。

そんな私に、父と母があるフリースクールを紹介してくれました。自宅から比較的近く、自然に囲まれた「やすづか学園」です。泣いてばかりの私に根負けせず、励ましてくれる両親の姿を見ていた私は、はじめから「行かない」と拒絶するのが申し訳ないような気持ちになり、一度行ってみることにしました。

学園は、車で1時間ほどのところにありました。私は、この1時間の間ずっと、「やすづか学園ってどんなところなんだろう、どんな人たちがいるんだろう」と、そればかり考えて落ち着きませんでした。到着してまず目に飛び込んできたのは、山に囲まれた学校の建物でした。大きな山が、黒く大きな生き物のように見えた気がしました。泣きそうになり、なかなか玄関に入れずにいる私を、スタッフの皆さんが笑顔で迎えてくれました。不安ばかりが先に立ち、目の前の笑顔の人たちにすぐに気付くことができなかった自分に、私は驚きました。皆さんの笑顔に触れ大きな安心感を覚えました。私は学園に通うことを決めました。

やすづか学園に通うようになってからは、毎日があっという間に過ぎていきます。毎日が楽しくて仕方がありません。すでに学園に通っていた他の生徒との会話はもちろん、あいさつさえままならなかった自分が、今こんな気持ちでいられるなんて、と時々思うほどです。ここに通う生徒と一緒に勉強したり、農作業で汗を流したり、カヌーに挑戦したりと、同じ体験を重ねることが、今まで何の接点もなかった学園の生徒を、「学園の仲間」に変えていったのだと思います。そして、私たち「学園の仲間」には、「普通の学校」ではうまくいかなかった、うまくなじめなかった挫折感のような思いを、心のどこかに抱いているという共通点があります。この思いを乗り越えて、一緒にカヌーを漕いだり花を育てたりしているのが、お互いに何となく理解できるのです。

学園で生活をするようになって半年ほどの間に、私は友達と何気ない会話を交わしたり親元を離れて学園寮で生活したりするようになりました。そうした毎日を過ごすうちに、笑顔でいる日が増えていきました。「不登校は恥ずかしいことなんかじゃない。不登校だからこそ新たに学べたことや体験できたことがあるんだ」と思えるようになりました。

行くだけ行ってみよう、入ってみよう、話してみよう…不登校の私になって以来の数々の「やってみよう」。それは、今思えば、とても小さな「やってみよう」でした。でも、それを積み重ねたことで、私は不登校だった自分を受け入れ、自分に対する自信と将来の希望をもてるようになったのです。また、両親や学園の仲間とスタッフの皆さん、地域の方々が、私の小さな「やってみよう」をいつも応援し、支えてくださいました。温かい人たちの存在に気付き、幸せだなと感じます。

時が経つのはあっという間で、受験を強く意識する時期になりました。今の私は、相変わらず学園の皆さんに支えられて、受験勉強に励んだり、進学希望先を決めるための高校見学に参加したりしています。また、近くにある安塚中学校の生徒として籍を置き、学園に通いながら安塚中学校の先生方からも、学習や受験のために支援をしていただいています。

私は将来、以前の私のように悩み傷つき苦しんでいる子どもを安心させ、勇気づける仕事に就きたいと思っています。そのためにも真剣に高校を選択し、受験に向かっていきたいです。

ささやかな体験の積み重ねは、私を大きく成長させてくれました。この成長が、自分の未来に待つ、受験という新たな挑戦の原動力になっていると感じます。自分に自信をなくしてしまうようなことがいつかまた起こるかもしれません。そんな時は自分にできる「やってみよう」を自分で探し、また積み重ねていくつもりです。

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総 評

実現したコロナ禍の作文コンクール

元信州大学教授
元文部省初等中等教育局教科調査官

澁澤 文隆

令和二年は、本来ならばオリンピックイヤーであり、感動や活力あふれる年になるはずでした。しかし、実際には新型コロナウイルス感染症対策に追われる日々が続き、全く予期していなかった命や健康が問われる年となってしまいました。そうした状況下で、学校も全国一斉の休校措置がとられ、授業ばかりか運動会、修学旅行等の学校行事、そして部活動も休止・中止措置が相次いで取られ、心豊かな体験・学習の場が失われました。そして、本作文コンクールの開催も問われ、開催が危ぶまれました。しかし、こうした時代であっても子どもたちは様々な挑戦をし、様々な学習や体験を積み重ね、考えたり感じたりして成長しています。そうした体験や思いを発表する機会を奪ってしまってよいのか、こうした年だからこそ中止にしないで開催する道を模索するべきではないのか。関係各機関、関係者の真摯な検討、調整の上に、後者の主張が支持され、今日を迎えました。それだけに今回は一層、本事業を主催、後援、支援してくださった関係各機関、関係する皆様方に敬意を表し、深甚の謝意を申し上げます。

さて、中学生は、命や健康が問われる一方、努力の結晶である大会や発表会などが中止になった年に、どんな場でどんな思いや体験をし、どんな作文を綴ったのでしょうか。期待とともに不安もよぎりましたが、応募校は約400校、応募作品数は約17,000編に達し、例年にも増して多様な視点からの力作が揃い、審査も白熱しました。そうした中で、今回、頂点の最優秀賞に輝いたのは、害鳥駆除をテーマに青年期にある中学生が社会への異論を唱え、その思いを体験に根差して生き生きと力強く綴った山形県の佐藤充朗さんの「命と向き合う」という作文でした。中学生の時期に、害鳥駆除という場に遭遇し、何を感じ考えたか、関心を抱きながら読んでいただけたらと思います。

コロナ禍の影響は多かれ少なかれ中学生にも及んでいますが、それが何らかの形で作文に現れ、優秀賞に輝いた作品が3編ありました。宮城県の鈴木心晴さんの「閉塞感の中で見つけた一つの夢」、岩手県の関谷佑恭さんの「『知』を求めて」、福島県の小野釉花さんの「おいしい実を実らせるまで」がそれらです。しかし、その影響は三者三様です。鈴木心晴さんの作品は、コロナ禍における自分本位の感情を大きく揺さぶった新聞記事に出会い、自分が受けたいじめとも関連付けながら進路、研鑽の方向を見出していく様子が生き生きとした文で書かれています。関谷佑恭さんの作品は、コロナ感染症から人類を救うのは医学だけではないことに気付き、多角的アプローチと「知の統合」の意義を力強く主張しています。小野釉花さんの作品は、栽培するトマトの様子を様々なアングルから撮影する中で不登校の体験とも関連付けて「支え」の役割に気付き、それを反映した作品を作ったが、コロナ禍で文化祭が延期となり、お預けになったという作文です。これらの3作品から、コロナ禍においてもたくましく生きる中学生の姿を読み取っていただけたらと思います。

作品上はコロナ禍の影響を受けずに書き、優秀賞に輝いた作品が3編あります。秋田県の谷藤翔太さんの「三味線と共に」、青森県の吉崎心渚さんの「記憶のリレー」、新潟県の神田このはさんの「自分らしく」がそれらです。谷藤翔太さんの作品は伴奏楽器としての津軽三味線に魅かれ、自ら挑戦、精進している様子が生き生きと力強く書かれています。吉崎心渚さんの作品は、曾祖父の葬儀において悲観に暮れるのではなく、弔問客の曾祖父への語らいを通して心豊かな思いになる心情の変化をしとやかな文章で書いています。神田このはさんの作品は、ややもすると秘密にしておきたい過去を今の自分を築いたものとして位置づけ、前向きに生きようとしている姿勢がしっかり綴られています。これら3作品はいずれも自分が大切にしている視点から綴っており、中学生の心情を読み取っていただければと思います。

学習指導要領は“主体的、対話的で深い学び”の学習指導を期待。要請しています。そうした協働的で探究的な営みは、換言すれば音声・文字言語を基礎に多面的・多角的な思考活動や帰納的、演繹的な思考活動などを展開し、独創力や表現力などを磨き伸ばす営みということもできます。そして、それに伴う言語能力を磨き伸ばすにあたっては、起承転結を考慮して内容構成を工夫したり、新聞の見出しに学んで作文タイトルを考えたりする作文の営みが最適です。LINEやSNSなどの単語的、短文的な対話、交流を積み重ねても伸びません。改めて本作文コンクールの継続・発展を祈念します。

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総 評

今年は力作が揃った

作家

高橋 克彦

今回の最終選考会には私のやむない事情から申し訳なくも欠席する事態となった。ただ、それぞれの応募作品については何度となく読み返し、詳細な選評と採点を提出してあったので、あとは他の選考委員の判断にお任せすればいい、と呑気に構えていた。今年は各県ごとに必ず1点は読み応えがある作品が揃っていたので、それほど紛糾するはずがない、と踏んでいたこともある。

そして結果が届けられ……うーん、と思わず唸ってしまった。最優秀賞、優秀賞に選ばれた7作品は、ほとんどが私も各県においてのベスト1に選んでいたものだからなに一つ文句はない。ただ、最優秀賞に関しては間違いなく秋田県の谷藤君が選ばれる、と信じていたのである。学んでいる三味線に対する情熱と愛の深さ。三味線の面白さの叙述。三味線への興味をそそられる歴史。どれをとっても唸ってしまう的確な文章で、まさに好きこそものの上手なれ、の典型でもあった。この文章コンクールの選考委員を仰せつかって何年にもなるが、短文でありながらここまで高揚感に溢れ、かつ見事に纏め上げたものを読んだ記憶がない。私までが三味線を習ってみたくなったほど、と書けば当方のこの作文に接しての興奮が分かっていただけよう。難があるとするなら、中学2年生という若さで本当にそこまで本質を突き詰めることができるだろうか、という疑念だろうが、モーツァルトがわずか5歳で作曲したことを思えば、才能や感性の鋭さは年齢と関わりがない。谷藤君の作文にはそう信じさせる力が漲っていた。

一方の、最優秀賞に輝いた山形県の佐藤君。これも見事な作文。論文調にも読み取れる谷藤君のものとはまさに真反対の躍動感に満ちたリアリティ溢れるドキュメント。文章に多少粗さが感じられたものの、読み応えとしては正直この作文に激しく心を揺さぶられた。ことに後半に到っての、自ら弱った鷺の首を折って死なせる場面には少なからぬ衝撃を覚えた。佐藤君の苦悶と人間中心の世の中に対する怒りが真っ直ぐ読み手に伝わってくる。

最終選考会で果たしてどれとどれの作品が最優秀賞争いを競ったのか、欠席していたため分からないが、もしこの2作品だったとしたら、私も土壇場で迷わせられたかもしれない。確かに細部の描写や表現力では秋田県の谷藤君に軍配を上げたくなるが、直球勝負で乱暴とも思えるほど読み手に迫る佐藤君の剛腕には思わずたじたじとなってしまう。そして、普遍的な訴えに頷くしかない。

結局は順当な最終選考会だったのだろう、と私もこれを書きながら納得できた。

もう一つ、私にとって記憶に残る作品があったのを記しておきたい。

とても中学1年生とは思えないほど見事な文章力と構成の上手さを披露してくれたのは青森県の吉崎さん。

灰色の空の下、と冒頭から綴り始め、見事な状景描写を導入として、なんの気負いもなく本文へと読み手を誘う。作文、と言うより短編小説を読んでいるゆったりとした気分にさえなる。その場の空気感さえ確かに感じられる。ことに会話が生き生きとしている。ただただ感心した。決められたテーマではなく、自由なエッセイのコンクールであったならもっと高い評価がなされていたはずだ。将来が楽しみな才能と信じて疑わない。

東北に力漲る若者たちが生まれ始めている。

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総 評

逆境の中で書くということ

河北新報社常務取締役

鈴木 素雄

2020年はどんな年として記憶されるのでしょう? 中国の一都市を発生源として、新型コロナウイルス感染症という未曽有の疫病が世界中にまん延した年と万人が答えるでしょう。ワクチンが開発されようやく収束に向けた希望が見え始めていますが、特効薬はなくいまだ多くの人が不安と恐怖にさいなまれています。

本来であれば青春まっただ中、友人と勉学や部活にいそしんでいたであろう中学生も一時期、接触を禁じられ、巣ごもり生活を余儀なくされることに。故なく「非日常」に突き落とされた口惜しさは、いかばかりだったかと推察します。

第46回中学生作文コンクールには399校から1万6,903編の応募がありました。昨年より84校、665編減少したのは少なからずコロナ禍の影響があったのでしょう。それでも、作品はどれも審査員泣かせの力作ぞろい。困難な状況の中で挑戦や成長をしようとする真摯(しんし)な姿勢が行間から伝わってきました。

「疾風に勁草(けいそう)を知る」ということわざがあります。困難や試練に直面した時、初めてその人の意志の強さや人間としての値打ちが分かる、というほどの意味です。逆境に向き合った経験を書き留めておくことは、たとえそれが挫折に終わったとしても一生の財産になります。きれいな答えなど出さなくていいのです。書くことで自己を対象化でき、きっと新しい発見があるはずです。

最優秀賞を受賞した南陽市立赤湯中3年佐藤充朗さんの『命と向き合う』は、害鳥駆除に従事した実体験から命の軽重を問うという重いテーマに取り組みました。フン害など生活環境を悪化させるサギは、人間にとっては迷惑至極な存在です。でも、彼らにも生存権があります。種の保存のため、ひなに給餌しようとしていた親鳥の死を目の当たりにして、あるいは同じサギでも希少種は駆除を免れる現実を前にして、佐藤さんは「命の選別」に強い違和感を覚えます。

自然界の一員でもある人間として「共存の道」を探ろうとする佐藤さんの結論は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。東北で近年、多発している熊による被害も同様の文脈で考えることができるでしょう。コロナ禍も人間が野生動物の生息領域に侵入した結果、引き起こされたとの見方が有力になっています。葛藤を乗り越え、解決策を探ろうという佐藤さんの筆致に深い感銘を受けました。

コロナ禍で深まった人間同士の分断。仙台市立幸町中2年鈴木心晴さんの『閉塞(へいそく)感の中で見つけた一つの夢』は、米国の看護師が患者に掛けた一言を新聞で読んで触発された作品です。それは「よく頑張ってここまで来てくれましたね」。幾度も診療拒否に遭い、周囲からも冷たい視線にさらされた患者にとって、それはどんな薬よりも効く福音だったに違いありません。

鈴木さんはこのエピソードをわが事に引きつけます。いじめに遭った時、一人の友人が隣で変わらず接してくれたことが救いになったこと。キーワードは鈴木さんも指摘している「寄り添い」です。将来は看護師を目指すという目標にエールを贈りたいと思います。

父親の祖国アイルランドの歴史と伝統を達意の文章で描いた尾花沢市立尾花沢中3年西尾セルシャさんの『思いを受け継ぐ』も、印象に残りました。国際化とは民族の多様性や誇りを互いに認め合うことから始まります。想像の翼を広げ、コロナ禍が収まったら他国の文化にじかに触れてみることも成長の糧になるに違いありません。

老若男女が先の見えないコロナ禍におびえ、いらだち、絶望しかかっている今、必要な心構えは何だろうかと考えます。そんなとき、作家で精神科医でもある帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんが唱える「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方に出会いました。それは「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」のことです。

性急に結論を求めず、自己との対話を通じて問題を深掘りせよ。コロナ禍は人類にそんな宿題を出しているように思います。期せずして、本年度の作文コンクールはさまざまな奥深い言葉に出会えたような気がします。来年も健闘をお祈りします。

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